森鷗外の小説「山椒大夫」は説経、説話と呼ばれる「さんせう太夫」を下敷きにしています。今では安寿と厨子王となれば、ほぼ誰もが彼の作品を思い浮かべます。そこで、まずは小説の内容を見てみましょう。
平安時代末期、母、安寿、厨子王、そして女中は行方不明の父を探して旅に出ます。福島で役人だった父は九州に流され、その後消息不明になっていました。彼らは越後まで辿り着き、そこで泊めてもらおうとしますが、村人は「人買いがうろついているから、見知らぬ旅人は泊めない」と断ります。困り果てていると、一人の男がうちに泊まれと声を掛けます。一晩明かした後、彼は今後の行き先を聞いて案内すると言い出し、その親切さに不安を覚えながら、男に従います。すると、母と女中、安寿と厨子王は別々の船に乗せられてしまいます。離れていく安寿と厨子王に向かって、母は「お守りを肌身離さず持つように」と言いました。安寿は小さな金の仏像を、厨子王は父から受け継いだ小刀を持っていたのです(これが直江の浦(現上越市)で起こったことです)。
安寿と厨子王が着いた丹後には、悪名高い大金持ちの山椒大夫が住んでいて、有り余る金で奴隷を買い漁っていました。二人は奴隷となり、安寿は海水を運び、厨子王は芝刈りを命じられました。毎日の重労働に耐えきれず、いつしか逃げようと計画を立てていると、それを聞かれ、山椒大夫のもとに連れて行かれます。山椒大夫は焼いた鉄を彼らの額に押し付けるよう命じました。額に鉄が当てられたところで、安寿と厨子王は目を覚まします。何と、彼らは同じ夢を見ていたのです。安寿のお守りの仏像の額には焼き印が入っていました。
恐ろしさを思い知った安寿は、もう逃げることを諦め、次第にふさぎ込んでいきます。ある日、安寿は「芝刈りをさせてほしい」と頼みました。許可は下りましたが、「男の仕事をするなら髪を切れ」と言われ、安寿は髪の毛を切り落とされてしまいました。安寿と厨子王は芝刈りに出かけ、山の頂上にたどり着きました。そこで、丹後が京都の都に近いことを安寿は厨子王に伝え、自分が時間を稼ぐから、手前の寺に行くよう命じました。
戻ってこない二人を探しに行った追手が見つけたのは、沼のそばに落ちていた安寿の靴だけで、安寿は既に沼に飛び込んで自殺していたのです。山椒大夫は厨子王が逃げた先を寺だと推測し、寺の住職に詰め寄ります。でも、住職はきっぱり否定しました。次の日、厨子王は住職に連れられて寺から出ました。山を越え、京都にたどり着きます。厨子王は僧として清水寺で暮らすことになります。
ある日、清水寺で貴族らしき人が厨子王の目の前に現れます。病気の親戚のために祈祷していたら、清水寺にいる特別な仏を持っている僧に出会えという不思議な夢を見たと彼は言いました。それを聞いて、厨子王は安寿のお守りの仏像を見せました。その仏像を置いて祈祷すると、貴族の親戚の病気は治癒したのです。貴族は、仏像を見て厨子王が平正氏(まさうじ)の息子だと気づきます。その貴族は彼を養育して、立派な官僚に育ててくれました。成長した厨子王は山椒大夫が権力を握っている丹後の長官となり、丹後での奴隷売買を禁止し、奴隷を解放しました。
大仕事を終えた厨子王は家族のことを調べます。父は既に九州で亡くなっていました。安寿も自殺したことを知りました。佐渡島に母がいると聞いた厨子王は、母を探しに佐渡島に向かいます。佐渡島に着いて探し回り、厨子王は粗末な家の前に盲目の老婆がいるのを見かけます。老婆は歌い出しました。その歌に「安寿」、「厨子王」という名前が出てきたのです。厨子王が駆け寄り、老婆の額に仏像を当てると、老婆は見えなかったはずの目を開き、「厨子王」と叫びました。二人はしっかり抱き合いました。
鷗外は、「さんせう太夫」の筋書きをベースに、彼自身の好みなどに合わせ、小説化したと述べています。鷗外は小説化するにあたり、安寿の拷問、山椒大夫の処刑など、本来克明に描写されていた残酷な場面を除きました。また、安寿は焼印を押されてしまうのですが、鷗外はそれを夢の中の出来事に変え、お守りの地蔵が彼女の代わりに焼印を押されることにしています。
鷗外が書いた小説「山椒大夫」は説経「さんせう太夫」を素材にしていますが、「大夫、太夫」の違いがあります。大夫(たいふ、だいぶ、たゆう)は古代中国の身分の呼び名で、日本でも官職名として使われました。中国から伝わってきた時点では「大夫」であって、「太夫」という表記はありませんでした。神職も大夫と呼び、里神楽や太神楽の長を太夫と称しました。芸名としての「…太夫」という表記は、義太夫節の祖である竹本義太夫の時代からずっと「…太夫」と書かれていました。江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者も「太夫」と呼ばれました(吉野太夫、高尾太夫など)。
表記だけでなく、読み方も複数あり、「たゆう」、「だゆう」は前の語彙に依存して変わります。原作の呼び方も説教、説経と紛らわしく、説経を語り、演じるのが説教(師)ということにしておきます。そこで、説経の「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」の違いを列記しておきましょう。
鷗外は説経のあらすじを再現しながらも、親子や姉弟の愛を見事に描いています。西欧の考えをベースにした鷗外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置き、原作の説経が持っていた人間の荒々しい情念の部分を巧みに切り捨てます。でも、それは説教者がもっとも力を入れて語った部分だったのです。
説経では実際に「安寿の身体に焼印が押される」のですが、鷗外は「姉弟二人が同時に見た夢の中の出来事」に変えます。鷗外では安寿は入水自殺するのですが、説経では山椒太夫の家来に責め殺されるのです。説教では、山椒太夫は竹の鋸でひき殺され、息子たちも残酷な運命が待ち受けています。説教の方は、責め殺された安寿の復讐を果たすのが厨子王で、山椒大夫は残忍なやり方で殺されます。
説教のストーリーと解釈ではとても教科書には載せることができません。説経の「さんせう太夫」は勧善懲悪を越えて、人間のもつ憎悪、悲哀といった感情、情念が誇張して表現され、唄われています。それら否定的な側面を切り落とし、人間のもつ肯定的な側面に光を当てたのが鷗外の「山椒大夫」です。こうして、人間のもつ二つの側面をそれぞれ強調して表現しているのが説経と鷗外ということになります。
「山椒大夫」は絵本や教科書で誰もが知っています。森鷗外の歴史小説だと知らない子供でもその物語を知っています。一方、説経の方は古典芸能として細々と残るだけで、ほとんどの日本人は「説経」という名称さえ知らず、「瞽女唄(ごぜうた)」などほぼ死語となっています。
では、説経、浄瑠璃、瞽女唄などの「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」はどのように違うのでしょうか。大胆に、直木賞と芥川賞の違い、大衆文学と純文学の違い、中世的人間像と近代的人間像の違いと表現すると、どれも正しくはないのですが、まずはそれ以上の違い、差があり、鴎外の作品によって、説経などの主張は忘れ去られてしまったというのが私の考えです。
そのために、まずは説経を説明しておきましょう。「説経」とはお坊さんが経典の意味を説いて聞かせるもので、「宿題を忘れて先生にセッキョウされた」という場合は「説教」ですが、「説教」も「説経」の意味で使われます。「説経(教)師」は神仏の教えを説く人のことで、経文を説き聞かせる人と、節をつけて語る人の二通りがあります。後者は説経浄瑠璃と呼ばれ、平曲や謡曲の影響を受けて、歌謡化し、江戸初期に流行した大衆芸能です。「説経節」の「節」は浪花節の「節」と同じで、旋律を意味します。つまり、経文を説き聞かせるときに、リズムをつけたものなのです。
「説経節」は仏教を広めるため、僧侶が伝説に脚色を加え、仏教の声楽を基礎とした音曲で、『平家物語』で有名な琵琶法師もここから生まれました。でも、説教節は仏教芸能から次第に離れ、世界観や思想の背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、悲嘆、哀切を伝える「物語」が前面に押し出され、大衆演芸となって行きます。慈円の『愚管抄』で述べられた冥顕観が芸術として具体化され、世阿弥がそれを能として具体化し、そこからさまざまな形態が生まれて行きました。中世的な世界観である冥顕観が説経節、浄瑠璃、瞽女唄に引き継がれていったのです
説経節は江戸時代の初期、寛永年間に関西で流行し、江戸でも流行りました。でも、同じ語り物芸能の義太夫節(竹本義太夫、近松門左衛門がコンビになり、『曽根崎心中』、『国性爺合戦』、『女殺油地獄』などが流行し、浄瑠璃はこの義太夫節をさし、説経節は古浄瑠璃系と言われる)が爆発的に流行し、説経節はそれに押される形で、特に関西で勢いを失っていきました。
「さんせう太夫」は荘園を統括する長者で、そこで働く民は過酷な労働を強いられていました。鷗外はこの古い語り物を、その歴史性を残しながら、彼自身の言葉によって再構成し、歴史小説を生み出しました。鷗外がこの作品を発表したのは1915(大正4)年、いわば日本が近代国家としてスタートを切り、西南戦争などの国内の争いや日清・日露戦争などの他国との戦争も起きた激動の明治が終り、ようやく自国の遠い過去を振り返る余裕が生じたときでした。
説経節の「さんせう太夫」の主人公は神仏の化身として讃えられる安寿ですが、鷗外は彼女を地上で行動する女性として描き、厨子王を彼女の願いを遂行する男性と位置付けました。そのような作品が生まれた経緯を辿ると、そこには鷗外の挫折がありました。軍医として国のために尽くさなければならないのに、小説を副業とすることは好ましくないという意見があり、鷗外は福岡の小倉に左遷されます。この左遷によって、鷗外は変わります。立身出世のことしか頭になかったエリートは左遷先で現地の人々と触れ合うのです。東京に戻ってからは陸軍軍医総監の役職に就き、結婚して家庭を持ちます。その後、友人の死を受け、初めて歴史小説を書き、その中で生まれたのが「山椒大夫」です。
原作の「さんせう太夫」と「山椒大夫」は、既述のように随分と違います。鷗外は典拠との違いについて、自らの随筆で述べています。鷗外の好みに合わない部分に脚色を加え、その結果、(説経節では人々の涙を誘い、心を震わす)残酷なシーンは大幅にカットされています。
*説経、浄瑠璃、瞽女唄などはYouTubeで実際に聴いてみて下さい。
私の子供の頃の刷り込みや小学生時代の学習となれば、絵本、漫画、読経、浪花節、歌謡曲、民謡、そして青春時代の様々な音楽であり、それらが説経節を聴く際の背景を作っています。私の場合、特に読経、浪花節、民謡が説経節、瞽女唄に繋がっています。演奏こそが説経節の「山椒太夫」の命であり、聴くことによる感情移入と共感(悲哀、哀惜、悲嘆など)が演芸としての説経節を支えてきました。
越後の盆踊歌であった松坂節と歌祭文(うたざいもん、祭りのときに奏上する文詞で、祝詞(のりと)や祭文)が結びついて生まれたのが「祭文松坂」です。祭文松坂は目の不自由な女性旅芸人の瞽女が門付をして唄ってきた祝唄です。越後の瞽女は、米山を境に高田と長岡の二つが主流でした。長岡瞽女は山本ゴイ家が支配する近世的な家元制度であったのに対して、高田瞽女は親方が家を持って弟子を養い、親方の中から座元を選出するという、中世の芸能座の組織をまもってきました。
*実際の演奏は次のものを聴いてみて下さい。
江戸川区立図書館/デジタルアーカイブ 椿の里の瞽女唄ライブ13 祭文松坂 山椒太夫
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Audio/1312305200/1312305200100140/gozeuta08/
それにしても昔の説経節はどんなクドキとフシをもっていたのでしょうか。悲しい声のみで、涙を流して泣くばかりということから、浄瑠璃の声とは違っています。でも、当初は古浄瑠璃ともつながっていました。説経語りは享保年間には廃れてしまいますが、それは新たな浄瑠璃の大流行のせいだったのです。説経には「いたはしや」、「あらいたはしや」という言葉がいつも出てきて、そのたびに聞く者は胸をつまらせます。
このように見てくると、説経節は小説の「山椒大夫」とは随分と異なります。小説は読むものであり、文字を通して内容を理解するものです。情報伝達という点で説経節と小説は音と文字の違いと言えるほどに違っています。ですから、説経節と鷗外の作品が違うことは当たり前のことで、説経節「山椒太夫」を下敷きにしていても、二つは別物だと考えるべきなのです。小説の「山椒大夫」は鷗外独自の近代的解釈を述べたものです。
実際、説経節「山椒太夫」には冥界と顕界が交錯する構造、今風には聖と俗の構造が基本にありますが、鷗外の「山椒大夫」にはそのようなものは何もありません。鷗外は説経節が唄う世界を小説として書き残したのではなく、まるで別物を描いたのです。
説教は寺社の祝祭の日、主にその境内で語られ、古きものの消滅と新しきものの生誕を、語り物の世界に転移し、表現したものです。死と再生の反復が唄われる説経節の背景にあるのは、世界を冥と顕(聖と俗)とに分割することを基本原理とする伝統的世界観です。
鷗外の物語の主題は姉の自己犠牲による弟と母の救済という強い倫理性です。安寿の自己犠牲という行為は彼女の自我の覚醒と一体となっています。安寿の聡明な自我と強靭な意志に基づく計画が、厨子王を彼女の代行者として、伝統的支配からの脱却と近代的世界への到達を成就させます。女性の「自己犠牲」と「自己主張」、そしてそれによって達成される救済は未来へと進む道を見いだす希望となっているのです。
「人買いによって引き離された母と姉弟の受難を通して犠牲の意味を問う山椒大夫」といった説明文がつき、読後の感想文がそれに基づいて書かれるのは、私が子供の頃からほとんど変わっていません。文学作品には作者の動機、状況などがあり、それが読者の文脈と呼応することによって作品の意味が定まるのですが、模範解答の如くに感想文の内容が決まっているという奇妙なことになっています。鷗外の「山椒大夫」も戦前と戦後、20世紀と21世紀では異なるように理解されるべきなのですが、作品内容の普遍性や不変性が強調され、文脈に依存して変わる評価や解釈は軽視されています。
文学作品ではない説経節は芸能、演芸であり、感覚的、感情的なカタルシスが目的となってきました。文学としての「山椒大夫」と芸能としての「さんせう太夫」の違いなどと説明され、共に「長い歴史をもつ古典」としてぼかされてきました。文学と芸能の垣根を取り払い、次に「古典」の衣を脱ぐならば、安寿と厨子王の物語を直視できるようになるのではないでしょうか。
私は子供の頃に説経節や瞽女唄を聴いた経験がありません。私が聴いたのは民謡や浪花節、講談、歌謡曲などでした。私にとって、小説としての「山椒大夫」と説経節や瞽女唄としての「さんせう太夫」の違いは何なのでしょうか。実際、「読んで理解する」と「聴いて共感する」の違いは大きいのです。子供の私が浪花節を聴いたように説経節や瞽女唄を聴くなら、鷗外の作品を読む場合とはまるで違う経験をしたことでしょう。詩や小説に「言霊」を感じるなら、説経節や瞽女唄に「声霊」を感じるのは自然なことで、声は霊を運び、私たちを感覚的に操る力をもっています。
北越地方の盆踊歌の松坂節と歌祭文(うたざいもん、神祭りのときに奏上する文詞で、祝詞(のりと)や祭文と称する)が結びついて生まれたのが「祭文松坂」。祭文松坂は、目の不自由な旅芸人の瞽女が門付をして唄ってきた祝唄です。一方、説経節の実態ははっきりしませんが、「説経」は仏説や仏教経典の伝承から派生しました。経文を、声を出し、節をつけて広めたいという民衆の気持ちが強く、多くの説経は喜捨を乞う門付の「乞食芸」として広まっていったのです。
古説経の内容は神仏が人間であったときの苦難の生を語るという本地物(本地垂迹説の影響によって成立した御伽草子系統の小説・物語類、また、古浄瑠璃や説経節などで、神仏・社寺の縁起を説いたもの)の構造をもち、人間が苦しみや試練に打ち克ち、神仏に転生する過程が語られています。説経節を聴きに集まる人びとは、それが神仏への転生の物語であることを知っており、個々の場面が人間の情念に満たされ、どのように語られるかに関心を寄せ、それを味わい、共感したのです。残酷なストーリーであればあるほど、人々は転生の過程に真実味を憶え、引き込まれていきます。説経節を聴くことによるカタルシスを通じて、共通体験をもつのです。
「さんせう太夫」、「小栗判官」などの説経節が瞽女唄の主要なレパートリーとなっていますが、説経節で語られている内容と比べると、瞽女唄は随分と異なっています。「さんせう太夫」では、親子が人買いに騙され、二隻の舟で離されてしまう場面が女性の情愛たっぷりに唄われています。説経節のあらすじを既に熟知する聴衆は、瞽女が盲目の女性芸人であり、結婚を許されず、子を産むことのできない宿命を背負いながら、子別れの母の悲しみや、男を思う女心を唄う姿そのものに魅入られ、共感するのです。説経節の残酷物語を聞かずとも、瞽女の唄を聴き、共に泣き、カタルシスを得たのでしょう。瞽女唄は、七五調のリズムの畳みかけで、聴衆の心の奥底に訴えかけます。津軽三味線に引き継がれる瞽女の三味線は、叩きつけるような弾き方に特徴があります。古くは鼓を打ちながら語られ、その鼓に目が加わり、「こ、く」と読まれることになった「瞽」に「女」が加わり、「ごぜ」となり、芸能と関わることを示しています。