1「黒塚」とプラグマティックな知識
能の「黒塚」を考えてみよう。そして、物語の登場人物(シテでもワキでもよい)になって、演じることを想像してみよう。舞台で演じることは、脚本として演劇化された知識(つまり、謡本:能の脚本)を体験することである。「体験する」とは自らが演じることでも、他者が演じるのをみることでも構わない。能舞台で自ら能を演じる、あるいは誰かが演じるのをみることを想像してみよう。それが、その曲を知る、その曲に込められた知識を知ることである。これは、ワルツを実際に踊ることがワルツを知ることである、というのと基本的に同じこと。
「黒塚」(観世流では「安達原」)は鬼女物、太鼓物に分類され、「安達ケ原の鬼婆」伝説に基づく曲。 廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)らは、安達ヶ原で、老媼(ろうおう、前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力(のうりき、アイ)は寝所が気になり、覗くと、大量の死体が積み上げられていた。能力と山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか」と逃げ出すが、正体を知られた鬼女(後ジテ)が怒りの形相で追ってくる。山伏は鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入り、去っていく。特に、この曲では『拾遺和歌集』巻九の、「陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」という平兼盛の歌が構想の核となっている。シテは般若の面を着け、その本性は人間である。事実、自己の運命を慨嘆し、その正体を知られることを恐れ、また山伏のために薪を用意しようとする女性的な優しさも見せる。
私たちは因果的な系列として展開される物語として能の「黒塚」を体験することができる。演者と観客が一体となるような演劇空間で知識が共有され、それによって経験という仕方で「知る」ことができる。実際に舞台で演じられる曲を鑑賞するだけでなく、演者の演技を通じて作者の意図も理解することができる。
「伝統」、「慣習」、「しきたり」、「習わし」は地方ごとに守られ、維持されてきた。それら異なる呼び方は基本的に同じことを指していて、そこに住む人々のとるべき行動マニュアルと守るべき規範が渾然一体となった指令書のようなものである。これを具体的に理解する格好の例が伝統的な芸能や技能である。能も歌舞伎ももっぱら先人の芸(=知識)を身体の動きとして繰り返し憶え込むことにその真髄がある。それは徹底して真似ることであり、それが能や歌舞伎の知識の本性を見事に示している。ものづくりの技能もその基本は真似ることにあった。真似ることのできる知識が伝統や慣習という知識であり、「習うより慣れろ」と言うがごとく、伝統的、慣習的な知識とは所作や動作、行動を細かに決めたマニュアルであり、そのマニュアル通りに実行するために、一流の先人の動作や演技を一途に真似るのである。このように伝統や慣習を捉えると、それらが科学的知識とは大きく異なる点が浮かび上がり、その違いが一目瞭然になる。科学的知識はマニュアルではない。だが、それを科学技術として活用することができるということは、マニュアル化が可能であり、それが形而上学とは異なった点なのである。
実行マニュアルだから中身を規定していないと考えがちであるが、それは違う。神楽や仕舞のマニュアルは手足の動かし方や仕草の細かな指示からなっているが、それをきちんと演じることが伝統を守るということであり、マニュアルこそが伝統なのである。そこでは伝統の実践そのものが伝統の説明なのである。芸能にしろ、技能にしろ、巧みな技の習得とその技の実現や演技はそれら自体が伝統、慣習なのである。「伝統的な知識」はマニュアル化された、儀式、儀礼として通用する知識、つまり、行為や演技を遂行するための知識(performative knowledge)であるが、「伝統的な知識」と呼んだからそうなるだけで、伝統に従っての行為や演技の遂行そのものが伝統(的な知識)なのである。
2世阿弥と修験道
さて、世阿弥はどのような宗教をもっていたのか。彼は能と宗教についてどのように考えていたのか。これらは確かに興味深い問いである。世阿弥は神仏習合的な「芸能者としての宗教観」をもっていたが、晩年には曹洞宗に帰依している。能の世界観には冥顕思想(冥界(死者の世界)と顕界(現世)の往還)に近いものが明確に存在し、世阿弥自身もそれを芸論の中で積極的に述べている。世阿弥にとって能は神事、祈り、鎮魂の芸能であり、宗教的行為と芸術は不可分だった。能と修験道は山岳修行、神事芸能、祈祷、鎮魂という共通の宗教的土壌を持ち、深い関係で結ばれていた。
世阿弥は能を神事として奉納する芸能者だった。彼の『申楽談儀』には、稲荷明神、北野天満宮などの神託によって能を奉納し、病が癒えたという霊験譚が記され、能は神仏に捧げる芸能行為であり、共同体を調える力を持つと世阿弥自身が述べている。これは特定宗派の教義ではなく、中世的な神仏習合の宗教観である。補巌寺(奈良県)の文書に、世阿弥が金春禅竹に宛てた書状が残り、そこには「参学・得法・印可」など禅林用語を用いて芸道が説かれている。つまり、晩年の世阿弥は禅的修行観を芸道に取り入れた宗教的芸能者であった。
冥顕思想は冥界と顕界の往還によって世界が成り立つという中世的世界観である。能の中心形式である夢幻能は前場に亡霊が顕界に現れ、後場に冥界の真相を語る、という二場構成で、まさに冥顕往還の構造を持っている。修羅能では、武士の亡霊が修羅道での苦悩を語り、僧の弔いによって救済される。これも冥界の苦悩、顕界の僧の祈り、冥界での救済という典型的な冥顕構造を持っている。
世阿弥の芸論(『風姿花伝』、『花鏡』など)では、芸の内部に冥顕二界の往還を見ており、世阿弥は冥顕思想を芸術論として内在化していた。『申楽談儀』では、神事能を軽んじる者は芸も身も滅びる、芸はまず神仏への奉仕であると強調される。世阿弥にとって能は、神仏への奉納・祈祷・鎮魂のための宗教的行為であり、娯楽ではなかった。世阿弥は芸を「道」と呼び、無心、閑位、却来など禅的境地を芸の究極として説く。芸の修行は宗教的修行と同型であり、芸と宗教は分離できないという思想が世阿弥の根幹にあった。
確かに、能と修験道は次のような宗教的基盤を共有している。山岳信仰(深山幽谷での修行)、神仏習合(神道・密教・陰陽道の複合)、祈祷、験力、鎮魂、死者供養、怨霊鎮魂(修羅能の構造)。修験道の山伏は、祈祷、加持、鎮魂を行う宗教者であり、能のワキ僧は死者を救済する宗教的主体として舞台に立ち、この構造はほぼ同型である。
では、修験道の修行と能の修行にはどのような関連があるのか。世阿弥は芸の修行と宗教の修行をどのように考えていたのか。修験道の修行(山岳修行、験力獲得、心身の統御)と能の修行(幽玄の体得、心の統御、芸の「道」)は構造的に極めてよく似ている。世阿弥は芸の修行を「宗教的修行と同じタイプの行」とみなし、芸道を「悟り」に近い精神的境地として捉えていた。修験道の行者が「験力」を得るように、世阿弥は能役者が「花」を得ると説き、両者は宗教的効験の獲得という同じ構造を持っている。世阿弥の芸論は禅、密教、修験道の修行観を統合したもので、芸と宗教は分離されていない。
世阿弥の芸論では、能の修行は心の統御(無心、閑静)、身体の鍛錬(位、姿勢、呼吸)、神仏への奉納、観客の心を動かす「花」の獲得を目的とする。芸の修行の結果として得られるのは、花(観客の心を動かす霊的魅力)であり、これは芸能者が共同体に働きかける力である。修験道の「験力」と能の「花」は、どちらも修行によって得られる霊的効力であり、よく似た機能を担っている。
世阿弥は芸を「道」と呼び、禅語を多用して芸の境地を説明する。無心、閑位、却来、物学(悟りの学び)は禅林の語彙であり、芸の修行は宗教的修行と同じであると明確に考えている。世阿弥は曹洞宗に帰依し、禅的修行観を芸道に取り込んでいた。修験道の行者は、身体の苦行、心の統御によって験力を得る。世阿弥も同じ構造を説く。『風姿花伝』では、姿勢、呼吸、心の静まりが芸の根本であり、これは修験道の行法とほぼ同じ身体技法の体系である。
世阿弥は『申楽談儀』で、能は神事であり、神仏への奉納であると繰り返し述べる。修験道の行者が祈祷、加持を行うように、能役者も神事として芸を奉納する。つまり、世阿弥にとって芸は宗教的行為でもあった。修験道も能も心を静め、神仏と交感し、無心、閑静の境地を得る。世阿弥の芸論は「修験道的宗教観」を内在化している。彼は修験道を直接論じないが、芸論の構造は修験道の宗教観と驚くほど似ている。共通する宗教的構造は山岳的幽玄(深山幽谷のイメージ)、冥顕往還、心身の修行、神事としての芸能、修行による霊的効力の獲得である。だから、能は修験道的宗教儀礼を芸能化したものである。
世阿弥は芸の修行を「悟り」に近い精神的行として捉え、自力的修行を肯定する宗教観を持っていた。浄土真宗は「自力の修行はむしろ障りになる」とするため、能や歌舞伎の修行とは宗教的構造が全く異なる。世阿弥の芸論(『風姿花伝』『花鏡』など)は、心の統御(無心、閑静)、身体の鍛錬(位、姿勢、呼吸)、反復修練による境地の獲得、修行によって「花」という霊的効力を得るという構造をもっている。これは明らかに自力修行の体系であり、修験道、禅、密教の修行観と同型である。歌舞伎も同様に、型の反復、身体の鍛錬、心身の統御、芸の「格」を高める修行を重視する。つまり、能、歌舞伎はどちらも人間の努力、鍛錬によって境地を開く芸道である。
3浄土真宗と氏子
自力の修験道とは異なり、浄土真宗は他力本願がテーゼであり、自力修行を否定する。親鸞は『教行信証』でそれを明確に述べている。人間の修行、努力では成仏できない。念仏は修行ではなく、阿弥陀仏の本願を信じる行為であり、自力の修行はむしろ成仏の障りになる。つまり、浄土真宗は人間の鍛錬、修行、努力を宗教的価値として認めない。これは能や歌舞伎の修行観とも根本的に違う。能、歌舞伎は修行によって境地を開く。心身の鍛錬が価値を持つ。修行の結果として「花」、「格」、「芸力」が得られる。だが、他力本願はそれを否定する。
能、歌舞伎の修行は自力による境地の獲得であるが、浄土真宗は自力を否定し、他力による救済のみを認める。両者は「修行」という語を共有していても、宗教的構造は完全に逆方向である。世阿弥の芸論は修行を肯定し、自力による境地の獲得を重視し、心身の鍛錬を宗教的価値として認める。これは浄土真宗の自力否定、他力絶対とは完全に逆である。では、門徒が圧倒的に多い関山神社の氏子たちは自力と他力の間でどのように祭りの維持、保存に尽力できたのか。
阿弥陀如来の「権現」は特定の神を本地とする権現として固定されていないが、妙高山の関山権現では、阿弥陀如来は「妙高山如来」として山頂に祀られた本尊であり、関山神社の権現体系(本地垂迹)とは異なっている。関山神社(関山三社権現)の権現は関山大権現(祭神:国常立尊)(本地:聖観音)、白山大権現(祭神:伊弉冉尊)(本地:十一面観音)、新羅大明神(祭神:素戔嗚尊)(本地:文殊菩薩)である。妙高山は江戸時代まで阿弥陀如来の霊場で、極楽浄土の山と認識されていて、山頂には「善光寺式阿弥陀三尊」が祀られていた。この阿弥陀三尊は「妙高山如来」と呼ばれ、山そのものが阿弥陀如来の垂迹地と理解されていた。つまり、阿弥陀如来は妙高山に応化した仏だった。だが、関山権現の最古の本地仏は聖観音(飛鳥期の新羅仏)であり、阿弥陀信仰よりも観音信仰が先行していた。そして、阿弥陀如来と関山権現は別系統の信仰層として共存していた。里宮は観音系権現、奥院は阿弥陀如来という二層構造で妙高山信仰は成立していた。阿弥陀信仰は関山権現の本地体系とは別系統で、山頂の阿弥陀堂に展開されていて、妙高山は江戸期まで阿弥陀如来の住む極楽浄土の山として信仰されていた。つまり、氏子は自分たちの山は阿弥陀如来の山であり、山を守ることが阿弥陀の浄土を守ることという宗教的世界観を共有していた。明治の神仏分離で宝蔵院とその修験僧が消滅すると、火祭り、棒遣い、柱松神事などの祭祀が宙に浮いた。そのとき、氏子は阿弥陀の山の祭りを絶やしてはならないという宗教的責任感を持ったのではないか。阿弥陀信仰は仮山伏成立の直接因ではないが、妙高山が阿弥陀浄土という信仰が門徒でもある氏子の祭祀継承の精神的基盤になったのではないか。阿弥陀来迎の山で行われる火祭りは、氏子にとって「阿弥陀の山を守る行為」だった。これが明治以降の祭礼継承の理由となったのではないか。



























