沈黙の小川未明

(昨日の修正版)

 越後出身の会津八一(1881-1956)、小川未明(1882-1961)、相馬御風(1883-1950)は共に東京専門学校(1902に早稲田大学と改称)に、それぞれ1902年、1901年、1902年に入学し、坪内逍遥に学び、同じ英文学科を卒業している(未明と御風は同じ旧制高田中学で学び、未明は中退して東京専門学校に入学)。「未明」という号は在学中に発表した小説「漂浪児」(1904)を褒めた逍遥が与えたもので、「びめい」と読むが、既に1938年には「みめい」と読まれている。

 小川未明は卒業後、雑誌『少年文庫』の編集にたずさわり、童話も書くようになる。1907年に第一小説集『愁人』(隆文館)を、1910年に第一童話集『赤い船』(京文堂)を刊行。未明は社会主義思想に近づき、1926年に感想「今後を童話作家に」を発表後、童話に専念するようになる。未明は生涯に1200編を越える莫大な数の童話を書いている。

 御風は「小川未明論」(「早稲田文学」、1912(明治45))で「北国-わけても越後の自然は、驚くべく単調な、そして陰鬱な自然である…半年以上は単調な灰色を以て蔽われた自然である。」と述べ、さらに、1914(大正3)年出版の未明の唯一の詩集『あの山越えて』について、「…ずっと以前の君を思ひ出すと共に、僕は子供の頃の自分や越後の自然が思い出されて、たまらなく好い気持になる。そしてあの頃の君や僕と、今の君や僕と思い合せて、そのあまりに違い方の烈しいのに自分ながら驚かざるを得ないのだ。」と述べ、高田中学時代の二人の境遇と今の二人の境遇に断絶感を持っていた。1913(大正2)年未明は小説「嘘」を書き、それを読んだ大杉栄との間に交友が生まれ、同年御風は未明の『廃墟』を論じ、大杉との間に個人革命と社会革命の優劣に関する論争が起こる。個人の意識内の革命(御風)と、外部社会の革命(大杉)のいずれが重要かで二人が議論し、それが御風の場合、1916(大正5)年の『還元録』へ、未明の場合は社会主義運動へと繋がり、御風と未明は糸魚川と東京に分かたれることになる。

 昭和に入り、御風は糸魚川で、未明は東京でそれぞれ戦時体制に協力していく。未明の場合はそれが真に積極的で、そのため戦後に彼が児童文学協会の会長になり、昭和21年野間文芸賞、昭和26年芸術院賞、昭和28年芸術院会員、文化功労者になったことに対し、「二つの転向」として批判がなされてきた。その辺の事情については、後にじっくり考えてみたい。

 未明は「日本のアンデルセン」と賞讃されたが、彼の「赤い蝋燭と人魚」(初出1921(大正10)年)は暗く寂しく孤独な呪文のような文章からなり、現在の散文的な事実からなる世界を描く童話とは随分と異なっている。御風が述べたように「故郷の冬の世界を呪文のように描く」ことは御風の糸魚川以上に高田、直江津の暗い世界が背景にあると私などは想像してしまう。越後の人魚伝説、アンデルセンの童話が混淆し、それが暗く陰鬱な越後の海を背景にして、呪文のごとき言葉遣いによって述べられ、大きな効果をもたらしている。その人魚は、例えば堀口大學の詩「人魚」(『砂の枕』1926(大正15)年)と大きく異なり、何ともたまらなく越後風なのである。

(1)小川未明の三つの時期

 小川未明は高田の旧下級士族に生まれた。未明の父澄清は上杉謙信の崇拝者で、1901(明治34)年米沢市上杉謙信を祀る上杉神社より分霊、謙信公を祭神に祀った春日山神社を創建した。謙信の信奉は、小川父子に共通するもので、小川未明の思想や文学創作に大きな影響を与えた。また、漢学塾教育も小川未明の文学創作に影響を与えている。彼は小学校に入学する前から漢学塾で学び、四書五経を中心とした儒教の教育を受けていた。

 小川未明に関わる主要な作品を、不十分だが先に列挙しておこう。

・1921(大正10)「赤い蝋燭と人魚」(東京朝日新聞夕刊)(1975(昭50)いわさきちひろ画で、童心社刊)

・1926(大正15)「今後を童話作家に」(東京日日新聞)(未明の童話作家宣言)

・1942(昭和17)『新しき児童文学の道』(フタバ書院成光館)(未明の軍国主義的な思想をまとめたもの)

・1959(昭和34)古田足日『現代児童文学論:近代童話批判』(くろしお出版)(未明らの近代日本童話からの脱却を宣言したもの)

・1966(昭和41)上笙一郎『未明童話の本質-「赤い蝋燭と人魚」の研究』(勁草書房)(その成立過程を多角的に追求)

・2002(平14)岡上鈴江『父 小川未明』(新評論、初版は1970)(岡江は未明の次女)

 

(1.1)小説から童話へ

 童話に転向した未明の優れた作品の多くは大正期に生まれている。中でもよく取り上げられるのが「赤い蝋燭と人魚」(1921)で、未明39歳の作品。彼が「日本のアンデルセン」と言われることになった作品で、人間は優しいと思った人魚の母が自らの赤ん坊を老夫婦に託すが、老夫婦は裏切り、香具師に人魚の娘を売ってしまうという物語である。東京朝日新聞に連載され、小川未明出世作となった。未明の故郷の高田には「人魚塚」という民話があり、未明は1912(明治45)年の「北方文学2号」でそれについて書いている。それ以上に、アンデルセンの「人魚姫」が強く影響している。「人魚姫」の翻訳は1911(明治44)年上田万年によってアンデルセンの25編の童話が翻訳された『安得仙家庭物語』(鐘美堂)に「小海姫」の題名で掲載されたのが最初。その後、「人魚姫」は1920(大正9)年に西条八十により翻訳され,「人魚ものがたり」の題名で『金の船』に掲載される。未明は同じ童話作家西条八十が翻訳した「人魚ものがたり」に刺激をうけ,これまであたためてきた上記の越後伝説をモチーフにした童話を1921(大正10)年2月の東京朝日新聞に「赤い蝋燭と人魚」の題名で発表したと思われる。越後の暗く陰鬱な冬の風景と呪文のような文章が原作とは異なる独特の世界を描き出している。

 次の年に発表されたのが「野ばら」で、未明40歳の作品。老兵と青年兵が二つの国の国境を見張っていた。老人は大きい国の兵士で、青年は小さい国の兵士。二人は親友になるが、二国の間で戦争が勃発。老兵が自分を殺して手柄にするよう青年兵に言うが、青年は殺すことを拒否し、遠い戦場へ向かう。国境に残った老人は青年の身の上を案じながら、一人で暮らしていた。終戦後、老人は近くを通りかかった旅人から小国の兵士は全滅したと教えられる。その夏に野ばらは枯れ、老兵は息子や孫の待つ祖国に帰る。友情の素晴らしさと戦争の理不尽さを語りかけてくる「野ばら」は妙に私の心に残る作品で、その後の未明の作品とは大きく異なっている。人生の義ではなく、善のすばらしさを語っている。今は多くの人がロシアとウクライナパレスチナイスラエルの戦争を想起するのではないか。

(1.2)戦時の未明

 「少女と老兵士」は『中央公論』に1939(昭和14)年に発表される。この辺から未明の思想も行動も大きく変わる。1941年日本少国民文化協会が発足し、この協会は戦中において唯一の公的な児童文化団体となる。1943年には戦況が悪化し、日本少国民文化協会は創立の目的に「聖戦を完遂二挺進スルヲ目的トス」を加え、翼賛団体としての性格を一層鮮明にする。未明は少国民協会委員で、1942年に第一回少国民文化功労賞を受賞している。次女の岡上鈴江小川未明が熱狂的な愛国者であり、無条件の信頼から大東亜共栄圏の建設に参加したと述べている。

 日本小国民協会の上部団体として日本文学報国会が1942(昭和17)年に設立されるが、会長は徳富蘇峰で、彼は大日本言論報国会の会長にもなっている。徳富蘇峰の会長就任は自ら進んでの受託ではなく、そのためか彼自身の活動はほとんどなかった。日本文学報国会が文壇の一元化のためというより、時局への即応を表面的に示しながらも、時局の風圧を回避するための防壁、隠れ蓑の役割を果たしていたと考える会員が多かったが、未明は日本少国民協会を国民が戦争に向き合うために不可欠の組織であると考えていた。

(1.3)戦後の未明:「暗愚小伝」と「子供たちへの責任」

 高村光太郎は彫刻家の高村光雲の長男で、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に選ばれ、多くの戦争賛美詩を発表した。この点では未明によく似ている。既に戦時中の光太郎と相馬御風との交遊について述べた。御風は光太郎と同じ1883(明治16)年の生まれだが、明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っている。大正に入り、光太郎は口語自由詩に移行するが、御風は1908(明治41)年には既に口語自由詩を発表している。光太郎が日本文学報国会の詩部会長を務め、御風もその会員に名を連ねている。

 戦後、光太郎は自らの詩が若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送る。人道主義的な立場にありながら、積極的に戦争に協力したことへの自責の詩が「暗愚小伝」。彼が敗戦となるまでの自らの生涯を振り返ったものである(長編の詩だが、Web上で読むことができる)。

 さて、未明が属していた日本少国民文化協会は大政翼賛会の指導下にあり、戦時下の少年たちの戦意昂揚を目的としていた。また、日本文学報国会は内閣情報局の指導によってつくられ、文学者が「国策の周知徹底、宣伝普及」にあたることを目的としており、会長に徳富蘇峰、常務理事に久米正雄、理事に下村海南、長与善郎らが就任し、小説、劇文学、評論随筆、詩、短歌、俳句、国文学、外国文学の8部会が置かれていた。

 光太郎に似て、未明も少国民文化協会設立の会合などで愛国的情熱を吐露して少国民文化建設を叫んでいた。光太郎の「暗愚小伝」に対して未明は「子供たちへの責任」(『日本児童文学』1946(昭21))を書く。その中で、「戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。…それが終戦後の態度はどうであるか。今までの敵を賛美しまちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう」と彼が述べる真意は何だったのか。

(2)小川未明の転向

 作家としての未明と彼の転向について考えてみよう。それは未明の童話作品への評価と作家としての未明への評価の違いに関わることである。画家や音楽家の場合、作品と作者は大抵の場合区別されていて、作品の評価と音楽家や画家の人間評価は別のものであると考えられてきた。画家の素行と作品の価値は別ものと看做されてきた。だが、文学の場合、作家と作品の間には密接で、複雑な関係があると考えられていて、それは評論の主要な主題、領域とさえ捉えられてきた。

 私小説は自伝的小説でもある。一方、小説は作家が虚構の世界を構築することだから、作家と語り手と主要人物が同じことを前提にした私小説では、作家の「私」をできるだけ事実に近い形で叙述することと虚構世界をつくることとは相反する行為になっている。作家と語り手と主要人物が同一であって、作家個人の姿をできる限りありのままに描写しようとすれば、それは自伝や日記になるしかない。逆に、小説であることを追求すれば、その題材を作家の身辺的な事柄に限定せずに、想像力によって虚構の世界を構築しなければならなくなる。

 小林秀雄がルソーの『告白』を私小説の原型とみなす理由は、ルソーが自己認識、自己探求を徹底的に行ったからである。そして、小林が強調するのは、ルソーの試みを徹底すれば、自己を取り巻く他者や社会を自らの問題にせざるを得ない点である。ルソーは自己と社会や自然と対決し、逃げることなく、徹底的に立ち向かった。小林が日本の私小説に不満を抱くのはこの点で、日本の私小説において描かれる「私」は、社会化されていないと批判する。

 さて、小川未明小林秀雄固執する私小説の「私」を自らの童話で使うことはなかった。童話の主人公は大抵子供であり、未明自身が「私」として作品中に登場することはまずない。未明が私小説を書いていたなら、上記の小林秀雄の批判やルソーの試みに対して、どのように反応するだろうか。未明は自らの転向について反省めいたことを述べていないので、何とも言えないが、もし彼が童話の中に自らを登場させようとしたなら、「私」は転向をどのように告白するのか、私にはとても興味深いのである。私には彼の二回の転向を読者に納得させる仕方で述べるのは不可能としか思えない。

 日本の児童文学は近代文学成立とほぼ同時期に確立された。巖谷小波による『こがね丸』や小川未明の第一童話集『赤い船』(1910年)が始まりとされる。1918年には鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』が刊行され、芥川龍之介有島武郎北原白秋などが参加し、後に新美南吉らを輩出、児童文学の発展に貢献した。

 未明は早稲田大学坪内逍遥ラフカディオ・ハーン島村抱月正宗白鳥に出合う。彼は新浪漫主義の作品を書き、1906(明治39)年には坪田譲治浜田広介らと「青鳥会」をつくる。4年後、未明は最初の童話集『赤い船』を出している。未明の作品に注目したのは大杉栄だった。未明は大杉との出会いをきっかけにアナーキーな空想社会主義の夢をみる。そして、東京朝日新聞に『赤い蝋燭と人魚』が連載された。未明は「童話の神様」とか「日本のアンデルセン」と呼ばれてきたが、戦時中に社会主義者から国家主義者へ転向する。さらに、戦後は民主主義者に二度目の転向をするが、昭和21年野間文藝賞、昭和26年芸術院賞、昭和28年芸術院会員、文化功労者と続き、未明の名声は絶頂を迎える。だが、その後、一挙に批判の嵐にさらされることになる。古田足日鳥越信らによる痛烈な批判活動が起こる。それは未明童話が呪術的、呪文的であり、未熟な児童文学だという批判で、未明の転向についての批判ではなかった。

 『転向者・小川未明 「日本児童文学の父」の影』は増井真琴著で、出版社は北海道大学出版会(2021)。彼が北海道大学に提出した博士論文がもとになっている。その私なりの要約をしておこう。未明の大正期の童話作品にのみ光が当たり、社会主義者から国家主義者への転向、そして戦後の民主主義者への再転向はほとんど知られていない。その転向の実態を知ると、童話作家のイメージは崩れていく。漢詩を愛する文学少年は早稲田で口語自由詩を紡ぐ詩人となり、童話を中心に作家活動を続け、社会主義思想やアナキズム運動に関心を持ち、大杉栄との交流を深め、革命後のロシアを「正義の国」と称賛する。それが、昭和になると一転し、天皇国家主義者に転向する。戦後は再転向し、民主主義者に転じ、児童文学者協会の最初の会長になり、戦時の日本社会を強く批判する。では、未明はなぜ転向に関して、弁明、反省をしなかったのか。著者は、未明を自己と向き合わない作家と結論している。小林秀雄風には、「私」を自ら社会化しなかったのだが、その徹底ぶりは見事で、「作品だけで評価する」ことが何を意味するか、改めて考えざるを得ない。

(3)鷗外「山椒大夫」と未明「赤い蝋燭と人魚」

 森鴎外小川未明の作品がどのように違っているか考えてみよう。いずれの作品も著作権が切れているので、「青空文庫」で簡単に読むことができる。「山椒大夫」は鷗外の明晰判明な文章が直接に私たちの大脳に入ってくるし、「赤い蝋燭と人魚」では呪文のような文章が独特の寂しく冷たく暗い世界を描き出している。

(3.1)「山椒大夫

 森鷗外の小説「山椒大夫」は説経、説話の「さんせう太夫」を下敷きにしている。今では「安寿と厨子王」と聞けば、ほぼ誰もが鷗外の作品を思い浮かべる。そこで、まずは小説の内容をおさらいしておこう。

 

 平安時代末期、母、安寿、厨子王たちは行方不明の父を探して旅に出る。福島の役人だった父は九州に流され、その後消息不明になっていた。彼らは越後まで辿り着き、そこで泊まろうとするが、村人に「人買いがうろついているから、見知らぬ旅人は泊めない」と断られる。困り果てていると、一人の男がうちに泊まれと声を掛ける。一晩明かした後、彼は今後の行き先を聞いて案内すると言われ、その親切さに不安を覚えながら、男に従う。すると、母と女中、安寿と厨子王は別々の船に乗せられてしまう。安寿と厨子王に向かって、母は「お守りを肌身離さず持つように」と言うが、安寿は小さな金の仏像を、厨子王は父から受け継いだ小刀を持っていた(これが直江の浦(現上越市)で起こった)。

 安寿と厨子王が着いた丹後には、悪名高い大金持ちの山椒大夫がいて、有り余る金で奴隷を買い漁っていた。二人は奴隷となり、安寿は海水を運び、厨子王は芝刈りを命じられた。毎日の重労働に耐えきれず、いつしか逃げようと話していると、それを聞かれ、山椒大夫のもとに連れ出される。山椒大夫は焼いた鉄を彼らの額に押し付けるよう命じた。額に鉄が当てられたところで、安寿と厨子王は眼を覚ます。彼らは同じ夢を見ていて、安寿のお守りの仏像の額には焼き印が入っていた。

 恐ろしさを思い知った安寿は、もう逃げることを諦め、次第にふさぎ込んでいく。ある日、安寿が「芝刈りをさせてほしい」と頼むと、「男の仕事をするなら髪を切れ」と言われ、安寿は髪の毛を切り落とされる。二人は芝刈りに出かけ、山頂に着く。安寿は丹後が京都の都に近いことを厨子王に伝え、下の寺に行くよう命じた。

 戻ってこない二人を探しに行った追手が見つけたのは、沼のそばにあった安寿の靴だけで、安寿は沼に飛び込み、自殺していた。山椒大夫厨子王が逃げた先を寺だと推測し、寺の住職に詰め寄るが、住職はきっぱり否定した。次の日、厨子王は住職に連れられ、寺を出て、山を越え、京都に辿り着く。厨子王は僧として清水寺で暮らすことになる。

 ある日、清水寺で高貴な人が病気の親戚のために祈祷していたら、特別な仏を持つ清水寺の僧に会うように告げる不思議な夢を見たと厨子王に言う。それを聞いて、厨子王は安寿のお守りの仏像を見せた。その仏像を置いて祈祷すると、貴族の親戚の病気は治癒し、仏像から厨子王が平正氏(まさうじ)の息子だとわかる。その貴族は彼を養育し、立派な官僚に育ててくれる。成長した厨子王は山椒大夫が権力を握っている丹後の長官となり、丹後での奴隷売買を禁止し、奴隷を解放した。

 大仕事を終えた厨子王は家族のことを調べる。父は既に九州で亡くなり、安寿は自殺したことを知る。佐渡島に母がいると聞いた厨子王は佐渡島に向かう。厨子王は粗末な家の前にいる盲目の老婆を見かける。そして、老婆の歌に「安寿」、「厨子王」という名前が出てきて、厨子王が駆け寄り、老婆の額に仏像を当てると、老婆は見えなかった眼が開き、「厨子王」と叫び、二人はしっかり抱き合った。

 

 鷗外は「さんせう太夫」の筋書きをベースに、彼自身の考えや好みに合わせ、小説化したと述べている。その際、鷗外は安寿の拷問、山椒大夫の処刑など、本来克明に描写されていた残酷な場面を除いた。また、安寿は焼印を押されるが、鷗外はそれを夢の中の出来事に変え、お守りの地蔵が焼印を押されることに変えている。

 鷗外が書いた小説「山椒大夫」は説経「さんせう太夫」を素材にしているが、「大夫、太夫」の違いがある。大夫(たいふ、だいぶ、たゆう)は古代中国の身分の呼び名で、日本でも官職名として使われた。中国から伝わった時点では「大夫」であって、「太夫」という表記はなかった。芸名としての「…太夫」という表記は、義太夫節の祖である竹本義太夫の時代からずっと「…太夫」と書かれていた。江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者も「太夫」と呼ばれた。

 説経の「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」の違いを挙げてみよう。西欧の考えをベースにした鷗外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置き、原作の説経が持っていた人間の荒々しい情念の表出部分を巧みに切り捨てる。だが、それは演者がもっとも力を入れて語った部分だった。説経では実際に「安寿の身体に焼印が押される」のだが、鷗外は「姉弟二人が同時に見た夢の中の出来事」に変える。鷗外では安寿は入水自殺するが、説経では山椒太夫の家来に責め殺される。説教では、厨子王が責め殺された安寿の復讐を果たし、山椒大夫は竹の鋸で残酷にひき殺される。

 説教のストーリーと解釈ではとても教科書には載せられない。説経の「さんせう太夫」は勧善懲悪を越えて、人間のもつ憎悪、悲哀といった感情、情念が誇張され、劇的に表現され、唄われている。それら暗く、否定的な側面を切り落とし、人間のもつ肯定的な側面に光を当てたのが鷗外の「山椒大夫」。「山椒大夫」は絵本や教科書で誰もが知っている。森鷗外歴史小説だと知らない子供でもその物語を知っている。一方、説経の方は古典芸能として細々と残るだけで、ほとんどの日本人は「説経」という名称さえ知らず、「瞽女唄(ごぜうた)」などほぼ死語となっている。

 では、説経、浄瑠璃瞽女唄などの「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」はどのように違うのか。直木賞芥川賞の違い、大衆文学と純文学の違いを優に超えて、御伽草子と近代小説、物語と小説の違い、中世的人間像と近代的人間像の違いなどと表現すると、どれも正確ではないにしても、まずはそれ以上の違い、差があり、鴎外の作品によって、説経などの主張は今では忘れ去られることになった。

 「説経」は僧が経典の意味を説いて聞かせるもので、「宿題を忘れて先生にセッキョウされた」という場合は「説教」だが、「説教」も「説経」の意味で使われた。「説経(教)師」は神仏の教えを説く人のことで、経文を説き聞かせる人と、節をつけて語る人の二通りがある。後者は説経浄瑠璃と呼ばれ、平曲や謡曲の影響を受けて、歌謡化し、江戸初期に流行した大衆芸能。「説経節」の「節」は浪花節の「節」と同じで、旋律、メロディーのことである。つまり、経文をリズムとメロディーつきで説き聞かせるのが説経節

 「説経節」は仏教を広めるため、僧侶が伝説に脚色を加え、仏教の声楽を基礎とした音曲で、『平家物語』で有名な琵琶法師もここから生まれた。だが、説教節は仏教芸能から次第に離れ、世界観や思想の背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、悲嘆、哀切を伝える「物語」が前面に押し出され、大衆演芸となって行く。慈円の『愚管抄』で述べられた「冥顕観」が芸術として具体化され、世阿弥がそれを能として具体化し、そこからさまざまな形態が生まれた。中世的な世界観である冥顕観が説経節浄瑠璃瞽女唄に引き継がれていく。

 鷗外は「さんせう太夫」を、その歴史性を残しながら、彼自身の言葉によって再構成し、歴史小説を生み出した。鷗外がこの作品を発表したのは1915(大正4)年、いわば日本が近代国家としてスタートを切り、ようやく自国の遠い過去を振り返る余裕が生じた時だった。1912(大正元)年乃木希典が殉死し、それに影響を受け、鴎外は歴史小説を書き始める。史実通りの「阿部一族」、「渋江抽斎」に対し、歴史離れの小説が「山椒大夫」、「高瀬舟」。「山椒大夫」の場合の史実は説経節の台本などの文献や実際の公演、興行である。そして、これまでの説明からも明らかだが、鷗外の「山椒大夫」は随分と歴史離れしている。

 説経節の「さんせう太夫」の主人公は神仏の化身として讃えられる安寿だが、鷗外は彼女を地上で行動する女性として描き、厨子王を彼女の願いを遂行する男性と位置付けた。そのような作品が生まれた経緯を辿ると、そこには鷗外の挫折があった。軍医として国に尽くさなければならないのに、小説を副業とすることは好ましくないという意見があり、鷗外は福岡の小倉に左遷される。この左遷によって、立身出世しか頭になかったエリートは左遷先で現地の人々と触れ合う。東京に戻り、陸軍軍医総監となり、結婚して家庭を持つ。その後、初めて歴史小説を書き、その中で生まれたのが「山椒大夫」だった。

 越後の盆踊歌であった松坂節と歌祭文(うたざいもん、祭りのときに奏上する文詞で、祝詞(のりと)や祭文)が結びついて生まれたのが「祭文松坂」。祭文松坂は目の不自由な女性旅芸人の瞽女が門付をして唄ってきた祝唄である。越後の瞽女は、米山を境に高田と長岡の二つが主流。長岡瞽女は山本ゴイ家が支配する近世的な家元制度であったのに対して、高田瞽女は親方が家を持って弟子を養い、親方の中から座元を選出するという、中世の芸能座の組織を守ってきた。

 説経節は小説の「山椒大夫」とは随分と異なる。小説は読むものであり、文字を通して内容を理解するものである。情報伝達という点で説経節と小説は音と文字の違いと言えるほどに違っている。だから、説経節と鷗外の作品が違うことは当たり前のことで、説経節「さんせう太夫」を下敷きにしていても、二つは別物だと考えるべきである。実際、説経節「さんせう太夫」には冥界と顕界が交錯する構造、今風には聖と俗の構造が基本にあるが、鷗外の「山椒大夫」にはそのようなものはない。鷗外は説経節が唄う世界を小説として書き残したのではなく、まるで別物を描いたのである。

 説教は寺社の祝祭の日、主にその境内で語られ、古きものの消滅と新しきものの生誕を、語り物の世界に転移し、表現したもの。死と再生の反復が唄われる説経節の背景にあるのは、世界を冥と顕(聖と俗)とに分割することを基本原理とする伝統的世界観である。

 鷗外の物語の主題は姉の自己犠牲による弟と母の救済という強い倫理性である。安寿の自己犠牲という行為は彼女の自我の覚醒と一体となっている。安寿の聡明な自我と強靭な意志に基づく計画が、厨子王を彼女の代行者として、伝統的支配からの脱却と近代的世界への到達を成就させる。女性の「自己犠牲」と「自己主張」、そしてそれによって達成される救済は未来へと進む道を見いだす希望となっている。

 文学作品ではない説経節は芸能、演芸であり、感覚的、感情的なカタルシスが目的となってきた。文学としての「山椒大夫」と芸能としての「さんせう太夫」の違いなどと説明され、共に「長い歴史をもつ古典」としてぼかされてきた。文学と芸能の垣根を取り払い、次に「古典」の衣を脱ぐならば、安寿と厨子王の物語を直視できるようになるのではないか。そのヒントが小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にあるように思えるのだが、未明の童話はとても曲者である。「童話は小説なのか物語なのか」と問われると、ドギマギしてしまうし、未明の文章は呪文のようだと言われると、これまた困惑するのである。

(3.2)「赤い蝋燭と人魚」

 小川未明の「野ばら」は1920(大正9)年大正日日新聞に掲載された。野ばらが枯れることを通じて、未明は権力や暴力に対抗しなければならないということを読者に伝え、自然に従う生き方を伝えている。(この時代の未明にとって)自然に従うことはトルストイクロポトキンの影響を受け、抑圧と強制を強いる国家体制から逃れ、自然状態に戻るアナキズムの積極的な実践を意味していた。未明は野バラが枯れる場面を描くことによって戦争は強いられたものであり、それに反対する必要があり、それによって自然へ回帰できると主張したかったのである。「野ばら」はこのように要約でき、子供が一人で読んでも決して呪文には聞こえず、途中でも結末が何となくわかる。今の子供たちが読んでも、この童話の主張は(思想は別にして)明白。

 ところが、翌年1921(大正10)年の「赤い蝋燭と人魚」は「野ばら」とはまるで異なっている。「赤い蝋燭と人魚」は未明の1200を越える作品群の中で傑作と言われているが、冬の日本海の寒く暗い自然を背景にして、独特の文体で陰鬱な物語が語られていく。「野ばら」と違って、一人で読むのではなく、誰かが語るのを聞く方がずっと適しているように思われる。呪術や呪文と呼ばれてきた「赤い蝋燭と人魚」は既述の説経、浄瑠璃瞽女唄などを通じて聞く方が遥かに自然で、感情移入によって共感できる。

 鷗外の「山椒大夫」は私がそのあらすじをまとめても大して支障はないが、史実としての説経節のシナリオを要約することは能や歌舞伎を言葉で説明することと同じようなもので、それが「赤い蝋燭と人魚」についても言える。その意味で、「野ばら」とはまるで違う、独特な物語なのである。そして、それは小説と昔の物語の違いでもあると既に述べた。未明の「赤い蝋燭と人魚」は彼の他の童話以上に、「お伽噺」に似ていて、現代文で要約することが童話の命を殺してしまう。それが「未明の童話は呪文、呪術」と呼ばれてきたことへの私なりの解釈である。要約された呪文は呪術には使えない。説経節瞽女唄を現代文で要約しても、肝心のパトスを伝えることができず、「赤い蝋燭と人魚」を私が要約しても、それは無残な残骸に過ぎない。そして、それが鷗外の「山椒大夫」との決定的な違いである。

 もう一つ重要なのは、明治以降の童話に関する変化と子供に関する変化。博文館は巖谷小波を編集長にして『少年世界』を刊行し、この雑誌に小波は子供向けの話を口語体で数多く書き、それらを「お伽噺」と呼んだ。そこに大きな変化が起きる。それが「童話」の登場。1918(大正7)年『赤い鳥』が刊行される。漱石の弟子鈴木三重吉が子供のための雑誌を企画し、有島武郎芥川龍之介北原白秋島崎藤村らの賛同を集めることによって、「お伽噺」を否定し、子供のための「童話」を提唱したのである。また、文部省唱歌に対抗して提案したのが「童謡」だった。

 『赤い鳥』の打ち出した子供観は「良い子、弱い子、純粋な子」の三本立てで、私が学んだ妙高市の新井小学校の(戦後の教育目標の)「よい子、つよい子、できる子」と似ていなくもないが、『赤い鳥』の子供観こそ大正時代の子供観だった。平和、平等、博愛などの基本にある善(good)をもつ良い子、弱い人を助け、共感する子、素直で実直な純粋の子というのが大まかな子供像になる。その根幹にある理想の子供は「子供は無垢な存在である」という思い込みのようなものである。現在「子供は無垢な存在」と考える人は少なく、ルソーのように、生まれたばかりの子供は無垢でも、すぐに子供は変わると考える人がほとんどである。未明も白秋も子供は素晴らしい存在で、「子供は無垢な存在」という童心主義を(少なくても大正時代は)信じていたようである。「弱い子」は少々わかりにくいが、ライバルの雑誌『少年倶楽部』が「強い子」を標榜し、男子中心の立身出世主義を表に出していたことを考えると、成程と合点がいく筈である。

 では、未明の傑作を考えてみよう。「赤い蝋燭と人魚」は「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。北方の海の色は、青うございました。ある時、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。雲間から洩もれた月の光がさびしく、波の上を照していました。どちらを見ても限りない、物凄い波がうねうねと動いているのであります。」という佐渡の荒波を思わせるような荒涼とした自然描写で始まる。「野ばら」が顕界だけの物語だったのに対し、「赤い蝋燭と人魚」は冥界も含んだ物語だと示唆しているようで、私には慈円の『愚管抄』を貫く冥顕の世界観、例えば『平家物語』や、未明の師だった小泉八雲の『怪談』の世界が浮かび上がってくる。

 北の暗い海で寂しく暮らし、上半身が人と同じで、優しい人間に憧れ、自分の子供にも美しい町で楽しく暮らしてほしいと願った人魚の女性は決断する。「せめて、自分の子供だけは、賑やかな、明るい、美しい町で育てて大きくしたいという情から、女の人魚は、子供を陸の上に産み落そうとしたのであります。そうすれば、自分は、もう二たび我子の顔を見ることは出来ないが、子供は人間の仲間入りをして、幸福に生活をするであろうと思ったからであります。」

 お宮(神社)は山の上にあり、その下に小さな町があるのは未明の父が創建した春日山神社を思い起こしてしまう。その町中に老夫婦が営む蠟燭屋があった。お宮にお詣りする漁師たちは老夫婦の店で蝋燭を買っていた。ある日、お婆さんがお詣りの帰りに人魚の赤子を見つける。「可哀そうに捨児だが、誰がこんな処に捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに私の眼に止とまるというのは何かの縁だろう。このままに見捨てて行っては神様の罰が当る。きっと神様が私達夫婦に子供のないのを知って、お授けになったのだから帰ってお爺さんと相談をして育てましょう」とお婆さんは思い、お爺さんと相談し、育てることにする。二人は話に聞いている人魚に違いないと思った。それでも、「いいとも何なんでも構わない、神様のお授けなさった子供だから大事にして育てよう。きっと大きくなったら、怜悧ないい子になるにちがいない」と二人は考えた。

 美しく育った娘は人前には出ず、お爺さんの作る蝋燭に赤い絵の具で絵を描き、それが海難除けになると評判になった。ある時、南の方の国から香具師がやって来て、何度も人魚を売るように老夫婦に頼み、「昔から人魚は、不吉なものとしてある。今のうちに手許から離さないと、きっと悪いことがある」と言われ、つい金にも心奪われて、娘を売ってしまう。娘は鉄格子のはまった箱に入れられ、「赤い蝋燭を自分の悲しい思い出の記念に、二三本残して」連れていかれた。

 さて、ここまでが「一」から「四」までの物語。そして、最後の「五」こそ、私には神仏混淆の冥顕観が見事に表現された締めくくりに思えるのである。アンデルセンの「人魚姫」にはキリスト教的な世界観が背景にあるのに対し、未明の作品にはそれがないと言われてきたが、人魚の売買が神を通じて人の社会に何をもたらすかを恐怖や畏敬を込めて描いているのが最後の「五」の節である。中世以来の冥顕思想が鬼や死者の代わりに人魚を登場させることによってお伽噺のように語られている。

(3.3)子供の「赤い蝋燭と人魚」と大人の「佐渡情話」

 人魚の切ない愛を描いた未明の名作童話の挿絵のために、いわさきちひろは病にむしばまれながら、越後の海をスケッチし、1975年6月に童心社から出版された『赤い蝋燭と人魚』の挿絵はちひろの絶筆となった。この本が出版される前年の1974年8月にいわさきちひろは病のため亡くなり、彼女のスケッチがそのまま遺作となった。「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。」という冒頭の文に添えられた、月光に照らされ、波しぶきが立つ海の挿絵は、モノクロで、これ以上ないほどに未明の世界を描き出している。入退院を繰り返していた彼女は挿絵を描くために本物の海を見る必要があると思い、信州のアトリエから越後の海岸まで出かけた。未明の呪術漂う世界はモノクロのスケッチが似合っている。

 未明の童話のヒントになっているのが「雁子浜の人魚伝説」。この伝説はある水難事故が元になっている。袴形の神社は小高い丘の上の松林の中にあり、佐渡島を臨む鳥居の南側には常夜灯が並び、悪天候でも献灯が絶えなかった。この献灯の光を頼って、佐渡島から渡ってくる不思議な女がいた。雁子浜の若者がこの女と恋仲となって、毎晩抜け出すようになる。若者には許嫁がいて、その母が二人の恋路を咎めたため、若者はひと夜献灯を休んでしまう。そのため、女は遭難して溺れ、袴形の崖下に打ち上げられ、若者も女の後を追って身を投げた。同情した村人達は二人を弔って、常夜灯のそばに比翼塚を作り、小さな地蔵尊像を安置した。

 この民話は佐渡のお弁と柏崎の籐吉の悲恋話「佐渡情話」にとてもよく似ている。それもその筈で、越後出身の浪曲師寿々木米若がこの民話と民謡の「佐渡おけさ」を使って浪曲台本「佐渡情話」をつくり、それが大ヒットして、映画にもなった。米若は1928(昭和3)年渡米し、アメリカで興行し、帰国後「佐渡情話」をレコーディングし、これが大ヒットする。米若は高浜虚子に師事した俳人でもあった。戦後生まれの私には米若の浪曲佐渡情話」の記憶は微かに残るだけだが、美空ひばりの歌謡曲佐渡情話」はしっかり記憶に残っている。

 越後の民話が童話「赤い蝋燭と人魚」、そして浪曲佐渡情話」に繋がっていたのは歴史の偶然かも知れないが、越後生れの二人が生み出した世界は随分と重なり合い、越後生れの私を今でも惹きつけている。

(4)未明の思想の各断片をつなげるには…

 近年は小川未明に「転向者」というレッテルが張られる場合が多い。例えば、青空文庫で簡単に読めるものに次のようなものがある。

 

童話「僕も戦争に行くんだ」(1937(昭和12)、青空文庫、国策協力のスタート)

「日本的童話の提唱」(1940(昭和15)、青空文庫

・戦時中には海鷲や陸鷲の多くの童話がある。

「子供たちへの責任」(1946(昭和21、9月)、青空文庫

童話「兄の声」(1946(昭和21、4月)、青空文庫

 

 「転向、転向者」と形容される未明の変遷を一貫して説明できないもどかしさから解放されようとしても、なかなか埒が明かない。未明の大学時代の自然主義大杉栄との親交、ラフカディオ・ハーンの影響等々がどのように未明の中で醸成され、童話作家に結実し、戦中、戦後につながるかは私には判じ物としか言いようがなく、もどかしい限りなのである。大杉栄の影響から大正期には思想的には共産主義的だったのが、昭和期に入り、戦争に積極的に協力していくことになる。そこにハーンの『Japan an attempt at interpretation』(1904, The Macmillan Company)(訳は『神国日本 解明の一試論』)がひょっとして影響しているのかも知れない。未明の卒論はハーンに関するもので、ハーンは早稲田大学の講師になって数か月で亡くなるのだが、未明はハーンから大きな影響を受けていたことがわかっている。その影響が昭和に入って再燃したのか否かは今のところわからない。

 ハーンは、評論『神国日本』の中で、日本には不思議な美しさが満ちていると述べ、その根源は日常生活にみられる道徳にあるとした。その上で、ハーンは明治維新を少数の卓越した人物の事業ではなく、国民的、民族的な本能の働きによるものと考えた。日本は国家存亡の危機になると、その民族本能は躊躇なしに道徳的経験、つまり、絶対服従の宗教である上代の祭祀に具現されている経験に立ち戻る。人々は神々の子孫である支配者の周囲に集まり、信仰の熱意に満たされ、支配者の意志を待つのである。危機に際し、日本人は自らの意志で、それまで忘れていた神道と帝(みかど)にすがってきた。保守派のかなりの人は小泉八雲に賛同するのではないだろうか。

 未明は社会主義者から国家主義者、そして戦後は民主主義者へと転向する。例えば、未明と漱石を比べてみるとその違いがはっきり分かる。「個人主義」と「国家主義」は共存できると考えていた漱石はリベラルな要素と保守的な要素の両方を持っていたとはいえ、「強制徴兵制」をもつ軍国主義個人主義を破壊するものと考えていた。1912年明治天皇の死によって明治時代が終わり、乃木希典が殉死をする。漱石は1914年に新聞で『こころ』の連載を始める。乃木こそが理想の国家の体現であると漱石が考え、それを「明治の精神」という言葉で表現したと考える人もいれば,儒教精神、武士道精神などが残る「明治の精神」を乗り越えるべきだと漱石が考えていたという解釈もできる。

 このような陰影や余裕、悪く言えば曖昧さがないのが未明の特徴で、それが「転向」という言葉につながっているように思えてならない。

(5)沈黙の未明

 相馬御風は故郷へ戻ることを決意し、それを『還元録』に記したが、肝心の理由については沈黙したままだった。また、戦中、戦後の糸魚川の「ヒスイ」の発見に自ら関わりながら、やはり沈黙を守った。彼の二つの沈黙についての理由はなんとか推測できるとしても、御風の先輩の小川未明が自らの二度の転向について沈黙を通したことは私には謎そのものなのである。未明が転向について一切語らず、漱石のように登場人物の躊躇や悩みとして作品上で語らすこともせず、性急に言い訳なしに次の行動に移ったことが私にはわからないのである。白から黒への変節にも見える転向について未明が一切釈明せず、沈黙したことと彼の性急で、短気な性格の間には密接なつながりがある気がするのだが…

 小説作品を読み、味わい、鑑賞することはその作者を知ることとは違う。何とも人間的だと思うのは、誰が書いたか、創作したかがいつも不可避的に作品につきまとっていることである。いつの間にか、作者不詳の名作などなく、何が書かれているかと並んで、誰が書いたかが文学にとって不可避の重大事になっている。

 小川未明が私のふるさとの先輩であり、童話作家であるという情報は、実は彼の作品を味わい、評価するには余計なもので、作品の評価に作者についての知識は必要ないというのが表向きの正論である。だが、童話の選定は大人によってなされ、読者である子供たち自身の評価と大人のそれは随分と違う筈なのだが、それはしっかり反映されてこなかった。大抵の大人は作者が誰かに強い関心をもち、それが子供に誰の童話を読ませようかという選択基準になってきた。だが、作品に直接関わることに作者が何者かなど無関係だというのが無意識になされる子供の立場であり、そこでは作者の思想や信念が作品評価にどれだけ相関しているかは関係がない筈である。

 中国に禅を伝えた達磨が傲慢な武帝と問答し、武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」と尋ね、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものなし)」と応じ、そう答えるのは誰かと問う武帝に、達磨は「不識(ふしき)(知らない)」と答える(『碧巌録』第一則)。達磨はなぜ「不識」と答えたのか。漱石の「坊ちゃん」を読んで、作者は誰かと問われたら、達磨はどう答えるだろうか。達磨が「不識」と答えた理由は、作品の意味を知るのに作者が誰かなど知る必要はなく、それは仏教の真理を知るのに誰が答えるかなど知る必要がないのと同じことであり、それゆえ、達磨は「不識」と答えたのである。そして、謙信が問われた「不識」への解答がこれだとすれば、納得できるのではないだろうか。蛇足ながら、この公案の「第一義」を「人生の第一義」と解釈したのが漱石。彼は「何の第一義」かを「人生の第一義」と定め、人生の最も重要な真理、つまり人生の第一義は「道義に裏打ちされた生き方」と考え、それを『虞美人草』で描いてみせた。そして、その際に漱石が小説で答えたことが重要ではなく、答えそのものが重要なのだというのが第一則についての達磨の主張だったということになる。

 そこで、達磨のように文学作品の作者、作家を知ることは雑音でしかないとタンカを切ったとしよう。その主張に従うならば、北斎や広重の浮世絵は作品そのものが重要で、それを描いた画家の態度、思想、人柄等を浮世絵自体の評価に使うことは誤っているということになる。すると、赤倉で亡くなった岡倉天心の美学、つまり絵画評価への疑問が出てくることになる。画家の絵画に対する思想や態度を重視し、高邁な精神をもたない絵画は一流ではないとした天心にとって、娯楽が表面に出た浮世絵は雑音を含んだ絵画でしかなかった。だが、印象派の画家たちはその浮世絵に惹きつけられ、それが新しい絵画への刺激となった。この議論を一層微妙にするのが文学、特に小説である。作家の思想は作品とは独立しているという主張に反対する人は美術の場合よりずっと多いのではないか。いわゆる純文学に関わる作家たちは自らの思想や心情と作品内容が深く、重く関わるべきだと思っている。そして、それはSF小説推理小説、映画やテレビドラマのシナリオなどの娯楽作品に関わる作家たちとは確かに異なっている。芥川賞直木賞の違いがそれを見事に物語っていい筈なのだが、いずれも作者の人間性が強く関わっている。娯楽作品に作家の心情や信条が無関係ということはなく、時には色濃くそれが表出される。絵画は言葉で描くものではないが、小説は言葉で述べるものであり、言葉は作家の思想を自ずと反映するのである。では、絵と書を一緒にした文人画などが工夫できそうだが、絵と書が一体化することがどのようなことかを私はうまく想像できないのである。

 郷土の画家、文人に対する価値判断をそこに育った人たちは自分でしていないのが普通だが、その人の作品を本当に知ろうとすれば、自分でその作品を味わい、しっかり判断するしかない。「不識」を前面に打ち出し、自分で「識」を見出すしかない。人に聞くのではなく、自分で識ることが不可欠で、その際、誰が言ったかなど不要なのである。

 さて、ここで再度二人の沈黙について考えてみよう。御風の沈黙はそれ程厄介とは思われない。単に解明に必要な情報が不十分というだけで、情報があれば説明できる類の沈黙である。御風の沈黙の解明に沈黙の意味など必要ないのである。だが。未明の場合、彼の思想と童謡との相関関係は実に厄介なのである。童話作家は純文学ではないとしても、童話は娯楽作品とも言い切れない。むしろ、子供たちに立派な大人になることを促すような内容が求められてきた。となれば、作品内容と作家の思想の関連が重要になってくるのだが、読者である子供にとって作者の思想はどれだけ関係があるのだろうか。実際、作者の思想など子供が考えるはずもなく、未明の釈明なしの沈黙も子供には何の意味もない。

 こうして、御風の沈黙は大人への沈黙であり、それゆえ、釈明できるが、未明の沈黙は子供への沈黙でもあり、それゆえ、子供への釈明は実に厄介となる。とはいえ、未明の沈黙の持つ大人への釈明の部分は可能だった筈である。こうして、未明は釈明すれば、自らの転向を認め、それに応じた作家活動をしたと述べるか、沈黙を守り、作品を評価されるだけの黒子になるかという二つの選択があることになる。だが、皮肉だったのは、未明が沈黙を守ったまま亡くなり、未明の作品は作家としての未明自身の否定を含め、彼の名前を一層知らしめることになったのだ。

(6)未明の童話と気になる状況依存性

 小川未明の童話には執筆時の社会や自身の状況が色濃く反映されている場合が多い。それはどの作家にもある程度は言えることなのだが、未明の場合はとても分かりやすいのである。初期の「野ばら」(1922(大正11)年)は「国境を見張る大国の老兵と小国の青年兵が親友になるが、二国の間で戦争が勃発。国境に残った老人は、戦争に行った青年の身の上を案じながら、一人で暮らしていたが、終戦後、老人は小国の兵士の全滅を知る。その夏に野ばらは枯れ、老兵は息子や孫の待つ祖国に帰る。」という話で、私が好きな未明作品の一つである。だが、現在多くの大人はこの童話をパレスチナイスラエル、ロシアとウクライナの戦争という文脈に置いて読み、子供に説明するのではないか。だが、それは大人の読者の状況依存であり、それを未明は知る由はなく、大正時代の彼の反帝国主義的な考えが子供にもわかる仕方で巧みに考案され、表現されている。1年前の「赤い蝋燭と人魚」(1921、大正10)も私の好きな作品だが、どのような状況や文脈を背後に置いて書かれたのかなどほとんど考える必要がない。何の前提もなしにそのまま読んで、内容を素直に理解できる、と大人の私は思うのだが、恐らく子供も同じではないか。西洋の倫理が勝った、明晰で読みやすい鷗外の「山椒大夫」より、古い日本の庶民の姿が人魚によって描き出され、鴎外が切り捨てた前近代的な生き様が伝わってくるのである。

 だが、未明の場合、この文脈に頼らない、童話だけで著者の主張が完結する、普通のスタイルが昭和に入り、大きく転換し始める。「野ばら」について、多くの大人はこの童話を現在の戦争という文脈に置いて読み、子供に説明するのではないか、と述べたが、転向した未明の童話は日本の戦争という文脈を前提に執筆され、その同じ文脈の中で子供たちに読ませることを半ば強制している。未明は自らの童話によって戦争に積極的に関わり、それによって天皇制を守りたいと考えていた。大正期の彼の童話が文脈や状況から比較的独立した、いわばある程度の普遍性を持っていたのに対し、昭和の戦中期の童話が軍事的な政局、状況に強く依存した局所性を持っていた。これは状況が変化すれば、すぐに意味を失うことを意味している。それ故、当時のイデオロギーに反対する現在の大抵の人には未明のこの時期の童話は異様で、常軌を逸しているとしか思えないのである。

 1937年の「友情」は戦死した兄とその死を端然と受容する童話で、それが次第に天皇擁護と1940の大東亜共栄圏の構想が童話に反映されていく。「頸輪」(1942、『小国民文化』)は、子犬の頸輪を噛み切り、命を救った日本犬はアジアを開放する日本だと小学生の武夫が考えるのだが、これは童話というより、訓話でしかなくなっている。未明が子犬で侵略されるアジアの国々を表現し、その子犬の命を救った日本犬によって日本を表現しているのは明らかで、子供向けのプロパガンダと言った方が適切である。「頸輪」は国の宣伝であり、それゆえ、100%状況に依存していて、当時の日本の姿そのものだった。

 この熱狂、信仰は未明の生い立ちから説明できるのかも知れない。彼の父親と神道、そして、儒学からの影響、さらには大正期の未明を支えた政治思想、早稲田で短期間ながら影響を受けた小泉八雲天皇観など、様々な理由が浮かび上がってくる。1941年に日本小国民文化協会が結成され、未明の活動はさらに活性化されるが、終戦とともに未明は突然に豹変する。

 戦後の民主主義的な童話も戦中の童話に似て、敗戦と民主主義、そして復興という文脈の中で執筆されたもので、再転向しても未明の童話制作の状況依存性は同じだった。そして、それが大正期の作品(既述の「赤い蝋燭と人魚」、「野ばら」など)との大きな違いなのである。文脈や状況に依存しない、つまり普遍性のある童話が優れた童話かどうかは意見が分かれるかも知れないが、少なくても私は文脈に依存する童話は信用できないと思うのである。

*1937(昭和12)年の「僕も戦争に行くんだ」は戦争遂行のための童話で、未明の転向がはっきりわかる。1949(昭和24)年の「戦争はぼくをおとなにした」は、からかわれているおばあさんを助けた主人公が自分の戦争中の辛い体験を思い出す話。未明は子供たちに戦争に行くことを促し、戦争は残酷なものだと教えるのだが、童話の主張はそれぞれの童話の状況次第で見事に異なっている。