小川未明の転向

 既に小川未明について3回に分けて述べてきました。最後に、作家としての未明と彼の政治的な転向について考えてみましょう。それは未明の童話作品への評価と作家としての未明への評価の違いに関わることです。画家や音楽家の場合、作品と作者は大抵の場合区別されていて、作品の評価と音楽家や画家の人間評価は別のものであると考えられてきました。画家の素行と作品の価値は別ものと看做されてきました。でも、文学の場合、作家と作品の間には密接で、複雑な関係があると考えられていて、それは評論の主要な主題、領域とさえ捉えられてきました。

 私小説は自伝的小説でもあります。一方、小説は作家が虚構の世界を構築することですから、作家と語り手と主要人物が同じことを前提にした私小説では、作家の「私」をできるだけ事実に近い形で叙述することと虚構世界をつくることとは相反する行為になっています。作家と語り手と主要人物が同一であって、作家個人の姿をできる限りありのままに描写しようとすれば、それは自伝や日記になるしかありません。逆に、小説であることを追求すれば、その題材を作家の身辺的な事柄に限定せずに、想像力によって虚構の世界を構築しなければならなくなります。

 小林秀雄がルソーの『告白』を私小説の原型とみなす理由は、ルソーが自己認識、自己探求を徹底的に行ったからです。そして、小林が強調するのは、ルソーの試みを徹底すれば、自己を取り巻く他者や社会を自らの問題にせざるを得ない点です。ルソーは自己と社会や自然と対決し、逃げることなく、徹底的に立ち向かったということです。小林が日本の私小説に不満を抱くのはこの点で、日本の私小説において描かれる「私」は、社会化されていないと批判するのです。

 さて、小川未明は小林秀雄が固執する私小説の「私」を自らの童話で使うことはありませんでした。童話の主人公は大抵子供であり、未明自身が「私」として作品中に登場することはまずないのです。未明が私小説を書いていたなら、上記の小林秀雄の批判やルソーの試みに対して、どのように反応するでしょうか。未明は自らの転向について反省めいたことを述べていないので、何とも言えませんが、もし彼が童話の中に自らを登場させようとしたなら、「私」は転向をどのように告白するのか、私にはとても興味深いのです。私には彼の二回の転向を読者に納得させる仕方で述べるのは不可能としか思えないのです。

 日本の児童文学は近代文学成立とほぼ同時期に確立されました。巖谷小波による『こがね丸』や小川未明の第一童話集『赤い船』(1910年)が始まりとされます。1918年には鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』が刊行され、芥川龍之介、有島武郎、北原白秋などが参加し、後に新美南吉らを輩出、児童文学の発展に貢献しました。

 ある夜のこと、人魚のお母さんが神社の石段で赤ん坊を産み、赤ん坊は町の蝋燭(ロウソク)屋のおばあさんが拾って育てることになった。老夫婦には子供がいなかったのだ。二人は娘をとてもかわいがった。娘は少しずつ大きく育ち、家の蝋燭に赤い絵の具で絵を描くのが好きになっていた。しかもその蝋燭はたいへんよく売れた。その蝋燭でお宮にお参りすると、船が沈まないと評判になった。ある日、南国から香具師(やし)がやってきて、娘が人魚であることを知った。そこで、彼は買い取って見世物にしようとした。最初老夫婦は断っていたが、ついに大金に迷わされて娘を売ることにした。香具師は鉄の檻をもって娘を迎えにくるという。娘は泣く泣く最後の蝋燭に絵を描いた。悲しさのあまり真っ赤な絵になった。娘は連れていかれた。

 その夜、蝋燭屋の戸をトントンとたたく音がした。おばあさんが出てみると、髪を乱した青白い女が立っていた。「赤い蝋燭を一本ください」。おばあさんは娘が残した最後の蝋燭を売った。女が帰っていくと、まもなく雨が降りだし、たちまち嵐となった。嵐はますますひどくなって、娘の檻を積んだ船も難破してしまった。そして、赤い蝋燭がその町にすっかりなくなると、その町はすっかり寂れ、ついに滅んでしまったという。

 こんな話が「赤い蝋燭と人魚」です。1921(大正10)年の小川未明の代表作。小川未明が生まれた越後高田の冬は暗く厳しい。父は神道の修行者で、上杉謙信を崇拝し、彼の神社創設を願う烈しい気性の持ち主でした。未明は早稲田大学で坪内逍遥、ラフカディオ・ハーン、島村抱月、正宗白鳥に出合い、「未明」は逍遥からもらっています。彼は新浪漫主義の作品を書き、1906(明治39)年には坪田譲治や浜田広介らと「青鳥会」をつくります。4年後、未明は最初の童話集『赤い船』を出しています。

 未明の作品に注目したのは大杉栄でした。未明は大杉との出会いをきっかけにアナーキーな空想社会主義の夢を見ます。そして、東京朝日新聞に『赤い蝋燭と人魚』が連載されました。未明は「童話の神様」とか「日本のアンデルセン」と呼ばれてきましたが、戦時中に社会主義者から国家主義者へ転向します。さらに、戦後は民主主義者に二度目の転向をするのですが、昭和21年野間文藝賞、昭和26年芸術院賞、昭和28年芸術院賞、文化功労者と続き、未明の名声は絶頂を迎えます。でも、その後、一挙に批判の嵐にさらされることになります。古田足日、鳥越信らによる痛烈な批判活動が起こるのです。未明童話は呪術的、呪文的であって、未熟な児童文学という批判で、まだ未明の転向についての批判ではありませんでした。

 『転向者・小川未明 「日本児童文学の父」の影』は増井真琴著で、出版社は北海道大学出版会(2021)。彼が北海道大学に提出した博士論文がもとになっています。その私なりの要約をしておきます。未明の大正期の童話作品にのみ光が当たり、社会主義者から国家主義者への転向、そして戦後の民主主義者への再転向はほとんど知られていません。その転向の実態を知ると、童話作家のイメージは崩れていきます。漢詩を愛する文学少年は早稲田で口語自由詩を紡ぐ詩人となり、童話を中心に作家活動を続け、社会主義思想やアナキズム運動に関心を持ち、大杉栄との交流を深め、革命後のロシアを「正義の国」と称賛します。それが、昭和になると一転し、天皇制国家主義者に転向します。戦後は再転向し、民主主義者に転じ、児童文学者協会の最初の会長になり、戦時の日本社会を強く批判するのです。では、未明はなぜ転向に関して、弁明、反省をしなかったのか。著者は、未明を自己と向き合わない作家と結論しています。小林秀雄風には、「私」を自ら社会化しなかったのですが、その徹底ぶりは見事で、「作品だけで評価する」ことが何を意味するか、改めて考えざるを得ません。