謎の裸形上人

 2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され、その中の西国三十三所観音霊場の第一番札所である那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)は熊野那智大社とともに熊野信仰の中心寺院。裸形上人(らぎょうしょうにん)はその寺院の開山と伝えられるインドからの僧。仁徳天皇の時代、熊野の浦に漂着し、那智の滝で厳しい修行を重ねるうちに観世音菩薩を感得し、滝壺から小さな観音を得て草庵を結んだとされます。この庵が後の那智山青岸渡寺の起源。裸形上人が「観音感得」と「開山」の起点となり、約200年後に大和から来た生仏(しょうぶつ)上人が椿の霊木で如意輪観音を造像し、その胎内に裸形上人感得の小像を納めて本尊としたというシナリオが生まれました。

 裸形上人は歴史的な実像というより、那智の滝を中心とする熊野信仰・観音信仰に「インド由来の古さ」と「行者としての修行イメージ」を与える開山伝承上の人物です。那智の滝周辺が各宗派の行者たちの修行場とされてきた伝承でも、その始まりの行者として語られます。裸形上人は青岸渡寺や補陀洛山寺の「寺伝」、「縁起」に登場する開山僧で、仁徳天皇の頃に熊野浦に漂着し、那智大滝で修行して観音像を感得、草庵を結んだことを開基とする、と伝えられています。しかし、このような「仁徳天皇期のインド僧」という具体的な物語は奈良・平安の古い公的記録には確認されず、現存する中世以前の確実な史料にも遡れません。現在の説明の多くは近世以降の縁起や名所記に依拠しています。

 江戸後期の『紀伊国名所図会』では、熊野那智山の開山として裸形上人が取り上げられ、さらに西国三十三所に関わる仏眼上人と同一視する説まで紹介されます。それ故、現在知られるような「仁徳天皇期のインド僧・裸形上人が那智大滝で観音を感得し、青岸渡寺・補陀洛山寺を開く」という物語は少なくとも中世末から近世初頭にかけて整えられ、江戸時代の名所記の中で定着したと考えるのが妥当です。

 では、裸形上人が関山神社の開祖という根拠はあるのでしょうか。裸形上人が関山神社(妙高山・関山三社権現)の開祖という話は、那智山側の古縁起ではなく、越後側の近世以降の縁起や社伝が作り上げた伝承であり、「那智の裸形上人=関山神社の開祖」と断定できる一次史料はありません。日本歴史地名大系の「関山神社」の項目は、妙高山・関山権現について次のようにまとめています。宝蔵院が天保十二年に東叡山へ差し出した分限帳には「開山 裸形上人」と記される。さらに、「『関山神社縁起』によると、元明天皇の和銅年間、裸形上人の開基で関山三社大権現と称した」と要約しています。これらは、いずれも「妙高山(関山三社権現)の開山・開基は裸形上人」と明記しています。妙高側の文書や縁起に裸形上人開基とあるが、それを那智の裸形上人と同一人物とみなすのは年代的に無理があり、熊野系修験の権威付けとして後から付会された名称と考えられることになります。「関山神社の開祖=裸形上人」という伝承自体は、関山側の縁起・分限帳・入峯先達状など近世以降の文書に根拠がありますが、「その裸形上人が那智山青岸渡寺の裸形上人と同一」ということを直接に保証する古い一次史料はありません。

 では、関山神社側の資料は信頼できるのでしょうか。妙高・関山の資料をどこまで信頼してよいかです。「関山神社縁起」による「和銅年間の裸形上人開基」という説も、創建の物語化として読むべきで、年代や人物像をそのまま歴史的事実とはできません。「関山神社側に、裸形上人開基とする伝承がある」こと自体は近世文書に明記されています。ただし、それをそのまま「歴史的事実」と読み、那智山の裸形上人と一人の実在僧として結びつけることはできません。

 祭りの当日にこんな不確実な伝承を述べても致し方ないのですが、昔から続くしきたり、伝承、祭りなどはほぼどれも物語化されたものだということを認識すれば、当たり前のことだと納得できます。

ラシャカキグサ(羅紗掻草)の花

 学名はDipsacus fullonum、和名は「オニナベナ(鬼なべな)」、「ラシャカキグサ(羅紗掻草)」で、ユーラシアとアフリカ北部原産のスイカズラ科ナベナ属の越年草です。

 ローマ時代には葉がハーブとして利用され、化膿止めの薬効があるとされました。太い茎には硬い棘があります。夏に、すらっと伸びた枝先に淡紫色の頭花を咲かせます。花後に棘のある小葉が出ます。

 ティーゼル(teasel)にはフロヌム(Dipsacus Fullonum)の他に、サティウス(Dipsacus sativus)があり、画像はフロヌムです。オニナベナの頭花は卵球形で、花は頭花を巻くようにリング状に咲き始め、その後、上下に咲き広がっていきます。その変わった咲き方のため、日本では鑑賞用として人気があります。

 「ラシャカキグサ(羅紗掻き草)」という名前は、花序の小苞の先端が鉤状に曲がるのを利用して羅紗の起毛に使ったからです。明治時代に植物がヨーロッパから導入され、織物工業の盛んな大阪の泉州地域で栽培されていました。最近では大部分が針金製に代わってしまいましたが、ラシャカキグサほどの弾力性がなかなか出せないために、ビリヤード台の緑の羅紗をとく櫛には、この植物の花序が使われることがあります。

 

夏のクロコスミアの思い出

 クロコスミア(ヒメヒオウギズイセン)の花言葉は「楽しい思い出」。そのせいではないが、クロコスミアは私の子供の頃の夏の大切な思い出の一つ。子供の頃、「クロコスミア」という名前など知る由もなく、田畑の端で咲いていた赤い花群がいつの間にか私の中で物化した記憶のように今も残っている。クロコスミアは夏の暑い日も夕立の中でもいつも平然と咲いていた。あぜ道などでよく見ていたのだが、それを何と呼んでいたのかは私の記憶の中にはない。祖父母が何と呼んでいたのか、それもすっかり抜け落ちている。でも、形や色の花姿はしっかり脳裏に焼き付いている。考えるまでもなくて、子供の頃の植物など、その大半は名無しの権兵衛。今の湾岸地域でクロコスミアを見ると、ほぼ反射的に子供時代の夏の日々が蘇ってくる。

 クロコスミアは「ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)」の和名で古くから栽培されてきた。細長い剣状の葉が群生し、夏に色鮮やかな花が穂になって咲く。南アフリカ産で、世界中で野生化している。クロコスミアが日本へやってきたのは明治時代中期。以降は「ヒメヒオウギズイセン」という名前で普及していった。ということから、我が子供時代はヒメヒオウギズイセンという写実的で文学的な名前で呼ばれていたことになる。

 今私が住む湾岸地域にも確かにクロコスミアが植えられ、私の子供の頃の夏の思い出の引き金になっている。朱色が鮮やかで、繁殖力が強く、葉がヒオウギに、花がスイセンに似ていて、小型なので、それらを一緒にして名前がつき、それが「ヒメ-ヒオウギ-ズイセン」となっている。

 

夏のヒオウギの花

 橙色に赤い斑点が入ったヒオウギ(檜扇、桧扇、日扇、Iris domestica)の花が暑い中で今年も咲いている。オレンジ色で斑点のある6弁花が見事で、暑さになど負けていない。アヤメ科のヒオウギの別名は「カラスオウギ」。ヒオウギは主に西日本の山野に自生する多年草で、朝鮮半島や中国、インドにも分布する。

 黒の枕詞に使われる「ぬばたま」はこのヒオウギの種子のことで、種子は丸く、真っ黒でツヤがあるのが特徴。『万葉集』では黒や夜、夕などの枕詞として使われている。平安時代の『古語拾遺』によれば、厄災が村を襲った際、ヒノキでできた扇「檜扇」で扇ぐと、村が元通りになったという話があり、その檜扇と似ていることから同じ名前で呼ばれるようになった。ヒオウギは病気にかかりにくく、葉も長持ちするため、魔除けの花とされてきた。そのため、疫病退散を祈願する祇園祭の期間中、京町家の軒先や床の間などに飾られる。

 

ユリズイセンの花

 ユリズイセン科のユリズイセン(Alstroemeria pulchella、百合水仙)は世界中で広く栽培され、USA、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランドなどに帰化しています。ニュージーランドではNew Zealand Christmas bellとして親しまれています。日本でも野生化したものが見られ、古くから「ユリズイセン(百合水仙)」と呼ばれてきました。アルストロメリアの原種と言われ、花色は赤で縁が緑色、花被片の内側に褐色の筋状の条斑が入ります(最初の二枚の画像)。

 さて、私たちが園芸でよく知っているアルストロメリアはチリを中心に南米に60~100の原種が分布し、その花姿から「ペルーのユリ」、「インカ帝国のユリ」などの異名があります。外見は随分違うように見えるのですが、こちらも和名は同じ「ユリズイセン(百合水仙)」。渡来は1920年代ですが、当時は広く普及せず、本格的に栽培されるようになったのは1980年代以降。アルストロメリアはオランダで品種改良が盛んに行われ、それらが日本にも多く入ってきました。

 ユリズイセン科のアルストロメリアの和名も「百合水仙」で、南アメリカ原産。昭和初期に渡来。5~7月頃に、画像のような色あいの花が開く。花びらの斑点が特徴で、花持ちがよい。アルストロメリアは球根の植物。鉢植えでも地植えでも育つ。アルストロメリアの葉は茎からその背を伸ばすが、根元の所で反転してそのまま育つ。そのため、私たちが見ている葉は裏返しになったもの。そして、茎の先端に花がついている。アルストロメリアの咲かせる花は花弁が6枚。外側と内側3枚ずつで、形が違う。外側は大きく丸みを帯びた花、外側よりもひと回り小さな花びらが内側に3枚ある。そして、花弁にはまだら模様、縞模様がついていて、それがどれも微妙に異なっている。

*アルストロメリアはWikipediaではAlstroemeria属として紹介され、最後の三枚の画像がアルストロメリア。画像をよく見比べるなら、いずれもAlstroemeria属であることがわかる。原種としてのAlstroemeria pulchella(ユリズイセン)という狭い意味とアルストロメリア属=ユリズイセンという広い意味が、園芸では混在している。

 

関山神社の火祭りのポスター

(今年の5月30日に「火祭りのポスターを見ながら…」というタイトルの記事に今年の火祭りのポスターを加え、ほぼ同じ内容のものを再掲載)

 最近はポスターを見なくなった気がするが、考えればすぐわかるように、紙媒体の使用が随分減り、スマホで画像を見ることで情報を得たり、伝えたりすることが当たり前になっている。だから、余計に映画や祭りのポスターを見たくなるのかも知れない。そんなことを思いながら、関山神社の火祭りのポスターをモニターで見ていたのだが、そのポスターの中身が妙に老人の好奇心を掻き立てたのである。

 ポスターは今年2026年、2025年、2023年のもの(画像)。三つのポスターに描かれた図柄も文句もとてもよく似ていて、同じ情報を同じように伝えようという意図がはっきりしている。だから、三つの異なる図柄、情報のポスターと考えるより、同じ図柄で同じ情報を伝える一つのポスターと看做して、ポスターの内容を考えてみよう。

 棒を遣っている仮山伏たちはいつも股を開いて身体をしならせているが、あの動作には何か特別の意味があるのだろうか。「棒遣い」演武の技や技術を含めた解説があるのか、とても知りたくなる。演武の解説だけでなく、ダンスや日本舞踊のように演武の技の習得をしたくなる人がいるのではないか。子供の演武もあるようだが、子供の場合は男女区別なくできるのだろうか。女性の演武も見たくなる人は女性に限らず、少なくないだろう。

 比較的大きな文字で「妙高山」と「関山神社」が(それぞれのポスターで縦と横に)並び、普通に「妙高山関山神社」と読む人が多いのではないか。仏教寺院の場合は山号と寺号が並び、例えば「比叡山延暦寺」となるのだが、神社の場合はどうだろうか。神社には神宮、大社、宮、神社といった区別はあるが、山号と寺号の区別はない。だが、「妙高山関山神社」は山号と社号があるかのような印象を与えている。白山という山を神社名にしたのが白山神社だが、私たちは「白山白山神社」とは言わない。

 「宝蔵院流の流れを汲む棒術」という表現は「棒遣い」の内容と由来を併せて表現していると思われる。宝蔵院は江戸時代に関山神社の別当寺だったから、その宝蔵院に伝わる棒術だと信じる人が何人もいる筈である。だが、私が思い出すのは子供の頃の漫画「赤胴鈴之助」の中に登場する宝蔵院流の槍術である。その宝蔵院は奈良の興福寺の塔頭子院で、槍術で有名である。修験道の棒術と僧兵の槍術は随分と違う。山伏と僧兵はどちらも宗教者だが、棒と槍は性格が異なっている。僧兵における槍術は戦での集団戦を前提とした「戦場武芸」として発達し、後に個人武芸として体系化された。だが、山伏や修験者にとっての棒術は修行や呪術的実践のためであり、演武には宗教的象徴性が強く付与されている。山伏は法力と武力が重なり合う存在と捉えられていて、武技は護法・護身・祈祷と連続している。このように僧兵と山伏の違いを強調してみると、「宝蔵院流の流れを汲む棒術」が何を意味しているのか分からなくなってくる。だが、もし関山の宝蔵院に流派になった棒術があったことがわかっていれば、「宝蔵院流の棒術」の方が直接的で、よくわかる表現だろう。

 「千三百余年の伝統を今に伝える火祭り」と続けて読むのだろうが、多くの人は関山神社が長い歴史を持つことを感じながら、「千三百余年」がちょっと気になるのではないか。多分、関山神社の創建が708(和銅元)年と伝えられていることに拠って、2026年から708年を引けば、答えは1318年で「千三百余年」となる。ところで、2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたが、その中の西国三十三所観音霊場の第一番札所である那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)は熊野那智大社とともに熊野信仰の中心寺院である。仁徳天皇(313-399)の時代にインドから来た裸形上人が観音信仰を広げ、この寺と熊野那智神社を開くが、それが400~500年頃とされている。関山神社の創建も裸形上人と伝えられていて、それが708年となると、上記の裸形上人と同一人物だとすれば、時代が随分とずれていることがわかる。

 ポスターを重箱の隅をつつくように吟味する厭な奴だと思われるような内容になってしまったが、神社や祭りの由来や歴史は何処でも似たり寄ったりで、それこそが民俗遺産の際立った特徴なのである。言い伝え、伝承、習慣、しきたりといったものはどれも正確に記録された歴史ではなく、AIが不得意とする曖昧な記録の集まりである。だからこそ、伝承されてきた形や動作、しきたりや習慣を適切に残すことが必要となる。

 こうして、三枚のポスターは関山神社の火祭りの内容がどのような遺産なのかを火祭りを契機にして考えてほしいことを切実に訴えているのだ、と解釈するのが天邪鬼老人のとりあえずの結論である。

 

アセビの実

 アセビ(馬酔木、梫木)はツツジ科アセビ属の常緑低木。日本に自生し、湾岸地域でも公園や庭でよく見かけます。別名は「あしび」、「あせぼ」。開花時期は3月から4月中旬で、壷形の花を咲かせます(画像)。花の色は、薄紅色、あるいは白色。

 枝葉に「アセボチン」という有毒成分が含まれていて、馬が食べると、酔って足が萎えることから「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、それが変化し、「アセビ」となりました。

 『馬酔木』は1903(明治36)年に正岡子規の「写生」の歌を発展させるために創刊され、1908年(明治41年)に終刊した根岸短歌会の短歌雑誌です。一方、水原秋桜子が主宰した俳句雑誌が『馬酔木』で1931年創刊。彼は俳句における「感情の主体性」を重視。『馬酔木』は俳壇を代表する雑誌として、現在も刊行されています。

*いずれの雑誌も「あしび」と読みます。

 花の後にできる実は直径5ミリほどで、短く曲がった柄があります。画像からはわかりにくいのですが、花が下向きに咲いたのに対し、実は上向きになっています。一つの果序の茎が反転するのでなく、それぞれの果柄が反転して上を向きます。