映画や小説が描く世界

 パトリシア・ハイスミスの小説The Talented Mr. Ripley(才人リプリー君)(日本語版の題名は『太陽がいっぱい』青田勝訳、角川書店、1971年。『リプリー』佐宗鈴夫訳、河出書房新社)を原作とした1960年のフランス・イタリアの映画「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」はルネ・クレマンの代表作の一つで、若い私に強烈な印象を残した。音楽はニーノ・ロータ、主演はアラン・ドロンで、私の記憶に刻み込まれている。原作の小説を読もうと思わなかったのは、映画で満足し切っていたからである。

 ハイスミスアメリカ国籍だが、その生涯の大半をヨーロッパで過ごした。1950年長編Strangers on a Train(1950)(訳『見知らぬ乗客』青田勝訳、角川書店、1972))を発表。この作品は映画化され、監督アルフレッド・ヒッチコック、脚本レイモンド・チャンドラーとチェンツイ・オルモンドと凄い布陣。こちらは大学時代に小説を読み、読んでいる間、交換殺人の展開にずっと興奮していた。そのためか、映画の方はずっと観ておらず、つい最近観たのだが、年齢のせいか、「太陽がいっぱい」のような衝撃は受けなかった。

 言わずもがなのことだが、映画と小説は随分と違う。同じ作者の作品でも映画で観た場合と小説を読んだ場合とでは相当に異なり、上記の二つが私には当初同じ作者の作品には思えなかった。だが、その後私はハイスミスの作品を理解していくことになる。これは音楽でも同じで、演奏者やその演奏の仕方によって作品は異なるように受け取られ、それらが蓄積され、理解が深まっていく。

 推理小説、サスペンス、スリラー、怪奇小説などは構成要素がすべてこの世のものとこの世のものでないものが入ることによって、読者の印象はまるで変わってくる。それだけでなく、作品への評価も大いに異なってしまう。例えば、鴎外の『山椒大夫』は瞽女(ごぜ)唄の「さんせう太夫」とは根本的に異なって受け取られる。

 鷗外は説経のあらすじを再現しながらも、西欧の考えをベースに人間の感情の普遍的なあり方に比重を置き、原作の説経が持っていた荒々しい情念の部分を巧みに切り捨てる。だが、それは演者がもっとも力を入れて語った部分だった。説経では実際に「安寿の身体に焼印が押される」のだが、鷗外は「姉弟二人が同時に見た夢の中の出来事」に変える。鷗外では安寿は入水自殺するが、説経では山椒太夫の家来に責め殺される。説教では、山椒太夫は竹の鋸でひき殺され、息子たちも残酷な運命が待ち受けている。説教では、責め殺された安寿の復讐を果たすのが厨子王で、山椒大夫は残忍なやり方で殺される。

 説経は教科書には載せることができず、「さんせう太夫」は勧善懲悪を越えて、人間のもつ憎悪、悲哀といった感情、情念が誇張して表現され、唄われている。それら否定的な側面を切り落とし、人間のもつ肯定的な側面に光を当てたのが鷗外の年齢制限なしの「山椒大夫」。

 「山椒大夫」は絵本や教科書で誰もが知っている。森鷗外歴史小説だと知らない子供でもその物語を知っている。一方、説経の方は古典芸能として細々と残るだけで、ほとんどの日本人にとって「説経」も「瞽女唄」もほぼ死語。

 では、説経、浄瑠璃瞽女唄などの「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」はどのように違うのか。大胆に、直木賞芥川賞の違い、大衆文学と純文学の違い、中世的人間像と近代的人間像の違いと表現すると、どれも不正確で、鴎外の作品によって、説経などの主張は忘れ去られてしまったというのが私の考え。ハイスミスの背後にはエドガー・アラン・ポー、それを引き継ぐラヴクラフトがいて、彼の怪奇小説は「クトゥルフ神話」に基づき、私にはその世界は『愚管抄』の冥顕思想によく似ていると思われる。そして、そのような系譜の先例の一つが「さんせう太夫」。