感覚と知識の見直し(1)

 当たり前のことだが、どの動物も精巧に進化した感覚器官をもち、必要な感覚刺激を(所与として)受け取り、同じように進化した運動器官を巧みに連動させることによって生きている。感覚器官と運動器官を駆使した生き様は見事で、驚嘆するしかない。感覚知覚による反応は、現実に即して、現実の一部をそのまま刺激として切り取り、それに直接的に反応することであり、言葉を使い、論理的に考えるという現実離れを必要とするやり方とは随分と異なっている。この違いを感性と理性の違いだなどと割り切ってしまうのが過去の伝統的な捉え方だった。それをまとめれば、動物は感覚、人間は言葉と表現されてきた。
 このように言い切られると、私たちはつい成程と思ってしまう。確かに、直感的、理性的といったような対照化、二分化がこれまでの理解の仕方で、動植物と私たち人間を分けるのに重宝されてきた。この習慣化した視点は確かに哲学や思想で伝統的と謂われてきた特徴だが、正しい視点とは到底言い難いのである。「現実に密着する」ことや「現実から離れる」ことは比喩的であり、その曖昧な区別はその他の対をなす表現にもそのまま伝染していると考えていいだろう。例えば、実在論と観念論、現実主義と理想主義、具体と抽象といった哲学的な対立として表現されてきた。そのきっかけとなり、原点にあるのが知覚と言語からなる二本立ての知識論である。
 知識をつかって感覚を研ぎ澄ます、感覚を使って知識を増やす、このようなことが進化の途上で蓄積されてきた。感覚や運動の器官が連携し、構造化された知識(=器官)として凝縮していった。それは言語化とは違うやり方による適応なのだが、言語化に比べて劣ったものどころか、遥かに優れていた。人間以外の動物は研ぎ澄まされた感覚器官を進化させたのであり、言語を採用したのは人間だけだったのである。街中を躍動するサル、イノシシ、ネコ、イヌらを捕まえることができる人などまずいない。人間が言語を採用したのは適応ゲームに敗れたためかも知れない。

 プラトンの対話編『テアイテトス』はプラトン中期の作品で、感覚と知識の関係が主題となっている。「知識と感覚は同じものであり、それゆえ個々の人間の感覚の相違に応じて様々な知識がある」と主張するプロタゴラスを反駁するのが目的だった。そして、その反駁を通じて、知識は感覚によってではなく、精神によって捉えられるのであり、感覚によって得られる仮象とは対照的に、知識によってもたらされるものは客観的な存在であることを論証しようとした。この客観的な存在がプラトンの思想の中で重みを増し、ついには「イデア」として実体化されることになる。
 テアイテトスが老いたソクラテスと知識について語るというのが設定。自分は産婆のように手助けするものだと述べた上で、ソクラテスはテアイテトスに向かって、「知識は何なのか」と問いかけることから対話を始める。テアイテトスは知識は感覚にほかならないと答える。すぐさまソクラテスは、テアイテトスのこの考えはプロタゴラスの説そのものだと喝破し、「人間は万物の尺度である」という説と同一の内容だと主張する。だが、この考えを前提にすると色々と不都合なことが生ずる、とソクラテスは言う。
 動物でも感覚するから、プロタゴラスはそれらの動物も万物の尺度として認めなければならない。夢を見ているときや酔っ払っているときにも人は感覚があるから、それらも尺度として認めなければならない。もしどの人の判断も、他の人の判断と同様に正しいのだとしたら、プロタゴラスは誤っていると判断する人々も、プロタゴラスと同様に正しいということになる。これらの議論は突き詰めれば、感覚を知識とする立場からは、多くの人が納得できるような知識は生まれず、したがって人びとは知識に頼って行動することができないことになる。
 では、知識や真理とは何なのか、ソクラテスは改めて問いかける。感覚は対象について個々具体的な情報をとらえているように見えるが、それら情報は単なる仮象であって、対象そのもの、物自体、つまり存在ではない。私たちはある対象について、それが白いとか、やわらかいとか、甘いとか個別的な感覚を持つことはできるが、それらの諸感覚が同一の対象の様々に異なったあり方だということについては、感覚からだけでは知ることができない。対象の存在を把握するには感覚を超えた精神の働きによって可能になる。プラトンによれば、感覚ではとらえられない理念的な対象があり、しかもそれは客観性を持ち、真理なのである。

 感性と理性という区別は今でもよく使われている。感覚され、それが情報として処理され、知識としてまとめられる、といったカント風の認識概念が情報科学認知科学でもおおむね認められてきた。だが、これは情報処理の時間的な変化の順序であって、この因果的な順序は感性と理性の優先順位とは何ら関係がない。感性は理性を含み、理性は感性を含むというのが正しく、感性と理性という語彙は正しい根拠をもっていないのである。アリストテレスは「人間は理性的動物だ」と言ったが、「動物は感性的人間だ」というべきなのかも知れない。感覚が生得的であることに誰も異を唱えなくても、チョムスキーのように言語が生得的だと言えば今でも違和感をもつ人が多いのである。

 感覚も知識もそれを駆使しようとすれば、状況依存的なコツや技が肝心な事柄になってくる。日常では感覚と知識が一体化している。感覚知、知的感覚といった表現はレトリックではなく、それこそが実際の姿なのである。感覚所与、センス・データ、直接与件といった過去の概念は極めて理想化された、実際は誤った概念に過ぎない。棋士が理性的だけでなく、限られた時間内で反応すること、格闘家が瞬時に相手をやつけること、いずれもしっかりした知識や技能に基づく感覚的な反応である。コツや技は感覚器官に内在するだけでなく、学習によってさらに研ぎ澄まされていく。感覚刺激の処理とその学習によって、「知識の感覚化」、「感覚の知識化」が状況に応じてそれぞれ実現される。感覚と言葉は互いにつながり合い、融合し合っている。