変化の経験-科学における経験と実在(3)

(意味の問題)
 ここまでの歴史的な説明では経験論が形而上学に対して与える制約は知識の問題であった。経験論の主張を文字通りに考えるなら、観察可能なものを超えて実在について述べようとすると、それは正当化できない、それゆえ、形而上学の目標は達成できない、ということになる。
 だが、ヒュームでは形而上学への異なる種類の制約が重要となってくる。それが意味の問題である。単語が感覚経験と結びつくことによってその意味を獲得するのであれば、経験を超えて何かを指示しようとする単語は無意味なように見える。(例えば、「正当化できない」と「無意味である」の間の違いを問われ、経験的データだけを使って答えろと言われたらどうするか。) 形而上学への制約としての意味の問題は経験論の展開の中で次第に重要さを増していく。
(マッハ (Ernst Mach, 1838-1916):道具主義
 物理学での反実在論者マッハはニュートン物理学に経験的に納得できる哲学的基礎を与えたかった。そこで、物理学から形而上学的ドグマを取り除き、観察できるものに基づいて物理学を再建しようとした。彼の見解の要点は次のように述べることができる。

・ 物理学は形而上学ではない。観察可能な現象の背後にある実在を記述しようとするのが形而上学であるが、それは物理学の役目ではない。
・ マッハは物理学について道具主義を主張する。彼は科学理論を感覚的な現象を組織化し、予測するための形式的な道具、装置と見た。科学はこの組織化の経済の中にあり、科学の中で物理学が基礎的なのはそれがもっとも経済的だからである。
・ 同一の現象に適用できる別の理論がある場合、その選択基準はいずれが正しいかではなく、いずれが有用かである。

(問)道具主義が正しいとすると、理論は何も表象しないのだろうか。

ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970):論理的構成と推論された対象)
 『数学原理(Principia Mathematica)』(Russell and Whitehead,1910)の試みは、数学の真理は論理的な真理であることを示すことにあった(例えば、数は論理的な構成に還元できる)。1912年にラッセルは同じ考えを物理学と感覚データ(sense-data)の間の関係に適用しようとした。物理学に関して、その対象を推論されたものと考えるより、論理的構成によるものと考えるほうが適切である、と彼は言う。というのも、推論される物理的対象は経験的な証拠を超えてしまうからである。物理学が感覚的現象を超えて何か語ろうとすれば、それは疑念を含むものとなる。彼は物理的対象についての話を感覚データについての話に翻訳できることを示そうとした。多くの点でラッセルはバークリーがしようとしたことをより精緻な仕方でやり直そうとした。物理的対象についての話は感覚的現象についてのものであることを洗練させようとした。一方、マッハとラッセルには重要な違いがある。道具主義者のマッハにとって科学理論は真でも偽でもない。だが、ラッセルには科学理論は感覚的現象についてのものであり、それゆえ、理論は真か偽である。

(問)科学理論は何かの表象装置だと考えたとき、科学理論が表象装置である(道具主義)ことと実在を表象する装置(道具主義実在論)であることとは両立するだろうか。

実証主義
 経験論の諸結果を真剣に捉えようとした哲学的立場のもっとも洗練された形が実証主義と呼ばれる運動である。1920-30年代がその流行期だった。実証主義という語は適用に僅かだが混乱がある。既述の哲学者には通常適用されない。だが、彼らの考えは実証主義と多くの点で共通している。ヒュームは初期の実証主義者と言ってもよいだろう。マッハも実証主義者である。だが、この語はその歴史的、地理的起源を重視して使われる。「実証主義」は1830年代のフランスでコント(Auguste Comte, 1798-1857)によって使われ、論理実証主義者と自らを呼ぶ1920-30年代のドイツ、オーストリアの哲学者のグループによって広く流布されることになった。このグループは20世紀中葉の経験論的な哲学者に大きな影響を与えた。こうして、現在では実証主義という語は、経験論とその帰結を真剣に捉える試みを意味することになった。
 ハッキング(Ian Hacking)は実証主義の特徴として次のものを挙げている。

1. 検証主義(Verificationism):有意味な命題は観察によってその真偽が決められる。
2. 観察の優先:見て、感じて、触ることができるものが私たちの数学的でない知識すべての最善の内容や基礎を与えてくれる。
3. 原因の否定:自然の中に因果性はなく、ある種類の出来事の後に別の種類の出来事が続くという一様性、恒常性以上のものはない。
4. 説明の軽視:科学的説明は「なぜ」という問いに答えない。現象が規則的に起こるというだけである。(「なぜ」という問いに対する説明が必要なら、真の原因があるという考えに頼らなければならないだろう。出来事はその原因によって説明される。原因なしの説明は単なる記述である。)
5. 理論的存在の否定:実証主義者は反実在論者である。
6. 形而上学の否定:上の1から5までをまとめると反形而上学が帰結する。

(問)実証主義の原因の否定、説明の軽視と前章で述べた科学的説明の三つの見解を比較し、どの見解が実証主義的か述べよ。

実証主義の歴史:論理実証主義ウィーン学団
 ウィーン学団はそれまでの哲学研究を科学主義的に編成し直すことを彼らの運動の目的にしていた。彼らが主張していた論理実証主義の内容をまとめるならば、次のようになるだろう。

・ 科学的な方法と精神で哲学を再構成しようという近代化の試みであった。
フレーゲによる新しい論理学の知識を適用することによって、経験論によって出されていた問題を解こうとした。特に、カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970)は物理学が現象主義的基礎の上に成立できることを示そうとした。(最後に彼はこれをあきらめる。)
・ 意味の検証原理「言明の意味はその検証の方法である」を使って言明を分析した。論理実証主義者はこの原理を適用して多くの伝統的な形而上学を「無意味なもの」として排除しようとした。

このような極端な哲学的主張は当然ながら多くの問題を孕んでいる。意味の検証原理に対して、次のような問題がすぐに出された。

(i) 言明の中には有意味だが、検証できないものがある。例えば、「この場所には大学は決してつくられないだろう」という未来形の文、「人類はアフリカで誕生した」という過去形の文はどのように検証できるのか。
(ii) 意味の検証原理自体は検証できるのか。それは有意味なのか。

(問)上の(ii)について、意味の検証原理は検証できないことを説明せよ。

 彼らはまた分析的、総合的の区別をし直すことによって知識を整理しようとした。彼らによれば、分析的真理は意味がわかるだけで真であることがわかる。そうでない真理が総合的真理である。論理実証主義者にとって、すべての総合的真理はアポステリオリである。つまり、それらは観察を通じてのみ得ることができる。(したがって、カントの総合的でアプリオリな真理は否定される。) 有意味な言明はそれぞれ可能な観察の集合と結びついている。つまり、それらは検証されると見なされるような状況と結びついている。

アプリオリ、アポステリオリ、分析的、そして総合的
トートロジーと分析的な文]
 トートロジーはいつでも真の文のことであった。「今日は晴れているか,あるいは晴れていないかである」という文は「今日は晴れている」と「今日は晴れていない」が「あるいは」という接続詞で結ばれており、「PあるいはPでない」という形をしている。この文は有用な情報を何も伝えてくれないが、誤ってはいない。それどころかいつでも(つまらない意味で)真である。そのような文を聞いても誰も知識や情報を得たとは思わない。このようにその論理的な形だけから真になる文には「PかつPでないことはない」や「Pならば、P」がある。このようないつでも真である文は狭い意味でのトートロジーであり、それは論理的にいつでも真という性質をもっている。
 いつでも真になる文には,例えば「どんな独身者も結婚していない」という文がある。この文は狭い意味のトートロジーではない。単なる同語反復ではなく、何がしかの情報を含んでいるように見える。しかし、独身と結婚していないことが同義であることを思い出すなら、同じものを代入しても結果は同じであるという原則にしたがって、「どんな独身者も独身である」というトートロジーが得られる。このような広義のトートロジーは哲学では分析的な文と呼ばれ、独身という語を結婚していないことと定義することによって、「独身=結婚していない」ことが成立し、したがって、その定義だけから「どんな独身者も結婚していない」が真になるような文を意味している。そして,分析的でない文は総合的な文と呼ばれている。定義だけからいつでも真になる文が分析的,つまりは広義のトートロジーである。
[総合的、アプリオリ、アポステリオリ]
 ところで、トートロジーや分析的な文は実際に実験や観察によって確かめる必要なく真であることから、私たちの経験に頼って真偽を決める必要がない。一方、分析的でない総合的な文、例えば「日本の次の首相はAである」は普通の人には予め確信をもってその真偽を言うことができない。そこで、分析的な文の真偽のように経験の介在を必要とせずにその真偽がわかる文の内容をアプリオリな知識、総合的な文の真偽のように経験を必要とする文の内容をアポステリオリな知識と区別することになった。これは分析的,総合的が言語レベルでの区別であったのに対し、私たちがどのように知識を獲得するかという認識レベルでの区別になっている。
 さらに、トートロジーや分析的な文はいつでも真であり,その内容は必然性をもっているように見えるが、総合的な文の内容は偶然的で、世界の状況に応じて真偽が変わるように見える。そこで、文の形式的な区別から文が指示する事態が必然的,偶然的と分けられることになる。いつでも必ず真である事態が必然的、そうでない事態が偶然的であり、これは存在レベルの分類である。
 こうして、分析的-総合的、アプリオリ-アポステリオリ、必然的-偶然的という関連する区別が考えられることになる。分析的=アプリオリ=必然的、総合的=アポステリオリ=偶然的という等式が成立すれば、すべてはすっきりしていて、問題は生じない。しかし、密接な対応関係はあるがそれらが微妙に一致しない点に問題が出てくる。

(問)2 + 3 = 5と力学の第二法則f = maについて、分析的-総合的、アプリオリ-アポステリオリ、必然的-偶然的のいずれに分類されるか考えよ。

[カントと数学的命題]
 カントはアプリオリな真理が二つの領域に見出されると考えた。その領域とは数学と経験を組織化するカテゴリーとの二つである。そして、アプリオリな真理をさらに総合的、分析的の二つのカテゴリーに分ける。伝統的には数学的命題は分析的でアプリオリとみなされてきた。しかし、カントは数学とカテゴリーの両方とも総合的でアプリオリと分類した。数学の命題が総合的でアプリオリなのはそれが時間と空間の直観に依存するからである。また、カテゴリーが総合的でアプリオリなのはそれらの否定が矛盾を引き起こさないからである。以下、それぞれの代表例であるユークリッド幾何学と因果的な決定論がカントの言うようにアプリオリかどうか考えてみよう。
 ある文Hが定義上真で、経験的な証拠なしに正当化できる、つまりアプリオリであることをどのように示したらよいのだろうか。どのような観察も文Hを反証できないように見える場合、通常は最初から文Hが真にアプリオリとは考えないで、私たちの想像力が欠けていて適切な経験的証拠を見出せないと考えるのではないか。例えば、「時間に向きがある」あるいは「過去から未来への時間的な変化があり、その逆はない」という文についての物理学的な証拠は見出しにくい。しかし、時間の向きについて考えている物理学者は時間の向きがアプリオリであるとは思っておらず、単に自分の想像力が欠けているため解決できないと考えているだろう。そのような物理学者は次のような工夫をするのではないか。文Hだけではなく、文Hと他の経験的な文の集まりを使って、文Hだけからは導き出せないような経験的な文が得られ、それが文Hと違う内容を主張していたとすれば、文Hの真偽の判定に参考になり、そこから文Hが経験的な主張でないということが何を意味しているかわかる。この工夫をカントの場合に使ってみよう。
 既述のように、カントはユークリッド幾何学と因果的な決定論アプリオリに真だと考え、どのような観察も二つの反証にはならないと信じていた。そのカントの時代に既に非ユークリッド幾何学が模索されていた。しかし、今世紀ユークリッド幾何学相対性理論と結びつくと、誤った予測をすることが発見された。因果決定論も同様に、それが量子力学と結びつくと誤った予測を生み出してしまうことがわかった。上のHはここではユークリッド幾何学,あるいは因果的な決定論である。Hが誤りを生み出す理由は相対性理論量子力学の理論(これらは経験的な主張である)にある。実際、相対性理論では非ユークリッド幾何学が、量子力学では非決定論が成立しており、Hとは異なる内容を主張している。異なるだけでなく、ユークリッド幾何学相対性理論、因果的決定論量子力学は両立しない。相対性理論量子力学を正しいとする限り、ユークリッド幾何学決定論もアポステリオリに偽であることになる。