奇蹟と無奇蹟

 昨日の投稿から、奇蹟がないのが古典的な物理学、奇蹟だらけなのが宗教、特にカトリック教会、という対照的な違いが明らかになりましたが、そうだとすれば、物理学とカトリック教会は世界について真っ向から対立する考えをもつことになります。よくよく考えるとこの真っ向からの対立は誇張したものと言うより、私たち人間がもつ二つの根本的に異なる資質が素直に表れていると考えることができます。一つの資質は飽くことなき好奇心で、真理をとことん知りたいという本能です。別の資質は絶対的なものへの希求、憧れであり、救いや愛を求めるという本能です。奇蹟の本性を知り、それを説明したいという知的探求心と、奇蹟を通じて神に帰依するという信仰は、共に私たちがもつ生得的な資質だと思われます。

 奇蹟は私たちには予測できない、コントロールできない出来事であり、奇蹟の存在は科学的な探求にとっては失敗や不十分さを意味しています。奇蹟はあってはならないもので、奇蹟は科学の敗北を意味しています。一方、キリストの復活、マリアの出現という奇蹟はキリスト教にとっては核心的な真実であり、不可欠の事柄です。奇蹟はキリスト教だけでなく、どの宗教にとっても自らの存在理由そのものであるのですが、科学にとっては説明されるべき個々の謎に過ぎないのです。宗教と科学の違いは何かと問われたとき、どの視点からその問いを考えるかという糸口が「奇蹟」なのではないでしょうか。奇蹟に対するかくも異なる態度が科学と宗教の違いを生み出し、その違いがこれまでの確執の理由になってきたのではないでしょうか。

 ところで、古典的物理学は対象とする物理世界が実在すると仮定して理論をつくり、実験や観察をしてきました。このような立場は「実在論(Realism)」と呼ばれてきました。そこで、「なぜ実在を信じるか」の理由が何かを考えてみましょう。物理世界が実在するという立場を擁護するために、多くの実在論者はこの論証を科学的実在論(scientific realism)のもっとも強力な理由と見なしています。それは「無奇蹟」論証と呼ばれ、およそ次のように展開されます。

 一般相対論や量子力学が宇宙の基本構造について本質的に正しいことを述べているのでないとしたら、それら理論が正しい経験的な予測をすることは奇蹟か偶然の一致と言うしかないでしょう。奇蹟や偶然の一致でない説明があったとすれば、私たちは奇蹟や偶然の一致をそのまま認めることはないはずです。ある理論が現象の背後で起こっていることの真の姿を捉えていれば、それら現象は奇蹟でも不思議な偶然でもありません。ですから、今受け入れられている理論は確かに正しいと結論してもよいでしょう。

  上の無奇蹟論証を言い直せば、次のようになります。クオークや光子が実在していないと仮定すれば、それらを使ってなされる予測や説明は奇蹟そのものになってしまいます。科学理論がなぜ成功しているか(つまり、宇宙はクオークや光子が実在しているかのように私たちが振舞うこと)の最善の説明は実際にそれらが実在していることを認めることです。それゆえ、私たちは実在論が正しいと信じるべきなのです。(つまり、無奇蹟論証はアブダクション(abduction)を使った論証になっているのです。)

演繹法が前提となる事象に規則を適用して結論を得るのに対し、アブダクション(逆行推論)は結論となる事象に規則を適用して前提を推論する方法です。帰納法と並び仮説形成に重要な役割を演じてきました。アブダクションは、遡及推論(retroduction)とも呼ばれ、結果から遡って原因を推測する方法です。帰納法が観察可能な事象を一般化するのに対し、アブダクションは(多くの場合)観察可能な事象から直接観察することが不可能な原因を推論します。「リンゴが落ちた」という個別現象の一般化(他のリンゴや果実への当てはめ)ではなく、「リンゴが落ちた」ことの背景にある原因をつくり出すことがアブダクションです。