変化の歴史(1)

小中生のための哲学(5)
ギリシャ哲学から経験科学へ
 ギリシャ哲学は一見すると科学哲学とは何の関係もないどころか、科学哲学の研究にはそれが思弁だけからなるゆえに何の貢献もしないとさえ考えられてきました。というのも、経験を重視する科学に対し、ギリシャ哲学は経験に対する配慮が希薄で、合理的な推論を偏重すると考えられてきたためです。でも、このような考えは科学がもつ合理的な推論の役割を無視することから出てきたものであり、仮設演繹法を重要な方法とする科学は実はギリシャ時代につくられた推論方法を巧みに利用してきたことを忘れているのです。このような点からギリシャ時代の自然に対する考察がどのように展開されたかを、正統的な科学史哲学史の理解からは逸脱することになるかもしれませんが、科学哲学の観点から眺め直してみましょう。ギリシャ時代に確立された推論方法とベーコンの経験的知識に関する方法論、さらにはそれらに数学の方法と知識が結合されることによって、好奇心の組織的な具体化である経験科学が誕生したことを考えるなら、科学を支える歴史的な柱の一つがギリシャ哲学だと言っていいでしょう。このような観点からギリシャ哲学を見直してみましょう。
ギリシャ哲学と科学の関係]
 科学哲学がギリシャ哲学から始まるということを強調するためにギリシャ哲学について話をするわけではありません。科学はむしろギリシャ哲学にはない側面を多くもっていますが、それと共通する側面もあります。それは合理的な推論を信頼することであり、これは科学活動を構成する不可欠の部分となっています。この合理的側面をギリシャ哲学がどのように育て、それが科学の営みにどのように生かされてきたかを知り、さらに今でも合理的な推論が科学上の問題を解決するのに重要な役割を果たしていることを実感するのがここでの役割です。
 ギリシャ哲学が合理的、分析的に世界や人間を捉えようとしたこと、仮説やそれを使った推論に敏感であったことは後世にも受け継がれました。その姿をギリシャの哲学者がどのように推論したかだけでなく、何を推論しようとしたか、つまり、推論の形式だけでなく、推論の内容にも注目して見てみましょう。内容がどのような言語表現を与えられるか、内容がどのような概念として表象されるかにも注目してみましょう。内容を明確に概念化するには思弁だけでは不十分で、不毛でしかないことも実感してほしいのです。推論することは思弁的ですが、推論の内容が明確なものかどうかは思弁だけでは十分な証拠が与えられません。推論の内容が明確であるためには推論で使われる概念が経験に耐えるだけの確実なものでなければなりません。
 以下のギリシャ哲学の合理的思考を理解する際に、次の四つの要点を心に留めながら読み進めて下さい。ギリシャ哲学は四つのどれに関心をもち、どれを軽視したのかを理解してほしいのです。

概念の内容は経験的に、概念の形式は数学的に、概念の操作は論理的に、概念の験証は実験・観察によって与えられる。

さらに、ここでの話は「自然の変化をどのように扱ったか」の過去の典型例であり、変化をどのように理解するか、変化にどのように対処するかは以後の基本的な主題となります。「自然がわかる」とは「自然の変化がわかる」ことであり、変化を通じて存在や構造を理解するのが経験科学の理解の仕方です。では、ギリシャ哲学ではどうだったのでしょうか。
 最後に、以下の叙述から理解してほしい重要な点はプラトンアリストテレスの哲学的な総合やベーコンの試みが決して唯一の総合でも、正しい試みでもなかった点です。

それまでのギリシャの哲学者の理論を詳細に研究し、総合したプラトンアリストテレスの試みやそれらを批判したベーコンの試みは後の物理学や生物学、そして数学の歩みに圧倒的な影響を与えたが、決して唯一の正しいものであったからではない。

 その前に、自然主義という用語について述べておきましょう。自然主義は哲学の用語としてしばしば登場しますが、それが正確に何を意味しているかは意見が分かれます。ある哲学者は自然主義を哲学と経験科学の連続性を主張するものと考えます。他の哲学者は二元論の否定こそが自然主義の重要な主張と考えます。あるいは、自然主義の本質は認識論や意味の外在主義的な理解にあるとも考えられています。 これら三つをすべて含め、二元論や認識論、意味の内在主義に反対し、哲学と経験科学を連続するものと捉える立場が自然主義であると考えている哲学者もいます。これらをもとに自然主義の定義を考えてみましょう。私たちがもつ最善の科学理論が自然に存在するもののタイプ(性質)を明確にするための最善の指針となります。状態、性質、対象、出来事は科学理論によって実在的だとみなされる場合に限って実在的です。自然主義の主張を簡単に述べれば、「科学理論こそが世界の最善の像を与える」というものです。では、科学理論はどのようなタイプを実在的とみなしているのでしょうか。それを考えるには科学の本性を見ておかなければなりません。通常、自然主義者によれば科学理論は実在する世界についての理論であると考えられています。科学は実在についての研究であるという科学実在論(scientific realism)の主張は自然主義と重なっているのです。
 私たちの周りにある性質、状態、対象、出来事は自然的なものです。あるものが自然的とは、それが自然科学の基本的な理論によって理解できることです。このような自然理解は昔から存在していました。例えば、デモクリトスの原子論は古代の唯物論の典型です。スピノザ(Baruch Spinoza)がアリストテレスの目的因やプラトンの考えを否定し、道徳の自然性や相対性を主張したのも自然主義の例です。ヒュームが実体という概念を否定し、自由、自己、因果性等を心理学的に扱うのも自然主義の典型例です。現代に眼を転じたとき、自然主義的傾向は直接に肌で感じられるほどに強いものです。その好例がアメリカ哲学と自然主義の関係でしょう。他の哲学に比較して、アメリカの哲学では自然主義的な傾向が強いのです。分析哲学を中心にした哲学は自然主義的な特徴をアメリカ哲学にもたらしています。そして、そのような特徴は自然的でない概念を自然的なものに還元する「自然化(naturalizing)」という用語に端的に現れています。
 ここまでは前置き。次回から変化の歴史を辿ってみましょう。