変化の経験-科学における経験と実在(7)

6実在論再訪
 私たちは実在論を擁護する二つの論証を既に述べた。ここでは科学的実在論(scientific realism)から眺めた場合の議論を取り上げてみよう。科学的実在論は「科学的知識の対象は科学者の心や行為から独立して存在し、科学理論は客観的世界について言及する」と主張する。科学的実在論には二つの側面があった。一つは形而上学的側面で、幾つかの対象が私たちから独立した存在であることを主張する。他は認識論的側面で、どのような個体が存在するか知ることができ、それらを支配する理論や法則を見つけることができると主張する。
 科学的実在論に反対する見解には経験論を含むさまざまな反実在論があった。最近では道具主義と経験的構成論が反実在論としてよく議論される。道具主義は知識を実用的な道具と考える。道具主義は知識を人間の目的のための道具とみなすので、科学的に重要なのは真理より信頼性や経験的な十全さである。道具主義の一つである虚構主義では、実在論者が好む多くの抽象的な対象の存在を私たちの目的に役立つ構成成分に過ぎないと考える。構成主義者は科学的知識が社会的に構成されたもので、事実は私たちがつくり出したものだと主張する。また、規約主義によれば、科学の真理は結局は人間がつくった規約に基づいている。
実在論擁護の議論) 
 19世紀から20世紀初頭に分子と原子の実在性に関して論争があった。マッハ、デュエムポアンカレ(規約主義)のような反実在論者は、科学理論の真理、理論的存在の実在に対して懐疑的な態度をとった。統計力学相対性理論の成功の後、プランクアインシュタイン実在論に転向するが、量子力学が古典的な実在論的解釈ではうまくいかないことがわかり、ボーアとハイゼンベルクによるコペンハーゲン解釈道具主義を採用した。ミクロな世界の解釈はこれでしばらく落ち着くことになった。
 この状況は1960年代に再び変化する。スマート(J. J. C. Smart)やパトナム(Hilary Putnam)が科学的実在論を擁護する「無奇蹟」論証を提案する。彼らの主張によれば、科学理論によって使われる理論的対象が実際に存在し、理論自体が少なくとも世界について近似的に真でなければ、(予測や説明に見られる)科学の明らかな成功は奇蹟としか言いようがない。科学の成功から多くの人は科学が正しい道筋を歩んでいることは認めることができよう。だが、経験的な成功への道筋は必ずしも真理への道筋とは限らない。だから、奇蹟を使った論証は不十分である。しかし、他の説明に比べ、確かに実在論は最善の説明になっている。それゆえ、理論的対象が実在し、理論は真である。だが、このアブダクションを使った論証は結論をきっぱり出し切れない。にもかかわらず、多くの哲学者はこの論証を受け入れた。実在論が優勢になり、それを疑問視することは反科学とさえ考えられる風潮があった。
 ポパー道具主義攻撃も実在論を支持した。彼は道具主義を自らの反証主義的方法論のために批判した。これをさらに広げ、ボイド(Richard Boyd)は科学の方法に焦点を置いた無奇蹟論証を使って説明主義を展開した。そして、彼はクーンやファイヤーラーベント(Paul Feyerabend、1924-1994)によって強調された科学の人間的な側面を明らかにしようとした。ボイドは私たちがつくった理論が道具として使うと成功するのかどうか問う。実在論を経験論や構成主義と対比させながら、彼は実在論(だけ)が最善の説明を与えると結論する。私たちが真理やそれに近いものでスタートし、科学を使って仕事をすると、科学のために工夫した方法はそれ以上のものを生み出すからだと彼は言う。科学理論に真理を求めるのは実在論だけであるから、実在論は科学の道具としての成功について最善の説明を与えるものとなる。それゆえ、実在論は科学的仮説のように最も真理に近く、それを信じるべきであると主張される。
 ボイドの説明主義の論証は注意深く組み立てられているが、科学の道具としての成功についてだけ問うてみよう。つまり、観察レベルでの成功だけ考えてみよう。始めから理論的なレベルでの科学の成功を認める(例えば、真理を生み出すこと)ことは、経験論や道具主義の立場から見れば、論点先取をおかすことになろう。一度これがわかれば、私たちは推理に重要なギャップがあることがわかる。論証は古い真理から新しい真理を生み出すという科学像のもとでなされるが、問題となる説明的な事柄は真理一般ではなく、観察レベルでの真理についてだけである。 反実在論者はこれを説明に対する不合理な要求として拒否するかもしれない。それが受け入れられるなら、経験論者や道具主義者には明白な答えがある。つまり、私たちの科学的方法は道具上信頼できる情報を選り分けることによってつくられる。私たちが信頼できる言明から始めれば、科学のための方法はもっと多くのものを生み出すだろう。だから、道具レベルの科学的成功の説明は科学理論の文字通りの真理を含む必要はない。これは科学の成功の最善説明としての実在論擁護の論証を道具主義擁護の論証に書き換えることである。
 二番目の問題は説明主義者の戦術である。これは最初の問題より深刻かもしれない。実在論を支持する結論は最善説明への推論に依存している。この原理は最善の説明をするものが真であるという主張だが、それこそ反実在論(特に、道具主義と経験論)が否定する原理である。例えば、フラーセンは最善の説明であることは長所であり、良いことだが、それは真理ではないと考える。最善説明への推論の道具主義的原理があるとすれば、説明の正しいことを推論するのではなく、その道具的な信頼可能性を推論するものになるだろう。だから、説明主義の論証は最善説明への実在論的原理を使っている。だが、そうすることによって実在論の正しさを論証しようとする点では論点先取に陥っている。
(断片的実在論
 最善説明への推論は無奇蹟論証の最も適切な形を示してくれた。だが、その不十分さは科学の解釈としての元来の実在論の試みの再考を迫ることになった。再考は二つの反実在論的展開によって促進された。一つは現在の科学の不安定さへの悲観的なメタ帰納法だった。これは科学理論の度重なる廃棄と結果としての存在論の変更に基礎を置く議論だった。他はポアンカレデュエムによる選択不可能性に基づくもので、二つの経験的に等価な理論が存在するという決定不能性の主張を先鋭にすることだった。これら二つの展開は科学的対象の実在性と科学理論が真理を追求するものであるという主張を否定する傾向を強めることになった。
 これを救おうとして提案されたのが対象だけに関する実在論である。その主張によれば、実在論は理論的実在を使う理論が真か偽かにこだわることなく、それら実在の独立した存在についての理論であり得る。(対象実在論、entity realism)ハッキングは対象実在論のために実験論証を展開した。(Ian Hacking、1983)自然の中の新しい性質を発見しようと実験的に対象を設定できれば(例えば、クオークについて知るために電子を使う)、その対象は理論が真であるかどうかには関係なく実在的でなければならない。これと似た考えはカートライト(Nancy Cartwright)によるもので、彼女は最善説明への推論の使用は現象の原因への推論に限られるべきだと言う。というのも、原因は問題なく実在的だからである。だが、反実在論者にはこれらの考えは承服しがたいものである。まず、理論から対象や原因をどのように切り離すことができるか明らかでない。さらに、いずれの場合も実在論的な結論を引き出すのに必要な基礎は有用性や信頼性であり、それ以上のものは必要でないことがわかる。ハッキングの場合、電子は有用な理論的構成物であることだけが、カートライトの場合は因果的な仮説がある領域で信頼できるということだけが必要である。

(問)ハッキングとカートライトの実在論の共通する特徴を述べよ。

実在論に代わるもの)
 これらの論争の間にいくつかの実在論に代わる考えが出された。パトナムの内在的実在論(internal realism、1981), フラーセンの構成的経験論、そしてファイン(Arthur Fine、1986)の「自然な存在論的態度(natural ontological attitudeあるいはNOA)が代表的なものである。めまぐるしい変化の中で、パトナムは実在論者からその批判者に変わる。彼は「形而上学実在論(神の眼で見た世界)」と呼ぶものを拒絶し、真理は言語や概念図式に相対的な視点をもつ立場(人の眼で見た世界)を打ち出す。そして、彼は科学的主張がその固有の領域では真であるが、それが真理すべてを語っているのではないと述べる。あるいは、そもそも真理すべてを尽くすようなものはないと考える。世界に関する別の真理、別の物語があり、それぞれは信じるに足るものだというのがパトナムの考えである。フラーセンは実在論の特徴を二つ挙げる。実在論は真理を目標にし、理論を受け入れるとき、それを真として受け入れる。これに対し、構成的経験論は経験的十分さを科学の目標にし、理論が受け入れられるとき、経験的に十分だとして受け入れる。これは理論の枠組の中で研究するが、その文字通りの真理は信じないことである。これらと違ってファインのNOAは一般的な解釈図式ではなく、科学に対してもつことができる態度である。この態度は科学にとって最低限のものである。それは批判的で、特定の科学的主張や手続きを注意深く見つめ、科学のどんな一般的な解釈問題にも触れないように注意する。実在論者や反実在論者が科学の全体的な目標を設定するのに対し、それに反対する。NOAは真理を意味論的に無定義なものと受け入れるが、科学的真理のどんな一般的理論も解釈も拒絶する。内在的実在論の中につくられた視点主義や実在論の中につくられた外部世界の対応も拒絶する。NOAは反実在論というより、非実在論である。
 これらの立場が科学にどのように反応するか比べてみると面白い。それらの比較を挙げてみよう。

(1)実在論は観察者から独立の世界について真であるものとして科学を考える。
(2)内在的実在論者は私たちの事物図式に相対的に真であるものとして科学を考える。
(3)構成的経験論はそれを経験的に十分だとして受け入れる。NOAは単にそれを受け入れる。

(問)科学に関する実在論反実在論のさまざまな違いを今までの議論を参考にまとめよ。

7最後に:経験論と実在論
 経験論は文字通り経験についての主張である。まず、経験が必要である、次に、それが十分であるという主張である。何についての必要十分なのか。考えられるのは実在について必要十分であるということで、その強い主張は「現象的なもの以外にはなにも実在しない」というものである。弱い主張は経験を越えた実在を認めるが、それについて私たちは知識を得ることができないというものである。このような存在論的な区別を離れ、知識という観点から見ると、 すべての知識は経験に由来し、経験が知識にとって必要十分という信念が経験論ということになる。経験世界とは私たちが感覚的に経験する世界である。
実在論にも多数ある。例えば、真理が何であるかについての主張として、あるいは、どのような真理があるかについての主張として実在論が述べられる。例えば、私たちの経験とは独立に実在があり、その実在を知ることが真理であるというのが実在論ということになる。ここでは真理の本性についての見解としての実在論を考えてみよう。それは意味論的な主張で、文の集合の実在論的な解釈では、人間の思考や言語とは独立に文の真偽が決まると主張される。そこから、文は心から独立した実在について述べ、その実在に真偽が依存していることになる。この見解に反対する立場が検証主義である。文の真偽はその検証の仕方を抜きにしては決められない。それゆえ、文の真偽は検証する私たちに依存し、したがって,それに合わせて真理概念を解釈し直さなければならないというのがその主張である。これは上述の経験論の一タイプである。すると、出てくる問題は、真理は実在論的に理解されるべきか,それとも経験論的に理解されるべきかとなる。
 真理の具体例は科学理論であるから、それをもとに考えてみよう。科学は経験科学であり、私たちの経験する世界についての経験的研究である。科学における経験論は次の条件法によって展開されてきた。もし私たちの知識が経験を超えることができないなら、(1)知ることのできる命題の集合の範囲と、(2)何が真かを推論するのに適切な方法の集合の範囲とを定めることができなければならない。ここから、経験論者は観察命題と理論命題(例えば、一般法則や原理)を区別し、理論命題の真理が観察命題からは推論できないという主張を明らかにしようとした。ところで、(2)の経験論者が許容する推論の範囲は何か。演繹や単純帰納を使った推論は経験主義者も認めるが、アブダクションはどうであろうか。最善説明への推論は経験を説明するための仮説設定であり、これは別の言い方をすれば、観察的な前提から理論的な結論を導き出すことである。
 実在論に反対するフラーセンの構成的経験論では、科学は観察可能な対象についての言明の真理を語るべきで、観察できない対象に関する真理については何も言えないことになっている。観察可能とは当然私たちにとって観察できるという意味である。しかし、アブダクションが許されるなら、観察可能な前提から観察不可能な、理論的結論を得ることになり、フラーセンの主張に反することになる。さらに、構成的経験論には問題がある。「すべてのカラスは黒色である」という言明は「すべてのxについて,そのxがカラスなら、そのxは黒色である」を意味しており、したがって、この世界のすべてのものについての言明である。もし世界が観察できないものを含んでいたら、カラスの場合のような一般化がその観察できない対象についてもなされなければならない。(カラスでさえ、これから生まれるものは観察できない。)
 アブダクションを使った実在論を擁護する推論がパトナムによってなされたことがある。ある科学理論が正確な予測をして受け入れられているとする。では,なぜこの理論は成功しているのか。何がこの理論の予測の正確さを説明するのか。もしこの理論が観察できないものを仮定しているなら、その理論の予測の成功は、仮定された対象が文字通り存在し、その性質が理論の主張する通りのものであるという仮説によってもっともうまく説明できる。これはアブダクションであり、観察できる前提からそうでない結論を引き出している。アブダクションの使用が論点先取か妥当なものなのかは意見の分かれるところである。理論命題は最善の説明のために要請され、それだけからその内容が実在するというのは確かに論点先取のようにみえる。
 経験論者は私たちの知識が経験を超えることができないことに重要な意味があることを示そうとするし、実在論者は観察できないものを知る私たちの能力が観察できるものを知る能力と同じように強力であることを示そうとする。経験論者の考えは科学的推論の能力を制限するという欠点をもつのに対し、実在論はその能力を拡大し過ぎるという欠点をもっている。では,第三の道はあるのだろうか。実際の経験的知識とその獲得を実情に即して考えた場合、観察できないものについての知識はテストできる命題に現れる語彙に制限を加えるだろうか。何も制限は加えないようにみえる。しかし、経験的に識別できないものについてそれを識別することは科学にはできない。識別できない二つの理論のいずれが正しいかは判定できない。これは経験論だけでは知識にとって不十分であり、だからといって実在論をそのまま鵜呑みにもできないという表明である。科学理論は経験論と実在論の間でその特徴づけを待っている。

(問)経験論と実在論の論争と科学研究との関係を今までの議論を参考にしてまとめよ。

(問)(課題)経験的な正当化は観察や実験によるが、それらは論証的な正当化と何が共通で、何が異なるのか。