お盆に仏教を考える

 お盆の記憶は故郷の欠かせない記憶の一つ。お盆は子供にとって不思議な数日間で、この世とあの世がつながるとは何なのか、そんなことを考えたくなるのも、不思議な数日間の記憶をもつ人たちには不思議なことではない筈です。

 

 『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典は中国でつくられた偽経で、釈迦の弟子目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために7月15日に衆僧供養(多くの僧に食べ物を与えること)を行なったところ、母にも供養の施物が届いたことが説かれています。偽経は偽物、贋作と考えがちですが、インドや中央アジアの原典から直接翻訳されたのではなく、中国で原典から抄訳されたり、編集されたりしてできた経典で、お盆の行事はこの偽経が根拠になっています。

 日本最初のお盆の法要は、606年に推古天皇による七月十五日斎会(さいえ)と言われています。この仏事が行われた日付やその内容を見ると、『盂蘭盆経』の教えに添った法要で、日本最古のお盆の法要とされています。733年の7月には聖武天皇盂蘭盆の供養を執り行い、それ以降は宮中の恒例行事としてお盆の法要が定着しました。奈良・平安時代を通じて公の行事として受け継がれてきたお盆行事は、鎌倉時代になると施餓鬼会(せがきえ)と呼ばれる法事と合わせて行われるようになります。この施餓鬼会とは餓鬼道に落ちたすべてのものに食事を施すという法会で、『盂蘭盆経』の教えに大変近く、そのことから盂蘭盆会と一緒に行われるようになりました。

 輪廻転生を信じる原始仏教では、亡くなればこの世との繋がりは終わりますから、お盆は日本古来の祖霊信仰と仏教、中国思想が融合してできたものであることがわかります。

 

 釈迦が生まれたのはプラトンと同じ紀元前5世紀頃。釈迦の一生は阿含(あごん)経典群に述べられていて、それら経典が釈迦の伝記にもなっています。釈迦は自らの思想を語るだけで、書き記していません。これは昔の思想伝達の普通の方法で、「口伝」と呼ばれます。

 釈迦の考えのエッセンスは「宇宙の真のしくみを学び、それを知ることによって心の平和を得る」ということ。「事物は常に変化し、不変のものはない」というのが宇宙の真のしくみで、それが仏教の原理です。釈迦よりずっと先輩のヘラクレイトスの「万物流転」の原理とよく似ています。その原理のもとで、心の平和を手に入れる方法として、命を大切にすること、偶像崇拝をしないこと、人間を平等に扱うこと、自分で物事を考え、自分の責任で行動すること、葬式をしないことなどが挙げられています。命を大切にすること、これは不殺生戒として今の仏教にも残っていますが、偶像崇拝が禁止され、仏像はつくられず、釈迦の骨(仏舎利)以外に拝むものはありませんでした。仏教徒が仏像を拝むようになるのは釈迦が死んで400年以上経ってからのことです。

 人間を平等に扱うこととカースト制度は両立しません。厳しいインドのカースト制度の最も下のシュードラという階級に属するウパーリという弟子がリーダーとして教団を指導したと経典に述べられていて、釈迦の仏教集団は身分制度を認めなかったことがわかります。  

 自分で物事を考え、自分の責任で行動するという、自由意志を尊重した個人主義が釈迦の立場ですから、悟りをひらくのは自分自身であり、またその悟りも人によって内容が違うかもしれない、ということになります。実際、釈迦の死後暫くは仏教に統一教義はなく、そのため「異端」という概念もありませんでした。自由意志や個人主義は宗教とは両立しませんから、後にそれらが間違いであるという意見が出て、大乗仏教が登場することになります。このことから、初期の仏教集団は教義を守る宗教集団ではなく、個人主義を基本にした修行集団だったのです。  

 葬式の禁止は釈迦の言葉として経典に書かれています。釈迦は自分の教えが生きている人のためのもので、弟子たちには死者に関わるなと厳しく言っていたようです。インドには死んだ後はまた何かに生まれ変わるという輪廻転生という考え方がありましたが、釈迦はその輪廻転生が生きているときの行いによって決まり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようです。釈迦の考えた仏教はあくまで生きている人間のためのものでした。お盆、葬式、法事などは釈迦の考えた仏教とは無関係なことがわかります。

 

 さて、日本独自の鎌倉仏教は比叡山で修行した天才僧侶たちの実践活動によって生み出されました。浄土経系の宗派(浄土宗、浄土真宗時宗など)は、いずれも浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)に基づき、念仏を唱えることがその主な宗教活動です。中でも際立つのが浄土宗の法然浄土真宗親鸞法然阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶が寺をもつ必要がないことを主張しました。その法然の弟子の親鸞は徹底的に他力本願とは何かを追求し、その結果、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、念仏至上主義を主張しました。さらに、親鸞は仏教に「善悪」の考え方を導入しました。「善悪」は儒教の倫理的概念で、空を基本とする相対論的な仏教にはなかったものです。

 次に、禅宗は座禅を修行の中心に据え、経典の言葉だけでは釈迦の教えは伝わらないと考えます。教外別伝、不立文字、以心伝心と言われるように、言葉によらずに直観で悟りに至ることを重視します。そのための方法が座禅ですが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅をする公案禅です。臨済宗栄西の後、一休や夢窓疎石などの優れた禅師が続いて登場します。曹洞宗の開祖とされる道元も座禅によって悟ることを目指し、何も考えないでひたすら座禅をする黙照禅を生み出しました。さらに、『法華経』を最も大切な経典として、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する過激な一派が日蓮の始めた日蓮宗です。

 釈迦の基本思想という点からこれら開祖を比べてみると、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通しています。特に、平等主義のうち権力に迎合しない姿勢はこれら開祖すべてに際立っています。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像を不用と思っていますから、仏像を拝むことは考えてもいません。浄土教系においては、念仏を唱えることが一種の修行方法ですから、偶像崇拝の考えはやはりありません。

 では、鎌倉新仏教の天才開祖たちは仏教をどのように変えたのでしょうか。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、仏教本来の姿がもっとわかりにくくなったということです。親鸞道元などの開祖の姿や主張が目立ち、釈迦の考え自体は背後に隠れてしまいました。浄土真宗は釈迦の教えというよりも親鸞の仏教、曹洞宗道元の仏教となったのです。もう一つは、開祖たちが天才だったためにその開祖の教えを改良する必要がありませんでした。それが証拠に、鎌倉時代以後に新しい思想や哲学が出てくることはありませんでした。

 

 人心掌握のために仏教をうまく利用したのは江戸幕府徳川家康は二人の僧侶を巧みに使いました。天台宗の天海、臨済宗の崇伝です。天海は最澄を真似て江戸の鬼門にあたる上野に寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣事件を起こしました。彼らは檀家制度を考案し、総本山-大本山-末寺の体制を作りました。この二人の僧によって、仏教は本来の宗教活動とは違う管理組織に変身したのです。江戸幕府は実に巧みで、政治の指導原理を儒教とし、統治手法に仏教寺院を利用したのです。

 明治維新は仏教を廃止しようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策を取りました。これによって仏教教団は危機的状況に陥ります。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けました。ただし、浄土真宗は資産運用に所領拡張という方法をとりませんでしたので、経済力の壊滅をうまく逃れました。

 仏教経典の言語であるサンスクリット語インド・ヨーロッパ語族に属することが発見され、サンスクリット語パーリ語というインドの古い言語の研究を出発点にして、19世紀には既に仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいました。上座部仏教の経典が主な研究対象で、パ-リ語の阿含経典群などが含まれていました。これらの研究内容が日本に入ってくると、釈迦の考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は仏教ではないのではないかという疑問から、「大乗非仏説論争」が起こります。その結果、大乗も釈迦の教説を正しく継承したものであると決着するのですが、この時点で既存宗派に自らの教義を再評価するような動きがあれば、現在とは異なる姿が見られたのかも知れません。

*これまで書いたものを修正しながら、まとめたものです。