知識、情報、そして文脈(1)

1知識と情報
 「知識(knowledge)」という言葉は意味深で、実に曖昧。「知識」という名詞が使われるとき、「知る(know)内容」と「知り方」の両方を指しているようである。認識論では「知識とは正当化された真なる信念」と定義されてきた。では、誤った知識はないのか、という疑問がすぐに頭に浮かぶ。何かが不自然だと感じる向きは、きっとデカルト的な知識概念が残っているからだと推量する。認識という観点からは、「知る」とは「気づく」ことであり、「気づく」ことは「意識する」ことであると考えられてきた。知る内容は真なる信念であり、知り方は観念を駆使した何かの気づきである。信念が真であることは、デカルトの場合、明晰判明な観念によって保証されている。このデカルト路線は「知る」ことの基本と信じられてきた。
 この観念論的な特徴づけに経験主義的要素を加味すると、「正当化された」という言い回しが具体化されることになる。正当化するには経験的な手続きが必要であり、正当化が知識には必要だという主張は正に経験主義の主張となる。その経験主義的な知識論のエッセンスを具体的に実行するのに不可欠なものとして採用されたのが「情報」概念。経験主義的な知識を「情報」という用語で表現したと考えると、すべてはすっきり解決するかのように思えてしまう。情報とは具体的な正当化がなされた知識のこと、情報とは外在化された知識内容のこと。それゆえ、デカルト的ではないイギリス経験論での知識は実は情報のことだと考えると筋が通るように思われ、これで一件落着となりそうである。
 だが、話はそう簡単ではない。デカルト派が知識、反デカルト派が情報という単純な区別ですべてに決着がつく訳ではないのである。その辺の事情を少々丁寧に振り返ってみよう。
<知識と情報は同じ、それとも違う?>
 「知識とは何か」を知るには認識論を、「情報とは何か」を知るには情報理論を学ぶというのが定番のやり方。では、知識と情報はどのように重なり合い、どのように異なっているのか。わかっているようでありながら、考え出すといつの間にか迷路に入ってしまう問題である。だが、二つの用語の使い分けがある程度できているためか、それぞれの語の誤用については相当に敏感である。次のような文について考えてみよう。

・彼の物理学の知識は豊富なものだが、最近の物理学者の人間関係の情報は信用できない。
・ビジネスの成功には十分な情報が不可欠だが、経済学の知識は必ずしも必要ではない。
・試験で高い点数を取るには知識が不可欠だが、試験問題の作成者の情報は重要ではない。
・安全な漁には気象学の知識より、気象予報の情報が必要である。

これら例文を読めば、明瞭に基準を述べることができなくても、基準があることが仄見えてくるのではないか。各文の「知識」と「情報」を入れ替えてみると、何かがおかしいとすぐに感じるだろう。そのおかしさの感じは、「数学の情報と、新聞や週刊誌の知識」という表現にある。だが、この表現を「数学の情報」と「新聞や週刊誌の知識」との二つに分けると、そのおかしさは四散する。この不思議で微妙な違いを誰もが認めるだろうが、その違いを明示的にするにはどうしたらよいのか、それを探るのがここでの私の目的。
 ところで、知識には信念と真理が必要とされている。つまり、信念と真理は知識にとっての必要条件。では、それらは十分条件か。この問いに対して次のような説を考えてみよう。それは知識についての「正当化された真なる信念」説である。この説の主張を具体的に述べれば次のようになる。

どのような個人S 、命題pについても、「S がpを知る」とは次のことと同じである。
・ Spを信じる。
・ pは真である。
・ Spを信じる正当な理由をもつ。

 さて、「正当化された真なる信念」説は正しいだろうか。この説が正しければ、正当化された信念と真理は知識の必要十分条件ということになり、私たちが常識的に考えている知識概念が得られる。知識が単に信念や思いつきでないのは、それが正当化されている、証拠をもっている、理由をもっているからであると言われてきた。この伝統的な見解はプラトンの『テアエテトス』やカントの『純粋理性批判』において述べられ、「知識とは正当化された真なる信念である」と要約されてきた。(この伝統的見解に対し、正当化された真なる信念であっても知識とは呼べない場合があり、したがって、知識の伝統的な分析は誤っていることを示したのがゲチア(Edmund Gettier, 1927-)。 (“Is Justified True Belief Knowledge?”, Analysis, 1963, Vol.23, pp.121-23) )
 以上で復習は終わり。次はデカルトの基礎付け主義(foundationalism)の話。アリストテレスに始まる基礎付け主義は知識全体を建物の基礎とその上の階層的な構造の比喩で捉える。あらゆる知識は疑い得ない基礎となる知識をもとに組織的に構成されていなければならない。知識が基礎付けられていなければ、それは疑い得ることになる。デカルトは「方法論的懐疑」で有名であるが、その目的は懐疑論の克服。彼は懐疑をすべての対象に適用し、懐疑テストにかけた。そのテストの結果、経験的な信念だけでなく、理性的なもの、例えば数学的命題も疑い得ることになり、いずれも懐疑テストをパスしないことがわかった。しかし、そのような懐疑テストをパスするものが一つだけあった。「私が考えていることを私が疑う」ことを私は疑うことができない。私は「私が考えている」という命題を信じ、しかしそれは誤っているという可能世界を考えることができない。だから、「私が考えている」という命題は懐疑テストをパスする。したがって、その命題を疑うという試みはそれが真であるに違いないことを証明する。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり」(Cogito ergo sum.)である。
 デカルトの論証を理解するために、心的なものの訂正不可能性のテーゼを次の推論を通じて考えてみよう。

私の前に黒板がある
私の前に黒板があると私は信じる
私がそれを信じるなら、私がその信念を持つことは正しいに違いない。

デカルトの知識の基礎についての目論見には、「私が考える」、「私が存在する」を含む「私」に見える世界についての一人称の報告が含まれている。主体の経験内容は主体の心の外にある世界の有様については何も語らない。主体が表象する経験内容についての一人称の報告をデカルトは疑うことのできないものと見なした。「私は痛い」と私が信じれば、私は痛いのだというのがデカルトの見解である。
 さて、この訂正不可能なものを使ったデカルトの論証はどのようになっているのか。

(1)私は今私の前にあるのが黒板であると信じる。
(2)私の現在の信念は明晰にして判明である。
(3)明晰にして判明な観念は真である。
したがって、私の前には黒板がある。

デカルトの基礎付け主義は、この論証の前提が疑うことができないものであること、この論証の結論が私たちの知る命題であること、の二つからなっている。前提は訂正不可能なもので疑うことができない。したがって、その結論も疑うことができず、私たちは結論を知ることができる。
 しかし、(3)が正しいとしたとき、(2)も正しいだろうか。つまり、私の現在の信念は明晰にして判明であるだろうか。逆に(2)が疑い得ないとしたら、(3)も疑い得ないのだろうか。「明晰にして判明」は純粋に主観的な信念だろうか。そうならば、その信念が真であることはどのように得られるのか。また、「明晰にして判明」が真であるための必然的な特徴であるなら、信念が明晰にして判明であることはどのようにわかるのか。このような疑問がデカルトの論証について噴き出してくる。
 そこで、デカルトとは違う、知識の信頼可能性理論を取り上げてみよう。デカルトの論証によれば、知識は「内的に」保証可能である。前の論証は主観的な前提、客観的な結論、そして結合前提(主観的前提を客観的結論に必然的に結びつけるもの)からなっていた。デカルトの知識についての理論の特徴は次のように言える。もし主体が結論の真であることを知るなら、そのとき主体は結合前提が真であることを知らなければならないし、また、そのことを感覚経験とは独立に知っていなければならない。つまり、知識は内的に保証可能である。これがデカルトの内在主義(internalism)である。
 このデカルトの知識論とは異なり、結合前提は内観やアプリオリな推論によって知られる必要はないというのが知識の信頼可能性理論(reliable theory of knowledge)である。例として、温度と温度計、そして温度表示を考えてみよう。温度計は部屋の温度を計り、それを表示する。部屋にある温度計が信頼できる温度計であれば、そこに表示される温度を正しい室温と考えるだろう。この過程と同じように知識を考えたらどうなるか。次の比較を参考にすると、知識の信頼可能性理論の意図が見えてくる。

温度計の目盛りの値が外界の温度を表示する ⇔ 君の信念が心の外の世界を表示(=表象)する
温度計の目盛りの値が正確(不正確)である ⇔ 君の信念が真(偽)である

では、信頼できる温度計とはどのようなものか。それは偶然に目盛りの値と温度が一致するものではなく、いつも一致するものでなければならないだろう。では、信頼できる温度計は存在するか?当然そのような温度計は存在する。それは次のような信頼性の条件を満たせばよいだろう。

温度計は正しい環境で使用されなければならない。
温度計の内部の構成は正しくなければならない。

このような信頼できる温度計がそれの計る正しい温度を通じて外界に関係しているように、個人が真なる命題を通じて外界に関係しているなら、その人はその命題を知ると言えるだろう。これが知識の信頼可能性理論の主張である。デカルトと対照的に比べてみると次のようになる。

信頼可能性理論では、S がp を知るとは次のことである。
(1) S はpを信じる。
(2) p は真である。
 Sがいる環境において、Spを信じるなら、pは真でなければならない。
 それゆえ、pである。

一方、デカルトでは、S がp を知るとは次のことである。
(1)Spを信じる。
(2)Spについての信念は明晰にして判明である。
  明晰にして判明な観念は真である。
  それゆえ、pである。

デカルトと信頼可能性理論との知識の特徴付けの違いは内在主義と外在主義(externalism) の違いである。「真」なる知識の保証はデカルトでは精神に内在的なものによって与えられるが、信頼可能性理論では環境によって外在的に与えられる。
 このような区別を信じるなら、デカルト風の内在主義が伝統的な知識像に対応していて、外在主義的な立場が情報概念の根本にあると推察できそうである。内在的な知識の外在化が情報という訳である。知識を経験的な装置や方法によって保証しようという考えは情報を考える基本枠組だと捉えることができる。とてもわかりやすく、最初に述べた知識と情報の不思議で微妙な違いが見事に説明でき、それだけでも納得できそうに思える。まずは、その美酒に酔うのも一興だが、真実は違う。その真相は後に考えよう。