私の脳への『刺青』の彫り込み

 谷崎潤一郎の『刺青』は入れ墨の近代的な意味を見事に表現した作品です。1910年、慶應義塾の文学部は文学・哲学・史学の3専攻制を採用し、森鷗外上田敏の推薦によって永井荷風慶應義塾大学文学部の主任教授として迎えます。佐藤春夫によれば、荷風の「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」ようです。この頃の荷風谷崎潤一郎を見出し、訳詩集『珊瑚集』を発表し、自らが編集主幹となる雑誌『三田文学』を創刊しています。

 1911年、荷風はその『三田文学』に「谷崎潤一郎氏の作品」と題した評論を発表し、前年に発表された谷崎の短編小説五編を対象にしました。谷崎はまったくの新人でしたが、この荷風の激賛により、一気に新時代を代表する作家の地位に踊り出たのです。その中でも『刺青』は特別で、荷風は「小説『刺青』は江戸の刺青師清吉が刺青に対する狂的なる藝術的感興を中心にした逸話で、自分の見る処この一作は氏の作品中第一の傑作である」と賞讃し、作品について「此の一篇は此の残忍なる藝術家が深川の女の真白な肌に己が精神をこめた蜘蛛の刺青を施すことを主眼にしてゐる」と述べています。

 入れ墨を大別するなら、二つの異なる目的が見られます。縄文時代には、魔除け、婚姻、成人に関する習俗(文身)として部族の中で行われていましたが、その後は刑罰として強制的に腕などに入れられる場合と、愛情の誓いとして誰それ命の文字を腕に彫る場合に分けられます。男女が互いに相手の名を腕に彫ることは「入黒子(いれぼくろ)」と呼ばれ、主に遊里において行われました。それが遊女の粋で、いれずみ、ほりものとも呼ばれました。

 さて、『刺青』の最後の部分を見てみましょう。刺青を彫られた娘は清吉に向かって、「お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」と「剣のような瞳を輝かした」のです。すると、清吉は懇願するように「帰る前にもう一度、その刺青を見せてくれ」と言います。そして、最後の一行は次のものでした。

女は黙つて領いて肌を脱いた。折から朝日が刺青の面にさして、女の背は燦爛とした。

 谷崎の『刺青』は短編で、ネットの「青空文庫」に入っていますから、簡単に読むことができます。この作品によって入れ墨のもつフェティシズム、性的倒錯が見事に表現され、それまでくすぶっていた陰の存在が文学的に捉えられたのです。個人の意識や感情にとって入れ墨がどのような存在なのかが見事に描き出されました。私の脳にもそれが彫り込まれ、歴史学民俗学やくざ映画と違う入れ墨の本性が入れ墨されたのです。

 谷崎による入れ墨の近代的な解釈は現在では古典ということになるでしょう。現在の「入れ墨」観はファッションであり、アクセサリーでもあります。入れ墨は身体への装飾であり、そこに陰の薄暗いイメージはありません。でも、そこには化粧装置、装飾道具としての入れ墨しか存在せず、何とも寂しい限りです。