(これまでの相馬御風に関する10回分の投稿をまとめたもの)
(1)越後出身の早稲田の人々:素描
越後の三人の文学者の間には込み入った因縁があるように思われてならない。どこかで繋がり、その繋がりが捻じれ、彼らの人生を決めてきたような気がしてならない。特に、小川未明と相馬御風は中学時代からの知り合いであり、それがその後の文学活動でも色濃く影を落とすことになる。文学と書道の八一と、文学と社会の未明、御風と区別ができるなら、その違いは彼らの人生そのものを色分けし、それぞれ独特のものにしてきたように思えてならない。
会津八一は1881(明治14)年新潟に、小川未明は1882(明治15)年高田に、そして、相馬御風は1883(明治16)年糸魚川に相次いで生まれている。八一は新潟尋常中学を、小川と相馬は旧制高田中学を卒業し、それぞれ早稲田大学文学部に入学する。八一は1906(明治39)年英文学科を卒業し、有恒学舎(現上越市の有恒高校)に英語教師として赴任する。彼は1908(明治41)年新井町の入村四郎宅で小林一茶直筆の《文化句帖》(通称・六番日記)を発見する(*)。八一は1910(明治43)年東京の早稲田中学の英語教師になる。その後、秋艸道人と号し、1931年早稲田大学文学部教授となる。
御風は八一と同じく、1906(明治39)年早稲田大学英文学科を卒業し、雑誌『早稲田文学』の編集をしながら、1907(明治40)年早稲田大学校歌「都の西北」を作詩する。御風は坪内逍遥、島村抱月の影響から、彼らの自然主義と言文一致に同調し、『早稲田文学』で「口語自由詩」を提唱し、実践することになる。
未明は英文科を卒業、卒業論文ではラフカディオ・ハーンを論じた。在学中の1904(明治37)年、処女作「漂浪児」を雑誌『新小説』に発表し、逍遥から「未明」の号を与えられる。
*一茶の「六番日記」は島崎藤村が序を書き、勝峰晋風解説で『一茶旅日記』として1924(大正13)年に古今書院から出版される。解説には入村誠氏(前市長入村明氏の祖父)や相馬御風への言及があるが、会津八一への言及はない。勝峰晋風(1887-1954)は俳句の研究者。
御風と未明の故郷越後を介した奇妙な因縁は彼らの文学活動が始まると、次第に劇的なものになっていく。二人の出発点にある時代状況の特徴は、島村抱月の自然主義が『早稲田文学』に色濃く影響し、鷗外、漱石、荷風らとの違いを強調しようとした点にある。未明や御風に文学における自然主義の可能性を見出そうとしたのが大杉栄で、未明の小説集『廃墟』(新潮社、1913)評で「人間性の為めの戦い」を書いた御風の評論に関心を示した大杉が、御風に論争を挑んだのである。論客の大杉に悪意はなく、二人は互いを理解し合えたように見えたが、それが御風に『還元録』を書かせ、糸魚川に帰るきっかけを与えることになる。彼らの論争の背後にあった自然主義はベストセラーだった丘浅次郎の『進化論講和』(1904)に基づいていた。
このような筋書きで、特に御風と未明に関し、少し丁寧に二人の因縁を探ってみたい。
(2)カチューシャの唄
正岡子規の「写実」は何とかわかっても、写実主義から自然主義への移行となると私にはわからなくなる。科学的な自然主義は当たり前に思えても、文学的な自然主義を文学評論として展開することなど、魑魅魍魎の世界の出来事にしか思えないのである。文学的な自然主義は19世紀後半にフランスで始まった文学運動で、エミール・ゾラが体系的に展開した。自然の事実を観察し、美化することを否定し、ダーウィンの進化論やコントの実証主義などをその根拠にして、人間をそのまま描き出そうとした。ゾラの作品は、日本の1900年代の文学界に大きな影響を与え、坪内逍遥、島村抱月らの早稲田派が生まれることになった。島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋の『蒲団』(1907年)、『田舎教師』(1909年)などが自然主義文学の支柱となった。『早稲田文学』を本拠に評論活動を行った島村抱月や相馬御風も自然主義文学の可能性を広げようとした。
抱月は1907(明治40)年「今の文壇と新自由主義」で早稲田派の方向を定め、御風はそれに歩調を合わせ、言文一致の口語自由詩を1908年より書き始める。一方、彼は同じ年に新潮社から『御風詩集』を出版するが、所収されているのは文語詩だけだった。彼は次第にロシア文学に関心をもち、1912(大正1)年にはトルストイの人道主義に傾倒し、『戦争と平和』など多数のロシア文学作品の翻訳本を出版する。そして、その一つが『復活』。
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪 とけぬ間と
神に願いを(ララ)かけましょうか
カチューシャかわいや わかれのつらさ
今宵ひと夜に 降る雪の
あすは野山の(ララ)路かくせ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて又逢う それまでは
同じ姿で(ララ)いてたもれ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
つらいわかれの 涙のひまに
風は野を吹く(ララ)日はくれる
カチューシャかわいや わかれのつらさ
ひろい野原を とぼとぼと
独り出て行く(ララ)あすの旅
上の歌詞は松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」。1915(大正4)年4月に東洋蓄音機(オリエント・レコード)のスタジオで録音され、日本の流行歌(歌謡曲)の第1号となった。「カチューシャの唄」の作詞は一番が島村抱月、二番以降は相馬御風、作曲は中山晋平で、1914(大正3)年3月に帝国劇場での第3回芸術座公演『復活』五幕のなかの劇中歌で、第1幕第2場でカチューシャが軽く手拍子を入れて唄ったもの。中山晋平の作曲は難航したようで、舞台稽古の3日前に、歌詞のなかに「ララ」と云う囃子言葉を入れることで、よくやく曲ができた。
『復活』はトルストイの代表作。1899(明治32)年に雑誌への連載で発表され、若い貴族とかつて恋人だった女の、贖罪と魂の救済を描き、それを通じて社会の偽善を告発した作品である(新潮社の佐藤義亮は「出版おもひ出話」で、1914(大正3)年に『復活』の舞台稽古が始まったが、抱月の代わりに御風が佐藤を訪ね、千円程借金したことを語っている)。「カチューシャの唄」への観客の反応は初日からとてもよく、幕間には廊下の壁の歌詞を見ようと観客が押し寄せ、歌詞をノートにメモした。「カチューシャの唄」はたちまち巷に広まり、2~3か月後にはこの唄をくちずさむ人が増えた。主として当時の旧制高校生や大学生の間に広まり、翌年に「カチューシャの唄」はレコードとなった。
翌年の1915(大正4)年何度か議論を交わした大杉栄がダーウィンの『種の起原』を翻訳し、出版される。そして、その翌年、1916(大正5)年に御風は『還元録』を書き、故郷の糸魚川に本名の昌治として帰るのである。一方、それとは対照的に、御風の先輩吉江喬松が同年にフランスへ、後輩の片上伸(天弦)が1915(大正4)にロシアに留学していた。
(3)素朴な疑問
『御風詩集』は1908(明治41)年6月に新潮社から出版された文語詩だけからなる相馬御風の詩集です。その前年に島村抱月が口語詩を提唱し、それに呼応して御風は明治41年に「自ら欺ける詩界」、「詩界の根本的革新」の詩論を『早稲田文学』に発表しています。詩は口語で、旧来の詩調を廃し、自由な行と連をもつべしと主張しましたが、『御風詩集』に所収された詩はそれらのいずれにも反しています。また、御風が蒲原有明の象徴詩を上記の詩論で否定し、抱月の自然主義を主張するのも私には何か不自然で、どこか腑に落ちないのです。
そこで、1908年の『早稲田文学』に掲載された御風の口語詩を引用してみましょう。
霜が置いた。
始めて霜が置いた。
朝貌は真黒に打れた。
コスモスは黄色く萎だれた。
小さい蕾を持った月見草も、
花盛りの菊も、
背の高い青桐も、
皆じつと息を秘めたやうに
ブルブル震えて居る。
霜は解けて真黒な土に沁み入る
*「朝貌」は「あさがお」と読み、キキョウと思われる。「月見草」もマツヨイグサ?。
この詩と比較するために『御風詩集』の写生風の「町の角」を引用しよう。
蒼ざめし人二人
別れたり右左
夕ぐれの町の角。
右なるは程近き
教会の石段を
のぼりつつかへり見ぬ。
左へと行きし人
その刹那、急ぎ足
縄暖簾つとくぐる。
空くらく風あらく
ちらちらと雪ふりて
日はまたまた暮れにけり
日本語が変化し、現在の私たちには上のいずれの詩が口語詩で、いずれが文語詩かよくわからなくなっています。明治から大正にかけての口語も文語も共に今の私たちには今の日本語ではありません。その違いが詩にとってどれだけ重要かは相対的なものでしかないというのが常識だとすれば、明治40年代からの御風の詩論は当時の自然主義の流行に合わせたもので、大正に入っての荻原朔太郎や高村光太郎の詩が待たれるのです。故郷の糸魚川に戻った御風が、彼らの詩についてどのように感じたのか、特に親交のあった高村高太郎の詩について御風は何をどのように感じたか知りたいものです。
(4)ロシア文学の重訳の歴史的意義:御風の翻訳から
森鴎外の文学活動は創作、評論と、それに先立っての西洋文学の翻訳にありました。鴎外は明治22年ドイツ留学から戻り、文学界の言文一致の機運を感じ取っていたようです。鷗外にはまだ自らの創作を十分表現できる文体がなく、それを西欧の短編小説から手に入れようとしていました。そのため、彼は翻訳が訳文の美しさと強さで評価されるべきと考え、重訳を気にしなかったと思われます。鴎外の場合は当然ながらドイツ語からの重訳で、ドイツの文壇が取り上げた話題作に限られています。一方、ツルゲーネフの小説を実験的に翻訳し、それによって獲得した文体を使って二葉亭四迷は「浮雲」を書きました。翻訳によって生まれた文体を彼は「浮雲」に意図的に使用したのです。
二葉亭四迷は『浮雲』第二編を発表した直後、ツルゲーネフの「あひヾき」をロシア語原典から翻訳して、『国民之友』誌に発表(1888年)し、森鴎外はドイツ語訳からの重訳ですが、トルストイの短編「リュツェルン」を「瑞西館に歌を聴く」(1889)と題して翻訳しています。同世代の二人がほぼ同時期にツルゲーネフとトルストイに関心を持っていたのです。
この時期はツルゲーネフへの関心が高まり、二葉亭の翻訳に刺激された国木田独歩、徳富蘆花、島崎藤村、田山花袋、石川啄木など当時の文学青年の多くがツルゲーネフを愛好し、その英訳本を読み漁りました。そして、このブームは自然主義文学形成に大きく影響したと思われます。相馬御風は明治から大正にかけてツルゲーネフの長編『その前夜』(明治41)、『父と子』(明治42)、『貴族の巣』(明治43)、『処女地』(大正3)を英語訳から次々に翻訳しています。さらに、御風はアンドレーエフの小説『七死刑囚物語』を英語訳から翻訳し、『早稲田文学』(明治44年)に発表し、単行本で海外出版社から出版しました。御風は早稲田大学の文学部の英文学科卒業ですから、英語訳からの重訳であることが納得できます。この年、大逆事件判決と死刑執行が行われたこともあって大きな反響を呼びました。また、『その前夜』はガーネット夫人の英訳「On the Eve」によって明治の文学者の間でも広く読まれていました。ですから、島崎藤村の『夜明け前』に『その前夜』が影響したことが想像できます。
明治40年代は早稲田で島村抱月がツルゲーネフの講義をし、英文学科の卒業論文でもツルゲーネフが堂々と取り上げられる時代でした。吉江孤雁、相馬御風、さらに、新進気鋭の評論家としてしきりに発言していた中村星湖など英文学科の出身者たちがロシア文学の翻訳に熱中しました。抱月はロシア文学研究の必要を唱えて水明会という研究会を作り(明治39年)、そこに教師として招いたのが昇曙夢(後述)でした。
大正時代にはトルストイ・ブームが起きます。森鴎外も1899年には、『めざまし草』にトルストイを発表し、1903年には『妄人妄語』のなかで『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』に言及し、1913年に『神父セルギイ』をドイツ語訳から『パアテル・セルギウス』と題して訳出しています。既述のように、1914年に島村抱月脚色・演出による『復活』が芸術座によって帝国劇場などで上演され、女優松井須磨子演じるカチューシャが劇中歌を唄って大評判となり、レコード化されて一世を風靡しました。
以下は御風によるトルストイの訳書の一部です。多くの人はトルストイの作品を読んだことがあるでしょうが、御風の訳書ではない筈です。
『アンナ・カレニナ』上、早稲田大学出版部、1913年10月。
『アンナ・カレニナ』下、早稲田大学出版部、1913年10月。
『人生論』新潮社〈新潮文庫 第1編〉、1914年9月。
『性慾論』新潮社、1915年1月。
相馬御風、相馬泰三訳『復活』三星社出版部、1915年3月。
ロシア語からの優れた翻訳と多数の評論を書き続け、明治四〇年代から大正の初めにかけての「翻訳の時代」を支える一方、重訳に対する直接訳の優位性を独力で確立したのが昇曙夢でした。ロシア語の原典から翻訳に取り組んだのが昇でした。昇曙夢(のぼりしょむ、1878-1958)は日本のロシア文学者で、彼こそがロシア語原典からロシア文学を研究した最初の日本人で、晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力しました。
(5)自然主義と歌謡曲、そして相馬御風
トルストイの『復活』での「カチューシャの唄」は1914(大正3)年に島村抱月、相馬御風作詩、中山晋平作曲、翌年のツルゲーネフの『その前夜』での「ゴンドラの唄」は吉井勇作詩、中山晋平作曲で、それぞれの芸術座公演の中でいずれも人気を博し、二つの唄は歌謡曲として広く歌われることになります。御風は二つの作品を英語から重訳したのですが、御風の名前が出るのは「カチューシャの唄」の作詩だけ。御風は退廃的な吉井勇の作品を批判していたのですが、吉井による「ゴンドラの唄」の詩は森鴎外の『即興婦人』を下敷きにしたものでした。その後も似たような挿入歌が人気を博し、北原白秋や三木露風が作詞し、中山晋平が作曲しました。こうして、島村抱月の自然主義は次第に大正ロマン主義へと変化していくのです。
中山晋平(1887-1952)は御風(1883-1950)より若いのですが、彼は親戚のつてで島村抱月の書生として住み込みながら、東京音楽学校で学びます。島村抱月は英国への留学から帰国し、その抱月に師事した御風は当然中山晋平をよく知っていた筈です。抱月は女優松井須磨子等と共に芸術座を立ち上げ、トルストイの『復活』を上演することになり、その劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を書生だった中山に依頼しました。「カチューシャの唄」は大ヒットし、中山晋平は作曲家としての地歩を固め、さらに、ツルゲーネフの『その前夜』の劇中歌「ゴンドラの唄」も作曲し、これも大ヒットすることになります。その後も中山の作曲は続き、「船頭小唄」、「波浮の港」等の歌謡曲、「あの町この町」、「背くらべ」、「てるてる坊主」等の童謡、「東京音頭」、「天龍下れば」等の新民謡等のヒット曲を出し続けました。驚くことに、彼は生涯に童謡824、新民謡292、歌謡曲467、その他校歌、社歌222を作曲しています。
中山晋平は長野県下高井群新野村(現中野市大字新野)に生まれました。近くに千曲川が流れ、北信五岳と言われる山並みをバックに広々とした田園風景が続きます。村長を務めた父は晋平6才の時に他界、母は女手ひとつで4人の男の子を育てました。彼は高等小学校を主席で卒業し、16歳で代用教員として近隣の小学校の教壇に立ちます。
御風は自らが目指した文学活動における自然主義が上記のような演劇状況の中でその意味を消失し、自らの生きる目標を見失ったように思えたのではないでしょうか。御風は『還元録』でそれを明確に述べていませんが、彼自身はトルストイの生き方に強く共感していて、その生き方を実践するために故郷糸魚川に還元したと推測できます。
*「新民謡」は大正期に新しく作曲された民謡調の音楽で、日本各地の特徴を詩に込めたものが登場する。作詞家の野口雨情、作曲家の中山晋平が作曲した須坂小唄が新作地方民謡の最初。1919(大正8)年野口雨情と中山晋平は、民謡の旅にでかけ、水戸、大洗などをめぐる。この頃「船頭小唄(枯れ薄)」が作成され、新民謡の最初といわれる「須坂小唄」の完成は1923年(大正12年)。この新民謡は、歌うだけでなく振付けもされた。新民謡の代表格の東京音頭は、西条八十作詞、中山晋平作曲。元歌は昭和7年に作成された「丸の内音頭」で、永井荷風の『墨東綺譚』には日比谷公園で浴衣を切符代わりに開催されたことが記されている。昭和8年歌詞を一部変え、「東京音頭」と改作され、小唄勝太郎、三島一声の唄で爆発的なヒットとなる。振付けは、新舞踊の花柳寿美である。この音頭は爆発的なヒットとなり、全国を巻き込んだ旋風を巻きおこす。
*「新井甚句」、「新井小唄」も新民謡で、共に相馬御風作詩、中山晋平作曲である。
(6)相馬御風と良寛
相馬御風は糸魚川に戻り、良寛に没頭することになるのですが、彼の良寛への関心は最後まで続き、その著作は20冊を超えます。また、御風一人だけの雑誌『野を歩む者』の刊行も続けます。
良寛を考える上で二つのキーワードが「鉢の子」と「手毬」で、良寛の歌にはよく登場します。それを示すのが新美南吉の『良寛物語 手毬と鉢の子』です(青空文庫所収)。この本は太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年に出版されています。手毬は古くからある玩具で、当初は芯に糸を巻いただけのものでしたが、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学模様に巻いて作るようになりました。手毬は貞心尼が良寛に歌を贈る際に歌に添えたものでもあります。「鉢の子」は応量器のことで、僧や僧尼が常に所持して飲食を受ける器で、鉢とも呼ばれています。托鉢の時に鉢の子を使って布施を受け取ります。例えば、良寛は「鉢の子にすみれたんぽぽこきまぜて三世の仏にたてまつりてん」と詠んでいますが、御風の歌幅「はちの子に」は次のような歌です。
〈釈文〉良寛さまをおもふ
はちの子におちくりあまた
ひらひためたれりとひとり
ほゝえみにけむ
(良寛さまを思ふ 鉢の子に落ち栗あまた拾ひため 足れりと一人微笑みにけむ)
良寛は常に鉢の子を携帯し、彼の和歌にもよく登場し、手鞠とともに良寛を象徴するものです。歌意は「鉢の子に落ちた栗を沢山拾い集めて、これで十分だと良寛さまは一人微笑んだのだろうなあ」です。御風が一人だけで編んだ雑誌『野を歩む者』でも「良寛和尚遺愛の鉢の子」の写真図版が登場します。また、21世紀に入り建立された燕市の歌碑にも鉢の子が歌に詠まれています。その歌は「鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 鉢の子あはれ」(鉢の子を道ばたに忘れてきたが、誰もとっていく人はいなかった。その鉢の子のいとしいことよ)。
戦後の唐木順三『良寛』は出色ですが、新潟大学の加藤僖一は良寛の書を研究し、良寛の伝記は御風に尽きると述べています。その御風の良寛研究は大正5年に糸魚川へ退住してから、晩年までの30数年に及びます。実際、御風の後半生は良寛研究と共にありました。糸魚川に帰った御風は西郡久吾著『北越偉人沙門良寛全伝』を読み、良寛に心酔し、それ以降良寛研究に打ち込むことになります。御風が研究を始めた大正時代前半、『北越偉人沙門良寛全伝』の他に10冊ほどの研究書がありました。御風の『大愚良寛』はそれらよりずっとわかりやすい名著です。『大愚良寛』の目的は「私一個の修養」、「私みずからの為め」、「もともと私一個の為めの仕事」としてのものだと表明し、研究書や学術論文ではないと述べていま。御風が良寛を語り、述べる際、それは御風自身の理想の人生を生きた良寛を語っているのです。御風の良寛研究の成果20冊以上の著書に結実しています。
最後に御風の私流の略歴(『大愚良寛』刊行まで)をまとめておきます。
相馬御風(そうまぎょふう、1883~1950)
・21歳で前田林外、岩野泡鳴らと東京純文社を結成し、機関誌『白百合』を創刊。
・24歳で早稲田大学英文科を卒業。1年先輩が小川未明、同級生が会津八一。
・島村抱月の『早稲田文学』で自然主義評論家として活躍。
・25歳で三木露風、野口雨情らと「早稲田詩社」で口語自由詩を目指す。早田大学の校歌「都の西北」を作詞。
・大正5年御風34歳、編集責任を負っていた『早稲田文学』が秩序紊乱を理由に当局から発売禁止処分を受ける。
・御風は同年の3月に『還元録』を出版し、郷里糸魚川へ帰る。『還元録』には人間の生活のある糸魚川で生まれ変わり、「凡夫の生活」を目指すとある。
・大正12年、童謡「春よ来い」を作詞。昭和5年、一人雑誌『野を歩む者』を創刊。
*御風の良寛研究:糸魚川に帰郷した時、糸魚川中学校には巻町出身で良寛敬慕者の松木徳聚(とくしゅう)校長と、燕市出身で第一高等学校在学中に校友会誌に論文「大愚良寛」を書いた山崎良平教頭がいた。御風はこの二人に会い、良寛に傾倒していった。また、大正3年に『北越偉人 沙門良寛全伝』の著者西郡久吾からも大きな影響を受けた。『早稲田文学』大正6年3月号の巻頭を飾ったのが御風の「大愚良寛」。以後、御風の「大愚良寛」は6月号まで4回にわたる連載となり、8月号から12月号までは「良寛遺跡巡り」の連載となる。そして、これら連載に書き下ろしを加えて刊行されたのが『大愚良寛』で、大正7年御風36歳の年に春陽堂から刊行された。『大愚良寛』の内容は良寛の生涯、芸術、思想に及び、越後の一部の人しか知らなかった良寛を全国的に有名にした。
(7)童謡「春よ来い」の「みいちゃん」
相馬御風と妻テルの結婚は1907(明治40)年12月22日、御風24歳、テル18歳でした。この時、御風は母校早稲田大学の創立25周年記念の校歌「都の西北」を作詞し、テルは日本女子大学英文科の学生でした。テルの父は藤田茂吉で、慶應義塾を出て、新聞記者となり、日本最初の衆議院選挙に当選、院内総務も務めました。テルと見合いをした御風は彼女の美しさに一目惚れ。結婚式は質素でしたが、後に早稲田大学総長、文部大臣となった高田早苗が保証人となりました。テルは東京生まれの東京育ちでしたから、『還元録』以降の糸魚川に戻ってからの生活は色々大変だったと想像できます。
1923年に雑誌『金の鳥』に発表されたのが童謡の「春よ来い」。1番の歌詞に登場する「みいちゃん」のモデルは御風の長女。彼は6男1女に恵まれますが、その長女が相馬文子(あやこ)。相馬文子(1921年-2009年)は日本近代文学研究者。彼女は糸魚川で生まれます。1941年に母と同じ日本女子大学の英文科ではなく、国文科を卒業し、東京帝大史料編纂所に勤め、戦後は日本女子大学付属図書館司書として長く勤めます。著書に『相馬御風とその妻』(青蛙房、1986)、『司書半生』(三月書房、1988)、『若き日の相馬御風 文学への萌芽』(三月書房、1995)、編纂に『相馬御風著作集』(紅野敏郎共編、名著刊行会、1981)、『相馬御風初期評論集』(紅野敏郎共編集、名著刊行会、1982)、『相馬御風の人と文学』(紅野敏郎共編、名著刊行会、1982)、『定本相馬御風歌集』(編集、千人社,1983)があります。
彼女が勤務した図書館について述べた文を以下に挙げておきます。
追想(相馬文子)
太平洋戦争終結の昭和二十年(1945年)l1月が私の図書館初就任であった。以来、定年を数年前にして、昭和五十七年(1982)春、退職した。女子大の図書館の歩みについては、自著「司書半生」にかなり詳細に述べたつもりであるが、私の在任は、図書室と言った前近代的な箇所から、創立以来初めて独立した建物の全開架式図書館と極端な移り変りを過して来た三十七年間であった。そして、退職後の才月が、も早十五年余になる。新築時に発刊した「図書館だより」が百号になると言う。改めて思い出せば、無論、思い出は限りなくあって筆舌につくし難い。良き思い出、なつかしい思い出と共に、思い出したくない思い出もあるのは当然だが、不思議なもので、月日と共になつかしい事のみ鮮明に心に残って来ている。星移り、人変り、しかもその後の世の激変も甚しく、それにつれて図書館の機能自体も、私の在任中とは大きく変化している。しかし、明け暮れ、書物に接し得ていた幸せを現在のエネルギーの賜ものにさせていただいている事に感謝している。
(元図書館事務主任)
*「追想」には図書室で閉架式だったものが開架式の図書館に変わることが述べられていますが、私も大学で経験した今でも懐かしい想い出です(利用する学生が読みたい本を図書館員に頼むのが閉架式、学生が自分で書架から自由に本を取り出すことができるのが開架式。今では貴重書を除き、開架式が普通になっている)。
(8)相馬御風と高村光太郎
相馬御風と高村光太郎は同じ1883(明治16)年生まれです。若き御風は明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで高村光太郎と初めて知り合います。高村光太郎の父は有名な高村光雲で、光太郎は1906年からニューヨーク、ロンドン、パリにそれぞれ1年強留学し、1909年帰国しています。光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の1910(明治43)年のこと。初めは文語詩でしたが、次第に口語自由詩に移行していきます。一方の御風は光太郎留学中の明治1908(明治41)年には既に口語自由詩を発表しています。御風の口語詩は(既述のように)成功しませんでしたが、帰朝後の光太郎は口語自由詩に傾いていきました。
光太郎は1914(大正3)年に詩集『道程』を出版し、長沼智恵子と結婚します。1929(昭和4)年に福島の智恵子の実家が破産し、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病します。1938(昭和13)年に智恵子が亡くなり、1941(昭和16)年詩集『智恵子抄』が出版されます。同年太平洋戦争が始まると、戦争協力の詩を多く発表、戦意高揚に努め日本文学報国会詩部会長も務めました。一方の御風も『野を歩む者』の目次や山本五十六など多くの軍人との書簡から、戦争協力の姿が見られます。また、日本文学報国会のメンバーにもなっています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(1943(昭和18)年)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることでした。
御風の長女文子(あやこ)は既に童謡「春よ来い」の「みいちゃん」のモデルと述べましたが、文子は光太郎の妻智恵子と同じ日本女子大学卒で、戦前は本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元も訪れています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡も掲載されています。
光太郎も御風も戦時中は戦争に協力する姿勢を文学活動などで示しています。御風の活動は次の機会に考えようと思いますが、二人の活動に共通するものを光太郎の『智恵子抄』の詩から感じ取ることができます。文学表現と戦争思想が混淆、習合しながら、人間の生き様や思想が世俗生活の中で浮かび上がってくるのです(『智恵子抄』は青空文庫で読むことができます)。
淫心
をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る
縦横無礙むげの淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃るり黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫こうを滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる
淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す
をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈――
(大正3年8月)
あどけない話
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
(昭和3年5月)
(9)『野を歩む者』と軍人との書簡など
相馬御風が『還元録』を書いて郷里の糸魚川に戻ったのが1916(大正5)年。既に結婚していた御風には既に4人の子供がありました(長男(1910生)から四男(1915生))。今様に表現すれば、御風は帰郷者で、妻や少なくても2人の子供たちは移住者でした。さらに、御風が『野を歩む者』を一人編集で発刊し、糸魚川からの発信を始めたことも考えると、田舎への移住とそのSNS上での発信という現在のスタイルの、極めて初期の「先駆け」的な一例として御風の「還元」を捉えることができそうです。でも、平和時の現在とは異なり、御風一家の生活は大正から昭和の激動の時代の中にありました。
『野を歩む者』は御風が一人で執筆し、編集した雑誌であり、彼の糸魚川での生活が平易に述べられています。私が関心を持つのは、時代が大正から昭和に移り、次第に戦争に突入していく中で、その変化が『野を歩む者』の内容の変化に対応していることです。早稲田大学で自然主義文学に熱中し、口語詩を試み、終にはそれらに失望して帰郷し、昭和に入ってから開戦時まで、さらには戦中、戦後の社会の大きな変化に対し、彼がどのように感じ、何を見ていたのでしょうか。ここではその幾つかを確認してみましょう。
まずは、『野を歩む者』の第一号(1930(昭和5)年10月刊)。意欲的なタイトルが目次に並んでいます。しかし、昭和7年7月、御風の妻テルの持病腎臓炎が悪化し、病床に臥します。人手を借りず御風一人で看護に努めましたが、御風誕生日の7月10日に逝去。御風の悲嘆は深く、自身も病床につくことが多くなり、執筆も進みませんでした。後に、テル遺稿集『人間最後の姿』を共著として出版。その時の御風の思いは第二巻第十号にも記されています(画像は昭和7年(1932)第二巻第十号の「おもかげ」)。
太平洋戦争は昭和16年に始まりますが、その年の第六十号の目次から御風の戦争への姿勢、態度を窺い知ることができます。目次は勇ましいタイトルが並びます。その一つが「神剣降魔(ごうま)」(画像)。降魔は「悪魔を降伏 (ごうぶく) すること」を意味し、神から授かった剣で悪魔を降伏させるという意味です。画像の「大詔漁発」は「大詔喚発」と同義と思われます。最後の「大東亜戦争」の二首の歌は開戦の興奮が表現されていますが、当時の御風の気持ちだと思うと、彼の若き時代と隔世の感があると多くの人は感じるでしょう。
御風と軍人との書簡往復の三例を挙げておきます。まずは、長岡出身の山本五十六で、彼が講演の途中糸魚川の御風宅を訪れ、御風が彼に詩を贈ったことが発端になり、二人の交友が始まりました。昭和18年山本の戦死が公表され、御風は多くの歌、詩を作っています。最も親密だったのが陸軍大将多田駿で、昭和12年から御風の良寛研究に感銘し、昭和17年には糸魚川の自宅を訪問しています。最後は、高田中学の2年先輩の建川美次中将で、同窓ということから親交がありました。
既に高村光太郎との交遊について述べましたが、御風と同じ年の北大路魯山人は三度も御風宅を訪れています。魯山人の良寛への強い関心から最初の訪問は昭和13年でした。
(10)ヒスイ再発見の大きな謎
日本史の中に登場するヒスイは謎だらけですが、私にとっての大きな謎はヒスイ再発見についての相馬御風の沈黙です。『野を歩む者』などで故郷を積極的に描き、述べていた彼がヒスイとその発見については一切何も述べていないのです。
1938(昭和13)年、相馬御風が知人の鎌上竹雄に大昔の糸魚川を治めていた伝説上の奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたことから、糸魚川にヒスイがあるかも知れないという神話を話しました。鎌上は親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)の伊藤栄蔵にその話を伝え、伊藤は地元の川を探しました。そして、彼は土倉沢の滝壷で緑色の石を発見します。1939(昭和14)年6月、この緑の石は鎌上の娘が勤務していた糸魚川病院の院長小林総一郎を通じて東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼に送られます。河野の分析により、小滝川で採取された緑色の岩石はヒスイであることがわかります。1939(昭和14)年7月、河野による現地調査の結果、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、同年11月に論文が書かれました(*)。
さて、大きな謎は御風が小滝川でのヒスイの発見を知人の考古学者だけでなく、誰にも伝えていないことです。御風は年に4から6号のペースで『野を歩む者』を発行していて、身辺のことなどを詳しく述べているのですが、そこにも小滝川のヒスイの発見や、河野義礼がヒスイの調査に来たことなどは一切書かれていないのです。御風は亡くなる1950(昭和25)年まで糸魚川で発見されたヒスイのことをどこにも何も述べていないのです。御風のこの徹底した沈黙はなぜなのでしょうか。
ヒスイが小滝川で発見された1938(昭和13)年には既に日本と中国の戦争が始まっていて、ヒスイの発見を発表すると、しっかり保護できない、と御風は考えたのかも知れません。でも、終戦後も御風はヒスイのことを何も語っていません。ヒスイ発見を公表し、天然記念物になれば、欧米との戦争推進に利用される危険があるので、あえて沈黙したとも考えられます。でも、御風の『野を歩む者』には戦争礼賛が多数見られ、作詞した国民歌の曲名には戦争推進のものが多く、戦争反対のための沈黙とは考えにくいのです。御風は大腸カタル(1944年)、敗血症(1945年)、左眼失明(1946年)等が続き、この体力的な衰えから、結果として沈黙したというのが最後の理由。でも、御風の著作の数を調べると、1942~1950年の間に15冊の本を刊行し、『野を歩む者』も1950年まで発刊しており、執筆意欲は十分にありました。実際、『野を歩む者』は昭和5年の第一号から昭和25年の第60号まで、御風一人で原稿執筆校正をすべて一人で行われています。
さらに、御風の沈黙は戦後も続くのです。戦前の御風の沈黙の理由が、戦争にヒスイを利用させないためであるなら、なぜ終戦後も沈黙を続けたのでしょうか。戦後の日本は、戦火によって荒廃し、天然記念物の指定も1951年までほとんどなされていません。御風は連合国に占領された戦後の日本を見て、ヒスイの再発見を発表すれば、進駐軍によって没収、盗掘されるのではないかと恐れたのかも知れません。兎に角、御風の沈黙は徹底していて、その理由は未だによくわかりません。
その他の謎はいつヒスイが再発見されたかに関する異説です。考古学者で、ヒスイ研究を進めていた八幡一郎博士は1923年に関東大震災で荒廃した東京を離れ、御風宅を訪問し、長者ケ原遺跡で、白くてきめが細かく、点々と草緑色の斑点がある礫を拾い、東京に持ち帰ったと発掘報告書『長者ケ原』序文に記しています。この礫は石英岩の一種で、草緑の斑点は特殊鉱物との接触によるものと鑑定されました。彼は1942年にも長者ケ原遺跡を調査したが発見できず、緑色の礫は1942年に完成した資源科学研究所で保管していたのですが、1945年の空襲で焼失してしまいます。この発見が本当であれば、糸魚川のヒスイは昭和13年(1938)以前から知られていたことになります。
*御風が奴奈川姫伝説とヒスイを関連づけたことの丁寧で、わかりやすい説明は土田孝雄「奴奈川姫伝説とヒスイ文化について」(『地学教育と科学運動』、76、2016)を参照。
**御風は妻テルの間に5男1女をもうけたが、4男の元雄と既述の文子以外は早世した。