水の広場公園に置かれたままの「潮風公園島の日曜日の午後」(福田繁雄)

 日本のだまし絵、トリックアートの第一人者だったのが福田繁雄。福田は「日本のエッシャー」と呼ばれ、2009年に亡くなっている。ユニバーサル・デザインを標榜する福田の海外での活動は目覚ましかった。国内でも81~86年に東京藝術大学デザイン科助教授を始め、98年社団法人日本サインデザイン協会顧問、2000年日本グラフィックデザイナー協会会長などを歴任。2007年紫綬褒章受章。

 そんな福田の作品が誰も行かない海辺の公園に置かれたままである。なぜこんなところにこんな作品が、と訝るしかない…そこで、福田繁雄の作品「潮風公園島の日曜日の午後」(1995)が妙に気になり、探ってみた。現在作品が置かれているのは「水の広場公園」の片隅(有明3-2、有明埠頭橋の横)。この公園は同じ都立の公園だが、「潮風公園」ではない(もっともタイトルは「潮風公園島」)。

 作品は正面から見るのと横から見るのとでは、全く別の形に見えてしまうトリックアートで、正面からはジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の一部と思われるものが見え、横からはピアノの演奏シーンが見える。ところで、グランド・ジャッド島はフランス・パリ西部のセーヌ川の中州にある島。台場も都心から近く、グランド・ジャッド島と似た場所にある。

 さて、肝心の潮風公園だが、2020年のオリンピック・パラリンピックビーチバレーボールの会場。それで移設されたのだが、現在は潮風公園護岸改修工事で移転中と説明があるだけ。お蔭で暫くはほぼ一人占めの状態で鑑賞できるという訳である。

 鑑賞して最初に気づくのは、二つの視点(正面と真横)以外はまとまった姿に結実せず、中途半端な位置にいる鑑賞者を失望させてしまうのではないかということ。2次元の多義図形の3次元版がこの作品の意図なのだろうだが、本当に3次元の多義図形になっているのかと問われると心許ない。3次元の多義図形がどのようなものかの明確なイメージを私はもっていないのである。

 新印象派のスーラは点描画で有名だが、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)はその代表作。この作品は1889年以降に画布から枠を外し、赤色と青色の点描による縁が加筆されたことが知られていて、パリ北西、セーヌ河の中央にある細長い島「グランド・ジャット島」で人々が夏の余暇を過ごす情景を描いた作品。

 スーラには「点描の知識がいかに知覚を豊かにするのか」、福田には「知覚は知識にどのような貢献をするのか」といった問いを投げかけてみたい。だが、そのような問いかけは知覚(や感覚)と知識(や情報)の間の関係がどのようなものかを一層曖昧にしてしまう。知覚と知識は互いに他を助け合う関係にあるのか、緊張した対立関係にあるのか、二つの問いの立ち位置は正反対だからである。

 「学習できる知識」と「本能としての知覚」という風に対比してみると、知識と知覚は根本的に違うことを示唆している。一方、「知識の学習と知覚の学習」という表現は、いずれも学習によって獲得されることを意味している。さらに、知覚は母国語の習得、知識は第二外国語の習得に似ているなどと言われると、成程と思いながらも、知覚と知識の違いは明瞭ではないということも納得できてしまう。新印象派のスーラの点描画は知覚が色についての知識によって再構成できることの実践であり、知識による知覚の再構成である。とすれば、福田のトリックアートは知覚する視点を巧みに使った複数の知識の表現になっている。

 こんな哲学談義は忘れ、それぞれの作品をじっくり味わうのが至福というもの。知識も知覚もそれを享受し、消費するところに意義があるのだから。現在作品が置かれているのは「水の広場公園」の片隅。作品は長方形の台座に置かれている。その一つの辺と対辺から見るとほぼ同じ一つの像が、もう一つの辺と対辺から見ると別のほぼ同じ一つの像が見えるというトリックアートで、一つの辺とその対辺からは「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の一部が見え、もう一つの辺と対辺からはピアノの演奏シーンが見える。

 このトリックアートが私たち人間ならどうなるか。福田作品のスーラの絵の男女がそれぞれ対辺から同じに見えるのは、私たちの身体がほぼ左右対称であることから、誰も奇妙な印象はもたないのではないか。だが、私たちの身体は前後対称ではない。だから、前から見ても後ろから見ても同じに見えたら、それはお化けであり、理解不能になる。

 では、二つの視点から同じに見えるだけでなく、二つ以上の視点から同じに見える物はあるのか。対称軸が増えれば、同じに見える視点も増えていく。さらに、どこから見ても同じに見えるような対象はないのか。それは球体。『球形の荒野』ではなく、「球形の対象」となれば、マリモや球菌が思い浮かぶ。これらが完全な球なら、どこから見ても同じに見える。

 だが、タンポポやオニノゲシの綿毛、マリモ、球菌を見て、それらをトリックアートとは言わない。普通なら違って見えるものを同じに見せるのがトリックアートで、私たちの周りのものはどれも非対称的なのだというのが、このアートのアートでない結論。

*最後の画像はオニノゲシの綿毛