「山椒大夫」を掘り起こす(1)

 「山椒大夫」を議論するには森鷗外の作品が不可欠です。小説は説話「さんせう太夫」を下敷きにしていて、今では安寿と厨子王といえば、ほぼ誰もが鴎外の作品を思い浮かべます。そこで鴎外の『山椒大夫』のあらすじを述べてみましょう。

 平安時代末期、母、安寿、厨子王、そして女中は行方不明になった父を探して旅に出ます。福島で役人だった父は、九州に流され、その後消息が不明になっていました。彼らは新潟までたどり着き、そこで泊めてもらおうとしますが、村人は「人買いがうろついているから、見知らぬ旅人は泊めない」と断ります。困り果てていると、一人の男がうちに泊まれと声を掛けます。一晩明かした後、彼は今後の行き先を聞いて案内すると言い出します。その親切さに不安を覚えながら、男に従います。すると、母と女中、安寿と厨子王は別々の船に乗せられてしまいます。離れていく安寿と厨子王に向かって、母は「お守りを肌身離さず持つように」と言いました。安寿は小さな金の仏像を、厨子王は父から受け継いだ小刀を持っていたのです(これが直江の浦で起こったことです)。

 安寿と厨子王が着いた丹後には、悪名高い大金持ちの山椒大夫が住んでいて、有り余る金で奴隷を買いあさっていました。二人は奴隷となり、安寿は海水を運び、厨子王は芝刈りを命じられました。毎日の重労働に耐えきれず、いつしか逃げようと計画を立て出すのですが、それを気性の荒い三郎に聞かれ、山椒大夫のもとに連れて行かれました。山椒大夫は、焼いた鉄を彼らの額に押し付けるよう命じました。額に鉄が当てられたところで、安寿と厨子王は目を覚まします。何と、彼らは同じ夢を見ていたのです。安寿のお守りの仏像の額には焼き印が入っていました。

 恐ろしさを思い知った安寿は、もう逃げることを諦め、次第にふさぎ込んでいきます。ある日、安寿は次郎に「芝刈りをさせてほしい」と頼みました。許可は下りましたが、「男の仕事をするなら髪を切れ」と言われ、安寿は髪の毛を切り落とされてしまいました。安寿と厨子王は芝刈りに出かけ、山の頂上にたどり着きました。そこで、丹後が京都の都に近いことを厨子王に伝え、自分が時間を稼ぐから、手前の寺に行くよう命じました。

 三郎は、戻ってこない二人を探しに行きました。三郎が見つけたのは、沼のそばに落ちていた安寿の靴だけで、安寿は既に沼に飛び込んで自殺していたのです。三郎は、厨子王が逃げた先を寺だと推測し、寺の住職に詰め寄ります。でも、住職はきっぱり否定しました。寺の見張りの老人が声を掛け、厨子王は南の方へ行ったと三郎に教えました。これは住職に命じられた見張りの嘘でした。次の日、厨子王は住職に連れられて寺から出ました。山を越え、京都にたどり着きます。僧になっていた厨子王は、清水寺で暮らすことになります。

 ある日、清水寺で貴族らしき人が厨子王の目の前に現れます。病気の親戚のために祈祷していたら、清水寺に特別な仏を持っている僧がいるに出会えという不思議な夢を見たと彼は言いました。それを聞いて、厨子王は安寿のお守りの仏像を見せました。その仏像を置いて祈祷すると、貴族の親戚の病気は治癒したのです。貴族は、仏像を見て厨子王が平正氏(まさうじ)の息子だと気づきます。その貴族は彼を養育して、立派な官僚に育ててくれました。成長した厨子王は山椒大夫が権力を握っている丹後の長官となり、丹後での奴隷売買を禁止し、奴隷を解放しました。

 大仕事を終えた厨子王は家族のことを調べます。父は既に九州で亡くなっていました。安寿も自殺したことを知りました。佐渡島に母がいると聞いた厨子王は、母を探しに佐渡島に向かいます。佐渡島に着いて探し回り、厨子王は粗末な家の前に盲目の老婆がいるのを見かけます。老婆は歌い出しました。その歌に「安寿」、「厨子王」という名前が出てきたのです。厨子王が駆け寄り、老婆の額に仏像を当てると、老婆は見えなかったはずの目を開き、「厨子王」と叫びました。二人はしっかり抱き合いました。

*鷗外によれば、「さんせう太夫」の筋書きをベースに、彼自身の好みなどに合わせ、小説化したと述べています。鷗外は小説化するにあたり、安寿の拷問、山椒大夫の処刑など、本来克明に描写されていた残酷な場面を除きました。また、安寿は焼印を押されてしまうのですが、鷗外はそれを夢の中の出来事に変え、お守りの地蔵が彼女の代わりに焼印を押されることにしています。

 

 まずは、どうでもよい前置きからです。「鷗外」は今では「鴎外」とも書かれます。「鷗」が本来の字、「鴎」はその異体字(略字)と説明されていますが、「鴎外」の方が優勢です。二つの漢字が併用されている別の例は芥川龍之介で、こちらは「竜之介」が劣勢です。

 鷗外が書いた小説「山椒大夫」は説経「さんせう太夫」を素材にしていますが、「大夫、太夫」の違いがあります。大夫(たいふ、だいぶ、たゆう)は古代中国の身分の呼び名で、日本でも官職名として使われました。中国から伝わってきた時点では「大夫」であって、「太夫」という表記はありませんでした。

 その後、この呼び方はあちこちで使われます。神職も大夫と呼び、里神楽や太神楽の長を太夫と称しました。芸名としての「…太夫」という表記は、義太夫節の祖である竹本義太夫の時代からずっと「…太夫」と書かれていました。でも、途中から「…大夫」に変わります。江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者も「太夫」と呼ばれました(吉野太夫高尾太夫など)。

 表記だけでなく、読み方も複数あり、「たゆう」、「だゆう」は前の語彙に依存して変わります。原作の呼び方も説教、説経と紛らわしく、説経を語り、演じるのが説教(師)ということにしておきます。そこで、説経の「さんせう太夫」と鷗外の「山椒大夫」の違いを列記しておきましょう。

 鷗外は説経のあらすじを再現しながらも、親子や姉弟の愛を見事に描いています。西欧の考えをベースにした鷗外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置き、原作の説経が持っていた人間の荒々しい情念の部分を巧みに切り捨てます。でも、それは説教者がもっとも力を入れて語った部分だったのです。

 説経では実際に「安寿の身体に焼印が押される」のですが、鷗外は「姉弟二人が同時に見た夢の中の出来事」に変えます。鷗外では安寿は入水自殺するのですが、説経では山椒太夫の家来に責め殺されるのです。説教では、山椒太夫は竹の鋸でひき殺され、息子たちも残酷な運命が待ち受けています。説教の方は、責め殺された安寿の復讐を果たすのが厨子王で、山椒大夫は残忍なやり方で殺されます。

 説教のストーリーと解釈ではとても教科書には載せることができません。説経の「さんせう太夫」は勧善懲悪を越えて、人間のもつ憎悪、悲哀といった感情、情念が誇張して表現され、唄われています。それら否定的な側面を切り落とし、人間のもつ肯定的な側面に光を当てたのが鷗外の「山椒大夫」です。こうして、人間のもつ二つの側面をそれぞれ強調して表現しているのが説経と鷗外ということになります。