変化の経験-科学における経験と実在(4)

2反実在論の諸見解
 ここでは科学理論の構造に関する経験論を含む反実在論の見解を詳しく見てみよう。反実在論の特徴は理論と観察を明瞭に区別するという点にある。
( 問題の起源:「理論」の始まり)
 ガリレオとロックの第一性質と第二性質の区別を思い出そう。そこでは第一性質は次のように考えられていた。

1. それらは基本的な説明的性質であり、物理学が世界を記述するために必要な性質である。 (形而上学的条件)
2. それらは私たちの精神によって理解でき、精神はそれら性質の観念をもつことができる。(認識論的条件)

両方の特徴が実在論的な科学に必要だとすれば、科学に対する反実在論は実に単純なものとなる。1の物質世界の存在を否定し、2はそのまま認めれば、その反実在論では科学的な用語は観念を指示することになる。だから、それら用語の意味についての問題は何もない。科学用語は対応する外的な性質ではなく、観念を指示するに過ぎない。だが、私たちの直接的な観察データを記述するのに使う言語を越えた理論言語を科学が使わない範囲でしかこれは成立しない。ロックの時代でさえこのようなことはなかった。そこには少なくとも次の二つの理由があった。

(1) 物理学は既に観察できないミクロな対象を仮定していた。
(2) ニュートン力学においてさえ、質量のような基本的な性質を私たちが感覚的にわかることはできない。それら性質の間接的な効果を探るくらいしかできない。

 だが、これらの点はニュートン力学がボールのような身近の対象によって簡単に視覚化されるという事実によって覆い隠すことができる。ニュートン的な粒子を小さな野球のボールと考え、それゆえ、原理的に観察可能だと考えることができる。だが、これは誤っている。視覚像がこれら粒子の集合についてのものだとすると、それら一つ一つを見るということは意味がないことになる。さらに、私たちは基本的な性質を直接に見ることができない。したがって、17世紀でさえ上述の単純な反実在論は選択肢の一つではなかった。質量のような理論的用語は観察データによって簡単な仕方で解釈できない。科学の発展とともに、理論と観察のギャップは次第に大きくなる。多くの新しい理論的概念が導入されるが、それらの多くは直接経験と単純な結びつきをもっていない。
 反実在論にとって基本的な問題はこれら理論的用語が何のためのものかである。というのも、反実在論の中ではそれらを直接観察可能なものを超えて実在を記述するものとして解釈できないため、それらの存在理由を実在とは独立に考えなければならないからである。
(二つの反実在論的解答)
 理論言語が何のためかについての反実在論からの解答をまとめて確認しておこう。
1. 還元主義:ラッセルの論理的構成という見解は還元主義の典型例である。ラッセルが理論的対象は感覚データからの論理的構成であると言うとき、彼が意味していたのは理論言語が原理上感覚データに言及する言語に還元できるということである。この見解では理論的な言明は実在について何か語っているが、それは観察できるものを超えた実在についてではない。

*科学は自然が階層的で、それの説明も階層的であることを経験的に明らかにしてきたが、現在考えられている還元は次のようなものである。
(1)存在するものの間での還元
原子論がこの典型例である。原子の存在が観測されるのは20世紀に入ってからであるが、その仮定的な存在は還元的説明の拠り所となってきた。生命現象を物理現象に還元することは20世紀の成果であった。心と身体の間の還元は今世紀の目標となっている。
(2)理論間での還元
二つの異なる理論の間での還元で、通常は一方を他方に還元する形で行われる。例えば、熱力学の統計力学への還元、メンデル遺伝学の分子遺伝学への還元がその代表例である。その結果、今の私たちは温度が気体の平均運動エネルギーだと知っているし、表現型は遺伝子型の発現であり、遺伝子はDNAの一部であることも知っている。
(3)理論と観察
経験科学は実験や観察をもとにしていることから、理論的概念を経験的なものに還元できるかどうかが問題となってきた。そこでは理論的なものと経験的なものは対立するものとさえ考えられていた。実証主義的な見方では、理論的概念は最終的に経験的なものに還元されるべきものとされてきた。
(4)言語的な還元、翻訳
数学言語とそうでない言語の間での還元がその一例である。さまざまな数のシステムの間での関係、幾何学のシステム間の関係、集合論やカテゴリー論と他の数学理論との関係等が考えられる。自然言語形式言語への翻訳、記号化も盛んに議論され、20世紀の言語哲学の相当部分を占めてきた。推論も形式的に書き直されることによって、コンピューターを通じての自動化が探られてきた。

2. 道具主義:この見解では理論言語は何かについてのものではない。理論的な言明は世界について何かを主張しているのではない。だから、そのような言明は真でも偽でもない。理論は観察できるものについて言明をつくるという目的のための道具に過ぎない。
(理論の構造についての反実在論の見解)
還元主義者と道具主義者が理論的なものについて一致するのは次の点である。
(1) 科学理論は理論的部分と観察的部分に明確に区別ができると考える。
(2) 科学理論の理論的部分を形式的、あるいは解釈されていない記号のシステムと考える。
最初の点は明らかだろう。理論的部分と観察的部分が区別できないと還元ができないし、どの部分が道具であるかがわからないからである。(2)は還元されたり、道具とされたりする部分をどのように考えるかに対する答えである。(2)で言われている記号システムの主要な要素は次のものである。
・記号のリスト(それらは新しい仕方で使われる古い語である。)
・「文法的な」規則:それら記号を結合する仕方を定める。
・幾つかの基本的仮定、あるいは公理
・公理から他の言明を導き出す推論規則
観察的部分は既に存在する観察言語で表現され、理論が適用されるはずの現象を記述する。では、この一致する部分から二つの考えは説明に関してどのように違っているのだろうか。二つの考えは理論的部分と観察的部分を結びつける仕方が異なっている。還元主義的説明によれば、まず理論的言明に観察的意味を指定する「翻訳規則」が理論に補充される。そして、これらの規則によってそれぞれの理論的言明が観察できる世界について何を記述しているかがわかる。一方の道具主義的説明によると、理論的部分は翻訳規則ではなく、形式的な仕組みを観察的な入力言明に適用し、観察的な出力言明をつくる「適用規則」と考えられている。
 反実在論者と同じように、実在論者も理論的用語がどのようにその意味を獲得するかという問題に直面する。新しい理論が既に意味をもっている言語の一部にどのように結びつくか説明しなければならない。だが、この結びつきは翻訳の規則ではありえない。というのも、それでは還元主義になってしまうからである。魅力的な解決は全体論(holism)に頼ることである。全体論では理論的な用語は理論全体の中での役割によって暗黙のうちに定義されると言われる。
(観察できるものの本性についての二つの見解)
 私たちは道具主義者も還元主義者も理論言語と観察言語の間に明確な区別を求めたことを見てきた。だが、幾つかの違いがある。原理上、還元主義の「還元」はあるレベルから次のレベルへという段階ごとの過程であり、理論は段階ごとに還元される。そして、還元される理論は最後の段階でだけ純粋な観察言語からなっていればよい。道具主義はこのような段階的還元を許さない。いずれにしろ、理論的な言明が真でも偽でもないなら、理論と観察の境界は明確でなければならない。言語を使う二つの異なる仕方の間での境界は明確でなければならない。
 では、純粋な観察言語とは何か。それは何を記述するのか。今まで見てきた大半の反実在論者は現象主義者でもあった。彼らは純粋な観察言語は感覚データを記述する言語だと信じていた。だが、別の解答も科学哲学では良く知られている。観察言語は私たちが自分の眼で見ることができる(中間サイズの対象の可視的特徴)日常的な事物を記述すると考えることができる。だから、純粋な観察言語が何についてのものかに関して二つの主要な見解があることになる。現象主義的見解と中間サイズの対象という見解の二つである。後で見るように、二つの見解はともに重大な困難をもっている。経験論者はすべての基礎として純粋な観察言語があるという主張を推し進めるが、その主張はうまく働いてくれない。

3反実在論批判
 ここではこれまで述べてきた反実在論の見解を受け入れることができない理由を考察してみよう。特に、反実在論者が要求する純粋な観察言語が存在するかどうかを考えてみよう。ラッセルの還元主義と、経験論が依拠する帰納法が考察の対象である。経験論は反実在論を要求するが、その反実在論は保持できる立場ではないことが結論となる。
ラッセルの還元主義的試み)
 観察から何を学ぶことができるのか。ラッセルは直接的な感覚データ以外には何も学ぶことができないと考える。物理世界に想定されている内容はそれら感覚的なものとは一見非常に異なっている。分子は色をもっていなし、原子は音を立てず、何の味もない。それらが検出されるには、感覚データと結びついていなければならない。両者に相関する関係だけから検出されなければならない。だが,このような相関はどのように確かめることができるのか。感覚データと対象との相関は決して検証できないように思われる。では、ラッセルはどのように考えたのか。
 ラッセルは感覚データについて次のように考える。感覚データがデータである間はそれらがそこにあることを知ることができる。これが外部の個別的な対象についての認識論的な基礎である。感覚データだったものがそうでなくなるとき、それが存在し続けるかどうかはわからない。感覚データがデータであるとき、それらは私たちが直接に外部世界について知るすべてである。だから、それらがデータであることが認識論にとって重要となる。
(感覚可能なもの(Sensibilia)と対象の構成)
 ラッセルによれば、感覚可能なものは感覚データと同じ形而上学的、物理学的身分をもち、私たちにとって今はデータではないが、データになることが可能なものである。感覚可能なものが感覚データに対してもつ関係は、女性の妻に対する関係のようなものである。女性は結婚することによって妻となる。同じように、感覚可能なものは私たちが経験することを通じて感覚データになる。
 すべての感覚データは感覚可能なものである。すべての感覚可能なものが感覚データかどうかは形而上学的な問いであり、感覚データからそうでない感覚可能なものを推論する手立てがあるかどうかは認識論的な問いである。
 ラッセルは対象をその現象の束によって定義しようとする。事物はその外観のどれか一つと同じとみなすことはできないので、外観のすべて、外観の背後のすべてとは異なるものと考えられるが、オッカムの剃刀によって、事物とその外観のクラスを同一視しなければならない。
 推論による構成の代わりになるのは感覚データによってすべてをつくりだすことだが、これに単一の人の感覚データという条件を加えることができる。というのも、他人の感覚データは推論なしには知ることができないからである。つまり、現象主義を厳密に考えれば、それは最後には独我論を帰結する。これは私たちには受け入れることのできない立場である。
(観察言語の必要性:帰納主義と科学の進歩)
 帰納主義は(17世紀以来)科学によって用いられてきた基本的方法についての見解であり、科学の研究は次の二段階で進行すると主張する。

1. 観察データの収集
2. データに基づく一般化の定式

 この一般化は「帰納的方法」と呼ばれていた。データを集め、記述する過程が理論に先行し、それゆえ、帰納的方法はそれによってつくり出される理論からは独立している。データを記述するのに使われる言語は(それを使ってつくり出される)理論に依存できない。だから、帰納主義はデータを表現する観察言語を独立に必要とする。
 科学史の中で、古い理論に代わって新しい理論が登場するのは稀ではない。私たちはこの過程の中に客観的な意味で進歩があると思いたくなる。例えば、科学は一歩一歩真理に近づいていると思いたくなる。だが、そのように言えるためには理論が互いに比較できることが必要である。一方、異なる理論は異なる言語を使っている。このことは理論間の比較は異なる言語で書かれた主張を比較することを意味している。
 理論を比較するには観察できる事柄についてそれらが何を言っているか比較する必要がある。しかし、そのためには観察できる事柄を、比較される理論のいずれにも依存しない、中立的な言語によって記述できることが必要である。この理由から、科学は真に進歩しているという見解を擁護するには、進歩を測るために理論から中立の観察言語が必要だとしばしば考えられてきた。
(ハンソン(Norwood Russell Hanson, 1924-1967):観察の理論依存性)
 ハンソンの観察に関する見解は理論負荷性という概念に基づいて述べることができる。
・科学では理論的な信念によって条件付けられた観察(知覚)しか存在しない。純粋な、あるいは理論を一切仮定しない知覚など存在しない。これは経験論の伝統的仮定の一つと対立する。つまり、私たちが頼る基本データは原初的な経験によって直接与えられるという仮定と対立する。知覚は生の感覚ではなく、学習の結果(知識)を使った判断である。
・科学的な理論化は「見ることの新しい仕方」の展開として考えられるべきである。理論は世界を観察する、記述する仕方の中に暗黙のうちに、不可分に含まれている。
観察が理論負荷的であることから、帰納主義は問題を抱えることになる。帰納的方法が使えるためには観察は理論から独立していなければならなかった。だが、観察は理論に先立つことができない。というのも、観察は理論的な概念によって実行され、記述されるからである。また、競合する理論を比較するための共通の基盤もないことになり、単純に理論間の比較ができなくなる。さらに、科学は新しい理論が古いものに置き代わることによって進歩するという考えも問題を抱えることになる。科学に純粋に観察的な部分があるとすれば、反実在論者もその部分については実在論をとる。
*ここで議論されている反実在論は観念論ではない。デカルトは知覚経験を疑ったが、ヒュームはそれを疑いはしなかった。だから、ここで議論されている反実在論はヒューム的である。しかし、他の文脈では反実在論に観念論が含まれる場合が多い。
 理論言語が(反実在論者が主張するように)文字通りに受け取ることができないなら、科学のどの部分も文字通りに受け取ることができない。これは反実在論を不合理にしてしまう。
 このような厄介な問題に対して帰納主義者はどのように対処したらよいのか。まず、帰納主義者は知識の「発見の過程(文脈)」を知識の「正当化の過程(文脈)」から区別し、正当化に関しては彼らが誤っていると認めることができる。これは帰納が正当化に使えないと表明することである。また、理論を比較するのに共通の基盤が必要なのだろうか。あるいは、古い理論はそれ自体で誤り、新しい理論もそれ自体で正しいと言える場合を見つけるだけで十分ではないのか。理論は自己評価だけで進歩できないのか。実際、私たちがみな共有する理論があると仮定してみよう。多分、それは生物進化や社会進化によって私たちに植え付けられた、私たちの遠い祖先から受け継がれた「常識的理論(folk theory)」だろう。だが、これは反実在論に中間サイズの対象のための基盤を与えるだろうか。

(問)発見の過程と正当化の過程が異なることを使って、なぜ性比が1:1かを二通りの仕方で説明してみよ。