子供の「赤い蝋燭と人魚」と大人の「佐渡情話」

 人魚の切ない愛を描いた未明の名作童話の挿絵のために病にむしばまれながらいわさきちひろは越後の海をスケッチし、1975年6月に童心社から出版された『赤い蝋燭と人魚』の挿絵はちひろの絶筆となりました。この本が出版される前年の1974年8月にいわさきちひろは病のため亡くなり、彼女のスケッチがそのまま遺作となったのです。「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。」という冒頭の文に添えられた、月光に照らされ、波しぶきが立つ海の挿絵は、モノクロで、これ以上ないほどに未明の世界を描き出しています。入退院を繰り返していた彼女は挿絵を描くために本物の海を見る必要があると思い、信州のアトリエから越後の海岸まで出かけたのです。未明の呪術漂う世界はモノクロのスケッチが似合っています。

 「赤い蝋燭と人魚」は1921(大正10)年に東京朝日新聞に連載された小川未明の創作童話。人間に潜むエゴイズムと異形の人魚が抱く怨念をテーマとした作品です。人間の優しさを信じた人魚の母によって、人魚の娘は老夫婦に託され、裏切られる物語です。作品は上越市大潟区の雁子浜(がんごはま)に伝わる人魚伝説をヒントにしたと言われています。童話の最後の(五)はクライマックスで、次のような物語。

 香具師が人魚の娘に目をつけ、法外な金に目が眩んだ老夫婦は人魚の娘を売ってしまう。娘を入れるための大きな鉄格子のはまった檻を乗せた車がやってきて、娘は形見に赤く塗り染めたろうそくを残していった。娘を入れた檻を乗せた船が沖に出た頃、蝋燭を買いにずぶ濡れの髪の色白な女が訪れた。女は赤い蝋燭を買っていくが、払った硬貨は貝殻で、その晩は急に空模様が変わり海は大荒れに荒れ、沖では数多くの船が難破した。その後も毎晩、何処からともなく、赤い蝋燭が神社に灯され、海は荒れ狂った。やがて赤い蝋燭が灯るのを見た者は海で溺れ死ぬという噂が広がり、人々は神社を恨み恐れ、誰も訪れなくなり、間もなく海岸の町は亡び、無くなった。

 未明の童話のヒントになっているのが「雁子浜の人魚伝説」です。この伝説はある水難事故が元になっています。袴形の神社は小高い丘の上の松林の中にあり、佐渡島を臨む鳥居の南側には常夜灯が並び、悪天候でも献灯が絶えませんでした。この献灯の光を頼って、佐渡島から渡ってくる不思議な女がいました。雁子浜の若者がこの女と恋仲となって、毎晩抜け出すようになります。若者には許嫁がいて、その母が二人の恋路を咎めたため、若者はひと夜献灯を休んでしまいます。そのため、女は遭難して溺れ、袴形の崖下に打ち上げられ、若者も女の後を追って身を投げました。同情した村人達は二人を弔って、常夜灯のそばに比翼塚を作り、小さな地蔵尊像を安置しました。

 この民話は佐渡のお弁と柏崎の籐吉の悲恋話「佐渡情話」にとてもよく似ています。それもその筈で、越後出身の浪曲師寿々木米若がこの民話と民謡の「佐渡おけさ」を使って浪曲台本「佐渡情話」をつくり、それが大ヒットして、映画にもなったのです。米若は1928(昭和3)年渡米し、アメリカで興行し、帰国後「佐渡情話」をレコーディングし、これが大ヒットします。米若は高浜虚子に師事した俳人でもありました。戦後生まれの私には米若の浪曲佐渡情話」の記憶は微かに残るだけなのですが、美空ひばりの歌謡曲佐渡情話」はしっかり記憶に残っています。

 越後の民話が童話「赤い蝋燭と人魚」、そして浪曲佐渡情話」に繋がっていたのは歴史の偶然かも知れませんが、越後生れの二人が生み出した世界は随分と重なり合って越後生れの私を惹きつけているのです。