とても短い仏教史

 仏教には長い歴史があります。その歴史の中で日本仏教にとって特筆すべきなのは、大乗仏教の勃興、その中国化、そして、鎌倉新仏教の誕生です。それらに超特急で迫ってみましょう。

Aインドと中国の仏教

<仏教の誕生と釈迦の思想>

 釈迦が生まれたのは紀元前5世紀頃(縄文時代の終わり頃)。釈迦の一生は阿含(あごん)経典群に述べられていて、それらは釈迦の伝記になっています。釈迦は自らの思想を語るだけで、書き記してはいません。これは昔の思想伝達の方法で、釈迦が亡くなった後も暫くはこの「口伝」が続きました。釈迦が亡くなった後に、弟子たちが自分たちの記憶を整理し、これを経典、つまり、お経としてまとめ、後に書物の形で原始仏教経典として残しました。

 では、釈迦は何をどのように考えたのでしょうか。そのエッセンスは、宇宙の真のしくみを学び、それを知ることによって心の平和を得る、ということでした。「宇宙の真のしくみ」、「心の平和」といった抽象的な表現ではよくわかりませんから、もっと具体的に考えてみましょう。「事物は常に変化し、不変のものはない」というのが宇宙の真のしくみとされ、これが仏教の基本公理になっています。その公理のもとで、命を大切にすること、偶像を崇拝しないこと、人間を平等に扱うこと、自分で物事を考え、自分の責任で行動すること、死者に関する儀式(葬式)の禁止などが、心の平和を得る方法としてまとめられています。命を大切にすることは不殺生戒(ふせっしょうかい、命あるものを殺してはいけない)として今の仏教にも残っています。偶像崇拝の禁止から最初の500年くらいは仏像がなく、釈迦の骨(仏舎利)以外に拝むものはなかったようです。仏教徒が仏像を拝むのは釈迦が亡くなり、400年以上経ってからのことです。

 人間を平等に扱うこととカースト制度は両立しません。インドのカースト制度は厳しい身分制度ですが、その最も下のシュードラという階級に属するウパーリ(優波離)という弟子がリーダーとして教団を指導したという記述が経典の中にあり、釈迦の仏教教団はカースト制度を認めていなかったことがわかります。  

 上座部(仏教の宗派の一つ)の経典に釈迦の言葉として葬式の禁止が書かれています。釈迦は自分の教えが生きている人のためのものであり、弟子たちには死者には関わるなと厳しく言っていたようです。インドには死んだ後は何かに生まれ変わるという輪廻転生という考え方がありました。釈迦はその輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようです。釈迦の考えた仏教はあくまで生きている人間のためのもので、葬式や法事は釈迦の仏教とは無関係なのです。

原始仏教経典の成立>

 釈迦が亡くなった直後に、弟子たちが記憶していた釈迦の教えを確認し、それをまとめた結果が初期経典で、どれも口伝です。後に経典は「如是我聞(私はこう聞きました)」という言葉で始めるという約束ができ、口伝形式の経典は一定の書式をもつ経典になっていきます。

 口伝で仏教教義を伝えるということは、釈迦が一定の権威をもつ場合に弟子たちがその権威を独占できるとともに、釈迦以外の考え方を教義の中に入れ込むことも可能になります。すると、伝言ゲームが正しく伝わらないのと同様のことが起きるのです。キリスト教イスラム教などでは、教義を統一して、皆で同じ教えを信じるために何度も話し合いや論争をしてきましたが、仏教では一度もこのような教義の統一は行われませんでした。したがって、「如是我聞」で始めれば、何を言っても仏教経典として認められることになります。ですから、仏教の経典は莫大な数になり、最初から諸説乱立だったのです。

 異質な考えが混入した証拠が現在の仏教に残っています。初期仏教の段階からバラモン教の神様が多数紛れ込んでいるのです。例えば、四国の金毘羅様の正体はガンジス河のワニです。その他にも弁財天、帝釈天、水天宮などの「天」のつく仏様の正体はすべてバラモン教の神様です。これにはそれなりの理由があります。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団から迫害を受け、妥協の結果、このような神様も認めてしまったのです。

大乗仏教の成立>

 紀元前3世紀にインドのマウルヤ朝のアショーカ王が仏教の庇護に努め、仏教が広がります。原始仏教の教えを説いた経典が『阿含経』と呼ばれる一連の経典です。仏教建築としてのストゥーパ(仏塔、日本の五重塔の原型)が広範囲に作られ始めたのもこの頃です。さて、キリストが生まれた頃に仏教教団内で宗教改革運動が起こります。それまでの仏教の修行は個人的なもので、結局は自分のことしか考えていないものでした。そこに、もっと人間全体を救う方向に変えていくべきだ、という意見が出てきます。出家者が自分のことだけを考えて在家(出家していない仏教の信者)の人を締め出し、自分だけ修行に励むという姿勢では決して本当の悟りは得られないという信念に基づいて、一方的に従来の仏教を小さい乗り物(小乗)、自分たちを大きい乗り物(大乗)と呼び、仏教が大きくこれら二派に分裂したのです。

 大乗仏教の成立には、二つの重要な事柄があります。一つは仏教と言いながらも釈迦の本来の考えから別れ、独自の道を歩き始めたということ。もう一つは仏教のプロが登場すること、すなわち、僧侶の誕生です。この改革は仏教が唯一の教義をもたないだけに一歩間違えば全く別の宗教になる危険をもっていました。今日の日本仏教の原型はこの宗教改革によってできたと言えます。

 大乗仏教が誕生した結果、釈迦の思想の継承だけでなく、独自の哲学思想として膨大な数の大乗経典が生まれます。極楽浄土というユートピアが発案されたのもこの頃です。このような新しい動きによって様々な考え方が生まれ、仏教教義にさらに哲学的な深みが加わっていったのです。

<仏像の制作>

 西暦1世紀にインド北部のイラン系のクシャーナ族が南下し、インド北部に侵入し、大乗および上座部を含めた仏教全体の歴史を変える大事件が起こりました。ガンダーラ地方で大虐殺が行われ、人々は仏教に救いを求めました。仏教を信じる人々は苦しい状況の中で、釈迦の姿を見たいとの想いから釈迦の姿を石に刻んで拝むことを始めたのです。これがガンダーラで仏像が生まれた理由で、釈迦の死後400年以上経ってからのことでした。

 釈迦は偶像崇拝を固く禁じたので、釈迦の姿を拝むという風習は原始仏教にはありません。この時点で、仏像を刻んで拝むということが仏教圏全体に拡大普及し、ガンダーラ地方は東西の交易路、南のシルクロードに位置していましたから、ギリシアの影響を受け、彫刻としても洗練された仏像が作られるようになります。

 その後、インドを征服したクシャーナ族のカニシカ王ストゥーパ(仏塔)を建立し、仏教を庇護しました。カニシカ王によって仏教が国際的な広がりをもつようになり、仏教と仏像、それに仏塔を始めとする仏教建築が中国に伝わりました。

 聖徳太子最澄の昔から日本で最も親しまれてきた経典、それが『法華経』です。釈迦の死後300~400年後、西暦1世紀前後に新しい宗教改革運動が起こります。これが大乗仏教の始まりで、この宗教改革の特徴は自らの思想を表現する新しい経典を創作した点にあります。弟子たちが釈迦の教えを書き残したものが経典でした。ところが、大乗仏教の改革者たちは、それらとは別の経典を創作し、釈迦自身も同じように教えたはずだという仕方で自分たちの新思想を展開したのです。『法華経』はそのような大乗仏典の代表的な一つです。『法華経』は釈迦の死後およそ400~500年後に、大乗仏教運動の宗教改革者たちによってまったく新しく創作された経典です。さらに、中国で作られた経典は「偽経」と呼ばれ、それゆえ、「大乗非仏説」(大乗仏教は釈迦の教えではない)と主張する人もいるのです。

 大乗仏教運動の宗教改革者たちは、伝統的仏教の何に反逆したのでしょうか?伝統的仏教の僧たちは自らの修業と悟りを究極的な目的にしていて、大衆の救いに関心を持ちませんでした。新しい経典の作者たちは、自分自身の救いを後回しにしてまでも大衆の救いのために生きることを求めたのです。そして、その理想像が菩薩でした。

 悟って釈迦になる前の求道者が菩薩ですが、新しく創作された大乗経典の中では大衆を救うために生きる理想的ヒーローとして登場するのです。観音菩薩とか弥勒菩薩とか、何百何千の菩薩が大乗教典に登場しますが、すべて創作された架空のヒーローです。真の求道者とはいかにあるべきかを示す理想像の菩薩たちが活躍する一連の創作物語、それが大乗経典なのです。 例えば、初期の大乗経典である『金剛般若経』では、菩薩(=真の求道者)は生きるものすべてを救うために生きていても、自分が誰かを救っているなどと意識しない人として登場します。そんな菩薩の姿を理想的な修行者として描くことによって、修行者自らの悟りに専念する伝統的仏教を批判し、改革しようとしたのです。

 伝統的な仏教では釈迦の教えは悟りに達することが最終的な目的です。釈迦の教えは、苦の原因を知り尽くし、それに執着しないことから、苦からの解放を得る道です。それは苦を作りだしていた原因に対する迷妄からの解放です。それが釈迦の悟りなのですが、『法華経』はそれではまだ「この上なく勝れた」悟りに達しているとは言えないと述べるのです。では、「この上なく勝れた」悟りとは一体何なのでしょうか。

 法華経においても、他の大乗経典と同じように、理想の修行者は、自ら苦から解放されて悟りと平安の境地にとどまっている人ではなく、立ち上がって、「世間の人々の幸福のために」、「多くの人間を苦しみから解放する」ため、「すべての人々の安楽の基となる」釈迦の教えを説き示す人です。これが、単なる「悟り」を超えた「この上なく勝れた悟り」ということです。

 このように、大乗仏教宗教改革者たちは自らの救い求めるのではなく、生きるものすべての救いを求める人を求道者の理想像(=菩薩)としたのです。そして、その新しい教えを「大乗」、すなわち、たくさんの人々を救うための大きく勝れた乗物(菩薩乗)と呼んだのです。

<釈迦の教えと大衆の迷信>

 いつでもどこでも人々は迷信を信じてきました。それは、仏教も同じです。釈迦が死んだ後、弟子たちはその教えを守り、修業しました。しかし、一般大衆は釈迦の教えを学び、厳しく修業したりするより、むしろ、釈迦の骨を収める仏舎利塔にお参りすることで済まそうとしました。釈迦の教えは理路整然としていて、苦の原因を追及し、それを取り除くことによって苦から解放されるというものでした。そのため、釈迦は祈祷やまじないを一切否定しました。ところが、大衆の救いに大きな関心を持つ大乗仏教の改革者たちは、大衆の迷信を否定せず、それも釈迦の教えと同じように積極的に受容したのです。

 これは大乗仏教の大きな特徴で、それまでの伝統的仏教にはほとんど見ることができないものです。しかも、後代の大乗経典になるほど、この大衆の迷信を受容する傾向が強くなります。やがて、仏像をつくってそれを拝むことが受容され、最後期の大乗教典(密教)では、釈迦が明白に否定したさまざまな迷信、呪文(真言)や「火をたく護摩の術」さえも受容されることになります。

 このように、大衆の救いに特別の関心を持つ大乗仏教の改革者たちは釈迦が否定したさまざまな迷信を否定するどころか、むしろそれを積極的に受け入れ、それによって大衆が救われることを優先したのです。そして、それを正当化するために、新しい経典(大乗経典)がつくられたのです。

<巧みな手立て(方便)>

 大乗経典は宗教文学です。文学は創作ですが、文学は人を騙すための創作ではなく、それを通じて作者のメッセージを伝える詩や物語です。大乗経典は釈迦が教えたという伝統的仏教経典の形式を使って、釈迦や菩薩を主役として登場させた創作物語です。それは、釈迦の思想を継承し、釈迦が語らなかった真理を語ろうとする物語作品です。

 では、大乗仏教の改革者たちはどのような根拠で釈迦の教えでないものを釈迦の教えとして新しい経典を次々に創作できたのでしょうか。その答えの一つが、「巧みな手立て(ウパーヤ、方便)」という大乗仏教を特徴づける思想にあります。大衆を救うとする諸仏や菩薩に備わっているとされる救済のための巧みな技術が方便です。かれらは実に革命的なことを考え出したのです。すなわち、大衆が簡単に受け入れる仏舎利塔信仰や仏像信仰や経典信仰などの迷信を、単に迷信であるとして捨てずに、それらを、彼らのような人たちでさえも仏教の道に入ることができるようにと、秘かに企てられた釈迦の巧みな手立てであると解釈したのです。

<大乗は釈迦の教えを否定するのか>

 悲しみや苦しみからの解放はその原因や条件を知り、それらを取り除くことによって達成される、と釈迦は考え、人間の悲しみや苦しみからの解放の手段としての迷信(祈祷や祭祀や呪文等々)はすべて捨てるよう説きました。それが原始仏典の語る釈迦の教えでした。したがって、『法華経』などの大乗の諸経典が釈迦の遺骨に供え物を捧げるだけで(仏舎利塔信仰)、仏像を作り、礼拝するだけで(仏像信仰)、あるいは経典の一節や題目を唱えるだけで(経典信仰)、最高の悟りに至ることができるなどという迷信を認め、取り入れたことは、釈迦の本来の教えを否定することを意味しています。

 そこで、釈迦の教えを否定する彼らの新しい思想こそが実は「釈迦のより勝れた教え(大乗)であり、伝統的仏教は釈迦の教えを理解できない大衆を救う心も技術も持たない劣った人々のための仮の、方便としての教え(小乗)であった」という巧みな手立て(方便)を考えついたのです。これが、大乗仏教が釈迦の教えを否定しても、なお釈迦の教えである、と主張するために彼らが考え出した正当化の方便なのです。

<なぜ、釈迦の教えでないものが釈迦の道へ導くのか>

  しかし、大衆を救うためとは言え、そんな大衆迎合的な嘘をつくことが許されるのでしょうか。「嘘ではない」というのが大乗仏教運動の改革者の確信でした。では、いかにして、本来の釈迦の教えでないものが、釈迦への道に入ることになるのでしょうか。本来の釈迦の教えでなくても、それを受け入れることが、本来の釈迦の教えに導かれる何らかの縁となるならば、それは、究極的には、釈迦への道となるのですから、それも釈迦の教えである、という理屈です。仏舎利塔や仏像を造り、それらを礼拝することそれ自体は、もちろん、釈迦が教えたように、人を悟りに至らせるものではありません。しかし、仏舎利信仰や仏像礼拝は釈迦への尊敬心を育み、やがて、心の中に、「釈迦とは誰?」、「釈迦の教えとは何?」といった問いを生む因縁になることでしょう。同じように、『法華経』の名前やその他の呪文を唱えることそれ自体は、釈迦が教えたように、人を悟りに至らせるものではありません。それらは迷信であって、本来の釈迦の教えとは何の関係もありません。しかし、経典の名前を唱える行為は、経典や釈迦に対する尊敬心を育み、やがて、心の中に、「その経典には何が書いてあるのか?」、「呪文の意味は何か?」というような問いを生む因縁になる筈です。

 心の中に、「釈迦とは誰か」、「釈迦は何を教えたのか」等々の問いが生まれるとき、人は本来の釈迦の悟りへの道へと既に一歩踏み出しているのです。菩薩の巧みな手立ては、こうして、釈迦の本来の教えを受け入れることのできない「劣った人々」をも、釈迦の道へと誘い出してしまうのです。それが「大きくてすぐれた乗物」を主張する理由です。

<縁起の法と一乗思想と永遠の釈迦>

 釈迦の教えでないもの、釈迦が否定した事柄さえ、釈迦の道へと導きうるという主張ができるのは、世界の諸現象が縁起(互いに依存して起こる)関係にあるからです。迷信は迷信、釈迦の教えは釈迦の教え、とそれぞれが無関係に自立自存していれば、一方から他方への移行は不可能です。つまり、世界が論理的な依存関係や因果関係によって成り立っているのでなければ、仏舎利信仰、仏像礼拝、経典信仰等々の迷信が釈迦の本来の教えへの因縁とはなり得ません。様々な教えは、実のところ、釈迦の教えの一つである、という『法華経』の一乗思想は、仏教の中心思想である縁起の思想によって裏付けられているのです。

 <仏教の伝播と教義の変質>

 中国に伝わった仏教は経典の翻訳から始まります。鳩摩羅什はインド人翻訳家として有名ですが、日本では唐時代の玄奘三蔵が翻訳した経典が知られています。玄奘三蔵は翻訳家というよりも、中国に不足していた仏教関連資料の輸入に貢献したことで有名です。彼は三蔵法師として『西遊記』の主人公になり、孫悟空猪八戒と一緒に天竺への旅に出ます。西安には街の南に玄奘三蔵が持ってきた経典を収めてあったという大雁塔が今も聳えています。

  次は中国の考え方を仏教の教義に取り入れることです。中国に仏教が伝わったとき、中国人に非常に受け入れ難かったのは、出家して修行するということでした。紀元前後に中国を支配していた漢は国家運営の基礎として儒教を採用しました。儒教孔子の教えで、政治は人徳によって行わなければいけない、その人徳は目上の人を敬い、親に孝行しなければならないという道徳でした。出家は親を捨てることを意味しますから、儒教の親孝行の考えに反します。したがって、プロの僧侶が代わりに出家してくれる大乗仏教儒教にとって都合がよかったのです。しかし、それでも仏教の中に儒教の考え方を入れるような変更が必要でした。実際、儒教の考え方を採り入れた仏教が作られ、中国製の偽経がたくさん作られました。

 紀元前3世紀頃まで続く中国の春秋戦国時代には、諸子百家といわれる多くの思想家によって、実に様々な思想が出現し、仏教が伝わってきたときには既に色々な考え方が中国には存在していました。そのうち「無為自然(なにもせずに自然のままにまかせること)」を説く老子荘子の考え方は道教として民間信仰になっており、「空」を基本の考え方とする仏教を受け入れる素地ができ上がっていたのです。

  仏教はこのように種々の民間信仰と一緒になり、儒教の考えを取り入れ、中国式に変貌を遂げるのですが、中国経由の仏教にその痕跡を見出すことができます。例えば、輪廻転生について、中国の南北朝時代民間信仰チベットに伝わった仏教に取り入れられ、「チベット死者の書」という本になっています。これは十王説と言われ、今の法事の根拠になっています。つまり、死後、閻魔(えんま)大王など10人の裁判官に、前世での善い行いや悪い行いを次々に裁判され、最後に極楽や地獄に振り分けられるという考えです。十王説を簡単に言えば、「悪いことをしたら地獄に落ちる」という具合に、人々の恐怖心を刺激して正しく生きるように導くということで、これは本来の仏教にはなかった考え方です。また、今もお盆の行事が行われていますが、これらも儒教による中国の民間信仰がもとになった行事で、目蓮の親孝行の話を述べた『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典に基づいています。

<仏教哲学と体系化の完成>

 3世紀にインドの僧侶ナーガールジュナは哲学的な観点から大乗仏教を体系化しました。ナーガールジュナは中国や日本では「龍樹」と呼ばれています。龍樹は『中論』の中で、『般若経』で述べられている「空」を理論化しています。つまり、仏教の公理である「無常」という概念自体が自己言及型の論理の破綻(「無常」自体を無常という言明の対象とするならば自己矛盾となる)を内包しており、これを克服するメタ論理として「空」を位置づけ、あらゆる現象はそれぞれの時間的、空間的な関係の上にのみ成り立っていて、現象自体が実在しているのではないと考え、それを「空」と名づけました。龍樹によれば、「空」=「縁起」=「因縁」となります。同じ『般若経』で述べられている「空」を理論化する哲学として、4世紀に無着と世親の兄弟が体系化した唯識論があります。事物的な存在ではないが、八種類の意識(魂)は存在するとして、その意識を基礎にしてヨーガにより悟りの境地に達するという考えです。唯識は死後にも不滅の魂に相当する意識としてアーラヤ識も存在すると考えることから、龍樹の空観の哲学とは真っ向から対立することになります。この空観と唯識大乗仏教を代表する二大哲学です。

 一方、中国人で仏教の構造を体系化した人に天台大師智顗(ちぎ)がいます。智顗は、釈迦が一生のうちで色々なことを言ったが、そのときの年齢が違うし、言った相手の知的能力も違うのだから、同じことを違う言い方で言ったに違いない、と考えました。釈迦の年齢順に、順番に並べてみた結果、全体を五つの時期に分けて「五時の教判(ごじのきょうばん)」と名づけました。『華厳経』-『阿含経(原始経典)』-『維摩経』-『般若経』-『法華経』の順番で、最後の決定版が『法華経』という訳です。この五時の教判は、結果として、『阿含経』より『法華経』のほうが優れているというような、経典に優劣をつける結果となりました。天台大師智顗は名前からわかるように、中国の天台山天台宗を開いた僧侶で、天台宗平安時代初めに最澄が留学し、学んできた宗派です。仏教はクシャ-ナ朝で繁栄しましたが、チャンドラ・グプタによるグプタ朝の成立という王朝の交代によって、インド仏教は急速に廃れて行きます。一方、中国に伝わった仏教信仰は、色々な考え方を吸収し、変形しながら拡がっていき、三国時代には朝鮮半島にまで達し、6世紀半ばに日本にも伝わりました。中国を経由した大乗仏教は本来の釈迦の考え方とは相当にかけ離れたものになり、独自の哲学を背景に仏教という名前で一人歩きを始めました。大乗仏教が結果的に釈迦の主張に背いた考え方になったとしても、哲学として優れた考え方をもつ宗教になったのもまた事実です。

 

B日本の仏教

<仏教の伝来>

 日本へ仏教が伝わって来たのは6世紀で、百済聖明王を通じてのものでした。これを受け入れるか否かについて賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で意見が分かれ、最終的には受け入れ賛成派の蘇我氏が勝利を収めました。蘇我氏を背景に本格的に仏教を研究し、同時にそれを政策に採り入れたのが聖徳太子です。

 奈良時代になると国をあげてインドや中国から仏教の輸入が行われ、その結果が上座部系の倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、大乗系の律(りつ)、法相(ほっそう:唯識)、三論(さんろん)、華厳(けごん)の六宗派です。これは鎌倉時代以降の宗派とは違って、相互交流をもち、ひとつの仏教学部内の教室の違いという感じで、一つの寺院にも色々な宗派の僧侶がいたようです。これが南都六宗です。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国家プロジェクトとして仏教を盛り上げ、政策として仏教普及が推進されました。道鏡の出現などによる平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革、宗教改革でした。

<日本における釈迦思想の復活-最澄空海

    平安時代から鎌倉時代にかけて釈迦の考え方に比較的近い内容で、独自の考え方を折り込んだ新興宗教が生まれたことが日本仏教の大きな特徴で、それらはどれも大乗経典を基本にしています。

  まず、平安時代初めに、奈良仏教から抜け出し、仏教の改革を行う目的で最澄が中国から天台宗をもたらしました。そして、最澄は平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たしました。最澄桓武天皇から注目されたきっかけは、平安京の鬼門にあたる北東の方角にある比叡山に寺を建てたことです。その最澄天台宗輸入は天皇の命を受けて行われ、天台宗はその後の新興仏教が興こるきっかけを与えることになります。

 また、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海密教を持ち帰ります。空海は都の長安密教の直系をそのまま受け継ぎ、日本に輸入し、密教を完全な形に完成させました。空海長安密教僧である恵果(えか、けいか)に弟子入りし、密教の奥義を伝授され、宗教としての密教を完成させます。密教は釈迦の悟りを追体験することを目指し、宇宙を信仰の対象にして様々な秘術を用いて修行しますが、空海は大乗、小乗どちらも包含する壮大なシステムの構築を目指していたのです。

 ここで密教について考えてみましょう。釈迦の悟りの境地を知るには大きく分類して二つの方法があります。一つは釈迦が残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注解し、悟りに到達する方法です。もう一つは釈迦が悟りに達した状況を追体験する方法です。

 釈迦が悟りの境地に達した時が仏教の始まりですが、実は釈迦は初め誰にもそのことについて話しませんでした。この期間が21日あります。その後に、初めて他の人に話し始め、それを聞いた弟子たちは釈迦から話を聞くということによって仏教を学び始めたのです。釈迦に心境の変化を起こさせたのは梵天ということになっています。これが「梵天勧請(ぼんてんかんじょう、「悟りを開いたのなら、それを他の人にも説いてくれ」と梵天が釈迦に頼むこと)」と言われ、上座部経典に説かれています。なお、梵天バラモン教からの輸入仏です。このように22日目以降に釈迦が話し始めた教説が「顕教」と呼ばれています。顕教では釈迦の教説を記録した経典を研究することによって、つまり釈迦の言葉を通して教説を学ぶということになります。

 ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、そのときの釈迦と同じ精神状態を追体験しようとする考え方が「密教」です。最初の21日間の釈迦、つまり、釈迦の口から出る言葉(サンスクリット語の「真言」)、姿勢、心持ちをそのまま全部追体験しようという試みです。具体的には、真言を唱えながら印契(いんげい、手と指を組み合わせて結ぶ印)を結び、いわゆる催眠状態を目指すのです。これはどうみても超常体験としか言いようがありません。真言サンスクリット語の呪いで、例えば『般若心経』の末尾に出てくる呪文の部分が真言のよい例です。

 以上のように密教は本質的に自力的なもので、釈迦の境地に達するのは祈祷者自身であり、それゆえ、真言宗の僧侶に祈祷を頼み、利益を得るということは原理的に間違いだということになります。

 空海密教には二つのキーワードがあります。一つは「利益」です。病気が治るとか、土木工事などのプロジェクトがうまくいくといった庶民に直接関係のある「利益」を強調し、実現してみせることによって、それまで官主導で進められてきた仏教信仰を庶民文化の中に定着するという役割を担ったのです。これは、理屈抜きで信じるという正真正銘の宗教であるという効果がありましたが、それと同時に密教が宗教のもつ一抹のいかがわしさを持ったことは否定できないと思います。もう一つのキーワードは「即身成仏」です。空海は死期を悟った後、高野山奥の院に篭り、そのまま成仏したと伝えられています。これによって、成仏と死というものが直結してしまうのです。

 最澄は中国天台山揚子江の河口近く)に短期間留学し、天台宗の仏典を持ちかえっただけで、天台宗の教えの研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、天皇嵯峨天皇に代わり、空海が脚光を浴びて登場することによって、日本に密教ブ-ムが起こります。この時点で最澄は流行に乗り遅れるかもしれないと焦りを感じたと思われます。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、『法華経』の記述には禅や浄土などの要素も含まれていて、言ってみれば、基本的に何でも受け入れることができる宗派だったので、密教的な要素を入れても、教義自体が変わるというようなこともなく、形式上、スンナリと密教が入ってしまったのです。天台宗密教のことを「台密」といいます。こういう具合で天台宗は考え方の範囲が非常に広い宗派になったことや、天台宗自体の研究は最澄の帰国後の課題であったことから、研究しなければならないことがたくさん残り、宗教というよりは学術的な雰囲気の中で宗派が維持されてきました。最澄天皇の支持を受けて公式に留学し、延暦寺を開山したので、歴史学の立場からは権力密着型の僧侶です。しかし、それまで政治と一体となっていた奈良仏教を批判し、政治と宗教を分けるという原則に立って仏教の変革をしようと朝廷を利用したのであり、このことは最澄が『梵網経(ぼんもうきょう)』をもとに平等主義を唱えたこと、天台宗の信奉する法華経の『安楽行品(あんらくぎょうぼん、法華経行者の心がけを説いたもの)』に「権力に近づくな」と強く戒めていることからもわかります。

 最澄空海がその後の日本仏教の原型を作りました。庶民の仏教信仰という観点からはいわゆる「お大師様」空海が重要ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要です。なぜなら、これ以後ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく、未完成の比叡山を目指し、その結果、比叡山には多くの逸材が集まり、修行、研究する場となったからです。その中で、鎌倉時代比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗のやり方に不満や疑問をもつことによって、画期的な新仏教を生んでいくことになります。

<鎌倉仏教>

 鎌倉仏教は比叡山で修行を積んだ天才僧侶たちが自らの考えを実践する形で生み出した仏教です。これら天才たちの考えを通じて、釈迦の主張が改めて認識されることになります。これを浄土教から見ていきましょう。

 浄土教系の宗派には浄土宗、浄土真宗時宗などがあり、いずれも浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)に基づき、念仏を唱えることをその宗教活動の中心に据えています。中でも浄土宗を始めた法然浄土真宗親鸞が重要です。法然阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶がお寺をもつ必要がないことを主張します。浄土真宗の開祖は法然の弟子の親鸞ですが、彼は徹底的に他力本願とは何かを追求した人で、その結果として、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、そのために念仏至上主義の立場をとりました。彼は布施にも反対しています。また、親鸞は仏教に善悪の考え方を導入しました。善悪は儒教に登場する倫理的な概念で、空を基本とする相対論的な仏教には本来存在しないものです。

 次に、禅宗は座禅を修行の中心に据える宗派で、経典の言葉では意思は伝わらないと考えます。臨済宗では『般若経』、『法華経(観音経)』などを重要な経典と考えていますが、開祖の栄西(ようさい)の考え方は、教外別伝(きょうがいべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)と言われるように、言葉によらずにインスピレーションで悟りに至るというものです。そのために座禅をするのですが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅する公案禅(こうあんぜん)です。臨済宗栄西の後もしばらくの間は一休や夢窓疎石などの優れた禅師が続いて登場します。曹洞宗の開祖とされる道元も教外別伝、不立文字、以心伝心で特定の経典にこだわらず、座禅によって悟ることを目指すのですが、栄西の禅とは違って、何も考えないでひたすら座禅する黙照禅(もくしょうぜん)という座禅を生み出しました。

 これら以外に『法華経』という経典が最も大切だと言って、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する超過激派の日蓮が始めた日蓮宗もあります。

  釈迦の基本思想という点からこれら開祖を評価してみましょう。まず、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通しています。特に、平等主義のうち権力に迎合しない姿勢は顕著です。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像はいらないと思っていますから、仏像を拝むということは考えていません。浄土教系では、念仏を唱えるのが最も重要であり、これは拝む行為ではなくて一種の修行方法と考えられますから、偶像崇拝の考えとは本質的に異なっています。いずれにせよ、これら鎌倉時代の天才僧侶たちは釈迦の考えに非常に近い思想を共有していました。  

<鎌倉仏教の影響と衰退>

 さて、鎌倉新興仏教の開祖たちが天才だったことは二つの意味を持っています。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、大乗仏教で見えにくくなっていた仏教本来の姿がもっと見えなくなってしまったことです。例えば、親鸞道元などの開祖の姿や主張がまず私たちに見え、釈迦の考え自体はその後ろに隠れて見えなくなってしまいました。つまり、浄土真宗は、釈迦の教えというよりも親鸞の教え、親鸞の宗派であり、同様に曹洞宗道元の宗教と考えられるようなったのです。

 もう一つの意味は、開祖たちが天才だったためにその開祖の教えが百点満点で、非の打ち所がなく、そのため、その教えをもっと改良するようなことを後継の人たちが考えなかったことです。そのため、日本の仏教諸宗派は開始と同時に、思想や哲学という点で次第に衰えていくことになります。仏教史を見れば、それは一目瞭然で、鎌倉時代以降めぼしい進展がないのです。

<仏教の衰退と退廃>

  地域の人々を掌握するために仏教をうまく活用したのが江戸幕府です。ここで有名な僧侶が二人登場します。徳川家康の取り巻きの僧侶で、一人は天台宗の天海、もう一人は臨済宗の崇伝です。天海は最澄の真似をして江戸の鬼門にあたる上野に鬼門封じとして寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣(しい、しえ)事件に加担しました。彼らが仏教の思想的衰退にとどめを刺したと言っても過言ではありません。まず、彼らは檀家制度を考案し、総本山-大本山-末寺の体制を作りました。幕府は鎖国政策によってキリスト教を禁止しましたが、その際、人々はいずれかの寺院の檀家にならなければならないとして、宗門人別帳という全員の名簿を寺院に作らせて、幕府が戸籍と宗教の管理をするかわりに、その役割を寺院に任せたのです。檀家制度は世の中を統治する政治の制度であって、仏教とは直接関係のないことですが、その後の文化に非常に大きい影響を与えることになります。同時に本山末寺体制によって仏教教団の集金システムが完備されました。この二人の僧によって、仏教は本来の仏教思想から離れ、ビジネス組織、管理組織に変身したのです。江戸幕府が指導原理を儒教とし、統治手法に仏教寺院を利用したことの二点は、その後の日本人の精神への影響という意味で極めて大きな禍根を残したのです。

 明治政府は仏教を廃止しようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策などを取りました。これによって仏教教団は危機的状況に陥ります。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けました。ただし、浄土真宗は資産運用に所領の拡張という方法をとりませんでしたので、経済力の壊滅をうまく逃れ莫大な蓄財に成功しました。

 明治以降、西洋との交流が始まり、西欧の科学が入ってきました。実はこれが仏教にとって思想的復活の最後のチャンスでした。でも、この時点で復活できなかったため、太平洋戦争時に各宗派こぞって戦争肯定論に走り、不殺生戒まで率先して破る結果になり、今日の葬式仏教に堕落してしまったわけです。

 西欧ではアジアが植民地であったことから、植民地政策上の必要性もあって、インド学が生まれました。例えば、イギリスの言語学者であるジョーンズは仏教経典の言語であるサンスクリット語インド・ヨーロッパ語族に属することを発見しました。サンスクリット語パーリ語というインドの古い言語の研究を基礎として、既に19世紀には仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいました。その主な研究対象は上座部仏教の経典が中心で、パ-リ語の阿含経典群などです。明治以後、これらの研究内容が入ってくると、釈迦の考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は、実は仏教ではないのではないかという疑問が学問的な説得力をもつようになり、「大乗非仏説論争」が起こります。その結果、大乗も一応釈迦の教説を正しく継承したものであること、また、その大乗への変形は発展の必然的形態であるという大乗精神肯定の方向で決着しました。この西欧からの刺激を真摯に受けとめて、この時点で既存宗派の中に開祖の教義を再評価するような人が出ていれば、現代の形態は変わっていたのかも知れません。

<大乗非仏説論争の経緯>

 ここでは江戸時代から明治にかけて、日本の仏教界を根底からひっくり返す可能性のあった大乗非仏説について紹介することにします。

 大乗仏教の諸経典は釈迦の死後400~500年後に編集された論文、文学作品であり、釈迦の思想を直接に反映したものではない、というのが大乗非仏説の主張です。西欧における上座部パーリ語阿含経典群などの文献学的研究によって次第に明らかにされ、イギリスの植民地であったインドにおいて始まったのですが、日本でもその提唱は意外に古く、江戸時代に出た富永仲基(とみながなかもと)という町人学者がやはり文献学的な研究によって大乗非仏説を唱えています。文献学的研究ですが、その方法について簡単に触れておきます。いま、文献Aにaという記述があるときに、文献Bにaについての参照や類似の記述がある場合、文献Bが文献Aの後に成立したことが証明されます。この原則を繰り返すことによって文献の成立過程を明らかにしていくというのが方法です。富永仲基は一種の天才で、独自にこのような方法を考え出しました。

 富永仲基は大坂の道明寺屋という醤油問屋の若旦那です。人文科学はこの若旦那にとっては道楽でした。自分で文献学的手法を開発し大乗経典の成立順序を歴史的に明らかにすることに成功しました。中国の高僧である智顗の五時の教判よりも浪花の若旦那の人文科学のほうが真偽という点からは正しかったという面白い歴史的事実になっています。勿論、仏教界からは総スカン、極悪非道の人物とされましたが、この富永の説を受けて国学者平田篤胤が排仏思想に発展させました。これが明治維新期の排仏毀釈運動の端緒になって仏教界では両人ともにとても恨まれています。

 明治になって、1901年東大の村上専精が「仏教統一論」によって大乗非仏説を唱え、論争が始まりました。村上専精は真宗大谷派の僧侶でしたが、これにより僧籍を剥奪されています。論争は大乗も一応釈迦の教説を正しく継承したものであること、またその大乗への変形は発展の必然的形態であるという理解をするという大乗精神肯定の方向で決着しましたが、現代では学問的には大乗非仏説の主張が定着しており、大乗経典が釈迦の教説をそのまま反映していると考えている仏教学者はいないと言えます。