実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(2)

 だが、ウィルフリッド・セラーズ(Wilfrid Sellers 1912~1989)が「所与の神話(myth of the given)」論によってそれをあっさり否定してしまった。セラーズは、感覚所与(つまり、センスデータ)の信頼性とは次の二つを混同させることによって、でっち上げた幻に過ぎないと主張した。
(1)ある感覚によって印象を持つこと
(2)どう感じるかについて命題で表現できる知識を得ること
 (1)は確かに直接的に現前し、感覚質として与えられるものだが、これはまだ知識や認識と言えるものにはなっていない。その現前が何ものであるかを認識するためにはそれを命題として表現し理解する作業が必要である。(2)は確かに知識あるいは認識である。しかし、直接的な現前とは違い、言語的に表現される命題である。それゆえ、(1)と(2)の間には言語と感覚という越えがたい断絶があることになる。  
  Aを「赤い」と言うとき、Aは(1)の意味で現前そのものである。それを「赤い」と言うのであれば、それはそのとき(2)の意味で知識化・認識化されている。これを正当化不要な直接的な認識としたのがセンスデータ論であったのだが、セラーズはそこに、意味付けのための<無限の断絶>を飛び越える飛躍が潜んでいることを指摘し、それが、感覚的な現前そのもののレベルと言語的な認識のレベルを混乱させた中での単なるでっち上げに過ぎないと主張したのである。セラーずに従えば、Aが「赤」だと言うとき、それは「正当化」を必要としないどころか、解釈ルールを密輸入させてしまっているのであり、勝手に正当化が不要だと決めつけただけのことになる。「他の信念を正当化できるのに、自分は正当化不要なセンスデータ」などというものは、自分に都合のいいでっち上げに過ぎない。だから、センスデータをもって基礎付け主義の基礎とすることはできない。それゆえ、セラーずによれば、内在主義的基礎付け主義は否定される。
 セラーズの主張を詳しく見てみよう。感覚質を所与とする内在主義によれば、「もっとも基礎的な信念(命題知)は、信念(命題知)ではない認知状態によって正当化される」という主張である。たとえば、「これは赤い」は、ある知覚によって正当化される。しかし、感覚や知覚によって命題を正当化するということに対する批判が、セラーズが「所与の神話」と名づけた批判で、上に述べた通りである。くどいようだが、再言すれば、

(1)特定の対象からやってくる光や音を感覚すること、つまり感覚印象をもつこと、
(2)どう見えるかについての命題的内容をもつ知識を非推論的な仕方でもつこと、

だった。 直観や直接の気づきという認知状態が、命題的内容をもち判断的なものだとすると、たしかに他の認知状態を正当化することができるが、自分自身も正当化を必要とする。逆に、そうした認知状態が命題的内容をもたず非判断的で感覚的なものだとすると、こんどは正当化を必要としなくなるが、その代わりに他の認知状態を正当化することもできなくなってしまう。
 このような議論は「感覚そのもの」と「感覚内容の表現」の違いが根本的に異なるものだという常識に基づいている。このような違いは「所与の神話」だけでなく、あちこちに見られる珍しくない事態である。例えば、感覚質を主にした情報が知識の基礎づけに役立たないということは、機能主義に基づく、言語的な知識が感覚質を説明できないということを含意する。これは(1)と(2)の断絶の一側面である。つまり、心に関するハードプロブレムは通常の科学では解けないという主張は「所与の神話」を別の側面から述べたものになっている。
 直接経験と知識の間には歩道橋がないように見える。セラーズは(1)と(2)の区別に何の疑問ももたないし、心身の一元論批判や主観性の擁護でもこの二つの区別が最初から想定されてきた。だが、道路の左側と右側のように二つの区別は明白に違うのだろうか。
 感覚と感覚の表現の間に二つをつなぐ歩道橋はないとしても、道路の両側は通常なら見通せるので、片側から他方を観察することはできる筈である。両側を調節することは歩道橋がなくてもできる。さらに、歩道橋がなくても、あたかもそれがあるかのようにできることは可能である。常に歩道橋が必要ではなく、時々歩道橋が渡れるなら十分。その例には次のようなものが考えられる。
<絵画による相互乗り入れ的な表現>
 描写、写生、リアリズム、あるいは表象、表現といった謂い回しの中に、感覚と描写、時には説明の「重ね合わせ」が見て取れる。画家だけでなく、鑑賞者もそれぞれがもつ経験や知識を駆使して鑑賞している。画家は描く対象を様々な手法、技を使って、それらを重ね合わせて描くという経験をしている。画家は自分が見たもの、感じたものをキャンバスの上に直接置くのではなく、自らの知識・技術を駆使して意図的に(描きたいものを)描き出そうとする。感覚レベルの刺激に対して、学習によって得られた感受性をその刺激に対して働かせ、具体的な画像を生み出す。
 さて、このようなその一連の「描く」作業で(1)と(2)が断絶していたのでは画家は仕事ができない。感覚的な内容を絵画として描くには(1)と(2)の連携が不可欠である。「所与の神話」こそ実は机上の神話に過ぎなく、感覚的な所与は画家の経験や知識、技能によって絵画という文法を通じてキャンバスに表現されるのである。
 絵画、彫刻、写真等の美術は幾重もの重ね描き、描き分けが行われている。私たちが感覚表象と科学知識を重ね合わせて世界を表象しているが、基本的にはそれと同じものである。だが、美術の場合はより先鋭、繊細で、そのための学習、つまり、重ね合わせの技の習得は決して簡単ではない。知覚像の合成、総合は知識と感覚、勘と技の統合であり、絵画美術の場合は画家独自の画像がその結果表明となる。
 ところで、「重ね合わせ」が可能ということは、「付随」可能ということでもある。重ね合わせは付随性がルーズな仕方で成り立っていることを示している。(2)は(1)に付随する、つまり、(1)を基礎にして、それに違反しない仕方で(1)の内容が表現され、言語化される。言語で表現するとは、現象に付随させ、現象に従わせるということである。勿論、私たちの言語表現は付随させることに止まらない。付随など単なる記述に過ぎなく、真に創造的なのは現象に付随しない、創発的なものだという自負が文学にはある。
<今後のスケッチ>
 絵画の例はほんの一例に過ぎないが、結局のところ、(1)と(2)の峻別ができるかどうかという問題は限りなく擬似的な問題だということが明らかになるだろう。二つの区別が本当にできるかどうかは問題ではない。実際にはそのような「あれかこれか」型の解答ではなく、ある時には区別ができ、別の時には区別できないというのが正解。つまり、解答は文脈依存的で、相対的なものであり、その上、個人差のあるものである。
 感覚経験とその表現の間にはどのような関係があるかについては、特に言語表現との関係が注目される。絵画について述べたように、(1)と(2)の重ね合わせは学習することによって蓄積され、「経験」という言葉でまとめられる内容を形成していく。つまり、「重ね合わせの学習=経験の形成」であり、重ね合わせることが経験することなのである。私たち人間が進化の途上で言語を獲得したことは、言語的でない感覚情報を言語的に表現することが「適応」であったからである。つまり、(1)と(2)の関係は進化上の適応関係として重ね合されているのである。
 普遍文法(universal grammar)はカントの悟性のカテゴリ-とほぼ同じ役割を果たすものだが、悟性のカテゴリーは遺伝的というより、学習によってできあがるものである。感覚的なデータは刺激であり、その刺激が学習によって経験へと変わる。新生児に「経験」はない。内容のない経験はなく、経験が内容をもつには学習が必要となる。恐らく、外部刺激に対する最低限の反応は遺伝的に組み込まれているが、環境への学習の遺伝が働きだし、それによって経験内容が経験と記憶の組み合わせによってつくられる。「経験」が有意義なものになることが生きることの実践であり、経験が記憶され、学習対象となり、知識と感覚のすり合わせ、重ね合わせがなされ、(1)と(2)は見事に調和されてつながることになる。

 所与とは感覚知覚に与えられたもの、所与とは実在として与えられたものと見做すなら、それぞれ感覚知覚的所与、形而上学的(存在論的)所与と呼ぶことができるだろう。そして、それらを表現するのが言語、知識であるが、言語や知識による表現内容は性質として解釈されてきた。アリストテレスの形相と質料という区別は、存在論的な所与である質料と言語によって表現される形相(性質)の区別である。ロックやヒュームの第一性質と第二性質の区別は性質と感覚質の間の区別になっている。私たちは言語、知識を通じて、自らの感覚経験、実体と呼ばれてきた対象に繋がってきたのだが、表現し切れるか否かがずっと論じられ、そこにはギャップがあるというのがこれまでの暫定的な結論と言ってもいいだろう。