秘仏と御開帳(2)

 秘仏とは様々な理由で普段姿を見ることができない仏像のことです。秘仏がおさめられている箱は厨子(ずし)と呼ばれ、普段閉じていますが、この厨子が開いて中の秘仏が私たちの前に現れることが御開帳です。秘仏が開帳されるのは周期的なのがほとんどですが、なぜ秘仏になっているかの理由は様々です。「神は姿をあらわさない」という神道の考えから、神仏習合によって仏も神と同じように姿をあらわさない、あるいは仏の力が強すぎるため扉を閉じて力をコントロールする、などの信仰上の理由の他に、文化財保護のため普段は公開をしないという理由が考えられますが、秘仏の存在は相変わらず謎のままです。

 そこで、秘仏の実例を一つ考えてみましょう。鎖国して平穏を保つ日本を野蛮とみなし、満州で殺戮を始めた日本を文明国と見做す西洋の特徴は「理性的な誇示」にあり、それに対して日本の特徴は「内省による謙遜」で、茶道は経済学と同じで、「生の術」であり、具体化された道教だというのが岡倉天心茶の本』の核心です。

 天心は東京開成所(現東京大学)在学中にハーバード大学から来たアーネスト・フェロノサと出会い、その英語力を認められて通訳になります。天心はフェノロサの美術調査に随行し、千年の眠りから覚めた夢殿観音に出会い、彼を「東洋の夢」に走らせました。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも彼の境涯を大きく左右しました。隆一は哲学者九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城することになり、終には赤倉でその生涯を閉じることになるのです。

 1884(明治17)年明治政府の依頼を受けたフェノロサと天心は、法隆寺を訪問します。救世観音を納めた厨子の開扉には至らず、フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を迫ります。僧侶たちは聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことをかたくなに拒んでいました。フェノロサは説得を試み、ついに聞き入れられたのです。法隆寺の夢殿に安置されていた等身の像は秘仏で、背が高く、その不思議な美しさが再発見されたのです。

 ところで、親鸞は29歳の時、比叡山を降り、六角堂(頂法寺)で百日間の参籠を行います。95日目に救世観音が夢に現れ、「あなたが前世の因縁によって女犯しても、私が女性の姿に変わって交わりを受けましょう。一生の間よく仕え、臨終の際には極楽へ導きましょう」と言ったのです。女犯(妻帯)の罪に苦悩していた親鸞は、これにより悟りを得、法然の教えを受け、後に浄土真宗の開祖になります。六角堂は聖徳太子の創建といわれ、救世観音は聖徳太子の化身と伝えられています。もう一つの六角堂は、茨城県北茨城市にある六角形の建物で、岡倉天心が自ら設計したものです。日本美術院の移転候補地には赤倉もあったのですが、交通利便性の面で五浦に決まりました。

 法隆寺推古天皇の摂政であった聖徳太子が607(推古15)年に建立した西院伽藍と、739(天平11)年に聖徳太子自身の住居跡に作られた東院伽藍からなります。救世観音は東院伽藍の夢殿に安置されていました。この夢殿は八角堂で、八角堂は通常、供養塔または仏塔です。それ故、救世観音は供養目的で祀られた像ということになります。737(天平9)年都で天然痘が流行し、これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかと考えられます。この時に夢殿に祀られた救世観音は、太子の等身であると伝えられています。この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げ、また、鎌倉時代にこれを模刻しようとした仏師が、像の完成を見ることなく亡くなったという話もあります。こうして、太子の怨霊を恐れた人々は、夢殿の扉を閉ざし、災難を繰り返さないように太子の等身像を白布で巻いて封印したという秘仏化のストーリーが出来上がったのです。