<知識、理論>負荷性と<生得、感覚>負荷性

 一升瓶に液体が入っています。何も調べずに、その液体が日本酒だと結論することは危険で、誤っているかもしれません。日本酒だと信じるのは勝手ですが、似たような液体はたくさんあります。「それは液体である」は観察事実ですが、「それは日本酒である」は観察事実ではありません。日本酒のように見えても、日本酒だと結論はできません。中身を調べ、その結果に基づいて、それが日本酒だと結論できるのです。では、「それはサクラだ」という文は観察事実でしょうか。観察事実だというのが並の答えですが、どうしてでしょうか。

 「すべての牛は4足である」も観察事実ではありません。というのも、「すべての牛」を観察できる人はいないからです(私が眼前の牛を見て、「この牛は4足である」と言う場合、それは観察事実)。この全称言明は多くの牛を観察し、そこからなされた推論の結論です。そのような推論は帰納的推論であり、正当化のできない蓋然的な結論に過ぎないと主張したのがヒュームでした。結論と観察を区別することはトリックのように見えるかもしれませんが、「すべて」や「いつも」を含む言明は観察事実ではなく、推論の結論なのです。そして、その結論も誤り得ます。「すべての牛は4足である」という言明は厳密に真とは言えません。事故で足を失った牛や突然変異の牛が実際に存在するからです。

 では、観察事実は信じることができるのでしょうか。「理論負荷性(theory ladenness)」はデュエムやハンソンといった科学哲学者が唱えた概念で、観察事実は理論を前提としていて、理論が観察や知覚に負荷をかけ、影響を及ぼすため、理論の検証や反証の基盤となるような純粋で公平な観察事実は存在しないという主張です。

 理論が観察事実に負荷をかけ、それによって客観的な事実は存在せず、理論や知識に相対的にしか事実は決まらないという考えは比較的簡単で、納得しやすいのではないでしょうか。光子や電磁波の観察が理論負荷的だというのはわかりますが、厄介なのは「常識負荷性」や「言語負荷性」です。私たちがもつ常識や使っている言葉が、見ている事実、扱っている出来事に負担をかけ、客観的でない経験を強いている、という主張が実際にどのようなことか判然としないのです。私たちは通用している知識を普通に使って物事を知るのですが、それが公共的なものだと信じています。むしろ、言葉や常識は行き交う情報が客観的で公共的で信頼できるものであることを保証していると思っています。

 確かに、常識や言葉は知覚や観察を公平に表現する手段ですが、同時に知覚や観察に負荷を与えるものだということになると、正負、表裏の関係にある性質を併せ持つことが明らかになります。私たちは常識を使ってものを見て、判断します。常識は決して堅固なものではなく、時には大きく異なる常識が両立しています。「同性愛は悪いか否か」、「人工妊娠中絶は是か非か」に関する常識は二分されたままです。普通の日本人には仏像は礼拝の対象に見えるのですが、イスラム教徒は仏像を礼拝の対象とは見ません。

 負荷性は半ば生得的な感覚知覚に関しても存在します。どの動物も独自の感覚器官をもち、異なるような知覚経験をして、それぞれの経験世界を有しています。生得的な感覚装置に応じて感覚情報を処理しているため、出力はそれぞれ異なっています。そのため、様々に情報処理される以前の対象はその真の姿なるものがわかっているようで、よくわかっていません。ヒトにとってのバラの花の色は昆虫たちにとってのそれとはまるで違っています。とはいえ、そのことからバラの花の色の存在、バラの花の存在、そしてバラの存在を疑うでしょうか。大抵の人は疑いもしません。

 より明示化しやすいのは理論負荷性で、それはある程度はコントロール可能な負荷性であるからです。それに対して、感覚や言語の負荷性は暗黙の部分が多く、いまだ不明で謎だらけです。いずれにしろ、私たちの知識には様々な負荷がかかり、客観的な(理論負荷的な)知識は今のところほんの僅かに過ぎないのです。