変化の経験-科学における経験と実在(5)

4反実在論再考
 科学についての反実在論者にとって重要な問題は、理論言語と観察言語の区別があるかどうかではなく、観察できるものと観察できないものの間に適切な区別があるかどうかであるとしばしば言われる。問題は事物についてであって、言語についてではないということである。なぜこのように言われるのか。実在論者と反実在論者は存在論的問題について意見が異なると考えられているからである。どのような種類の事物が存在するかについての問題だというわけである。だから、実在論者が電子は存在すると信じるのに対し、反実在論者はそれが存在しないと信じるところに違いがあると考えられている。
 この実在論反実在論の論争の特徴付けは正しいだろうか。結局、バークリーのような繊細な反実在論者はリンゴが存在することを否定しないことを見てきた。彼らはリンゴが存在すると言うが、実在論者が存在すると言う内容とは違っている。(バークリーによれば、それらは感覚の束であり、心から独立した物質的対象ではない。)同じように、最近では多くの反実在論者が物理学者は「電子がある」と言っても構わないと主張する。問題はそれをどのように解釈すべきかである。
 観察と理論の区別(観察できるものとできないものの区別)は言語よりは存在するものによって考えられるべきだという意見は、少なくとも今日の代表的な反実在論者ファン・フラーセン(Bas C. van Fraassen)によって主張され、多くの人に受け入れられている。フラーセンの主張は構成的経験論(constructive empiricism)と呼ばれている。そこで、これまでの話も含め、実在論反実在論存在論的な比較をまとめ直してみよう。既に保持できないことが明らかになった還元主義を除き、構成的経験論を加えた比較は次にようになるだろう。

実在論:十分に確証された理論によって仮定された対象は、観察できなくともその実在を信じる理由がある。
構成的経験論:私たちは観察できない対象が実在することを仮定する十分な理由をもっていない。科学理論を支持する経験的な証拠はそのような理論が「経験的に十分である」ことしか保証しない。つまり、観察できる対象について言われることは真であるという主張は支持できるが、観察できない対象について言われることが真であるという主張は受け入れられない。
道具主義:これは理論的な用語(観察できない対象を指示するような用語)の意味についての主張であり、そのような用語はどんな対象も指示しない。理論的な用語を用いる理論は本当のところは観察できる世界についての理論に過ぎない。理論を真にしているのは観察できる対象である。理論的な用語は理論をより単純に、あるいはよりエレガントにするための道具として使われる。そのような用語があるからといって観察できない対象が実在することを示すものではない。

 例えば、量子力学が特定の光子の量子状態について何か主張するとしてみよう。量子力学が実験結果の予測や説明に関して成功している点は誰も疑わないが、三つの立場は次のような点に関して異なっている。

(1) 光子が状態Sにあると言うとき理論は世界について何を述べているか。
(2) (1)の解答内容を信じる確かな理由があるかどうか。
(3) 量子力学のような理論の目的は何か。

実在論と構成的経験論は(1)に関して同じ立場で、理論は文字通り光子が量子状態Sにあることを述べていると考える。だが、(2)に関しては意見を異にする。実在論者は量子力学が量子状態について述べることを信じる理由があると考えるが、構成的経験論者はそれを信じる理由がないと考える。
 実在論者が理論の目的は真理にあると考えるのに対し、構成的経験論者はその目的が経験的な十分さだと考える。つまり、構成的経験論が科学理論に対して要求するのは科学理論全体の真理ではなく、観察可能なものに対する真理だけである。だから、(3)に対する見解は実在論と構成的経験論では異なっている。
 一方、道具主義は(1)について実在論とも構成的経験論とも異なる立場に立つ。道具主義によれば、量子力学は光子が量子状態Sにあると言うとき、それが本当に言っているのは、ある測定が行われることになれば、ある測定結果が得られる、ということに過ぎない。「光子」と「量子状態」という用語は世界の実在的な性質について言及しようとしているのではなく、純粋に道具としての役割しかもっていない。「光子が状態Sにある」という表現は「この実験をすれば、そのような結果が得られる」という表現と同じである。
 道具主義も構成的経験論も観察できる世界についての真理を得るのが科学の目的であるという点では同じである。
(観察可能性)
 反実在論に反対する一つの方法は観察できるものと観察できないものの区別に注目することだった。構成的経験論者は二つの間に区別があることを使って反実在論を主張する。だが、区別は本当にできるのだろうか。ウイルソン霧箱と机を考えてみよう。霧箱を見て水滴の軌跡を観察し、そこからそれを起こした粒子の存在を推論する。机のほうは直接に机自体を観察する。では、霧箱と机の観察は本当に違うのだろうか。私が机を見るとき、実際に観察するものはある表面の現象である。例えば、机は茶色で、四角形である。これらの観察から私はそれが机だと推論する。霧箱の場合と同じように、直接に机を観察してはいない。だから、観察できるものとできないものの間に区別はない。区別がなければ一方を信じ、他方を信じない理由はないことになる。
 構成的経験論への別の反論は、たとえ観察できる、できないという区別があったとしても、実際に見ることができないという理由だけで観察できない存在について懐疑的になるべきではないというものである。私たちは実際に観察していないが、観察できる対象について、それが存在する十分な理由をもつことができる。観察できない対象についても同じように考えることができるはずである。
 これに対するフラーセンの最初の反応は「観察可能である」は曖昧な述語であるというものである。曖昧な述語については多くのパズル(例えば、連鎖パラドクス=Sorites Paradox)がある。自然言語の述語はほとんどが曖昧である。そのような述語を使う場合にいつも問題があるわけではないが、それらの論理的な規則を形式的に述べようとすると確かに問題が出てくる。実際、連鎖パラドクスは曖昧な述語を使った連鎖推論によって起こるパラドクスで、曖昧な述語そのもののパラドクスではない。曖昧な述語を使う場合にはそれが適用できる明確な場合と適用できない明確な場合が区別できればよい。だが、区別は私たちがしなければならない。つまり、「観察可能」と「観察不可能」の区別は不可避的に人間の能力に依存する。観察と理論の線引きは人間の心理的構成の偶然的な機能である。それゆえ、存在論的な重要さはなくとも、観察可能性が主観的であることを認めなければならない。
 物理学の観点から見ると、人間はある種の測定装置である。そのような装置として限界をもっている。装置としての観察可能性はそのような限界を示している。だが、フラーセンはこの主観性が反実在論の主張に負に働くとは考えない。フラーセンの見解は正統的な反実在論とは大きく異なっている。正統的な反実在論は、理論的主張は真でも偽でもありえないと主張するか、あるいは真か偽であってもそれはそれらが観察可能なものに還元や翻訳ができると主張する。だが、彼が言うには、理論的主張は真か偽でありうるが、科学はその真偽に関心をもたない。科学が関心をもつのはその経験的十分性だけである。 彼は観察可能性の主観性は経験的十分性を主観的なものにすることを認め、科学は私たち人間の科学であると考える。
 最初、経験論者は認識論によって反実在論へと傾いた。(経験論者が受け入れるように)世界についての私たちの知識が観察に基づくなら、観察可能なものを超えた主張は認識論的に疑う余地が生まれる。だから、信用できる科学は反実在論的な科学でなければならないように見える。ラッセルのような還元主義者は観察できる事柄への主張に理論を翻訳することによって科学を救おうとした。道具主義者は事実を記述する試みから装置へとその仕事を変えることによって科学を救おうとした。
 では、フラーセンはどのようにして科学を救おうとするのか。正統的な道具主義者のように、科学の目標は実在についての真なる信念ではなく、より実践的な点にあると論じることによってである。観察できる事柄を予測するシステムをつくることが目標である。
 だが、幾つかの問題が残されることになる。

(1) 構成的経験論を受け入れることは科学だけでなく、すべての場合について成立するのではないか。電子についてだけでなく、すべてについて私たちは反実在論者ではないのか。この見解は観察できる、観察できないという区別を要求しないのではないか。
(2) 理論的言明の場合、構成的経験論では真偽は何を意味しているのか。真や偽であるためには理論的用語は確定した意味をもたなければならない。それらが観察できる事柄についてのものでないなら、どのようにそれらは意味を獲得するのか。
(3) 科学的な知識は確実な真理を求めるという実在論の仮定を棄て、理論は仮のものということを受け入れると、私たちは可謬主義者になることができる。フラーセンの立場はこの可謬主義的な実在論ではないのか。

科学的実在論のための二つの論証)
 私たちはここまで反実在論を中心に議論をしてきた。そのため、実在論については考察を控えてきた。だから、実在論がなぜ実在を信じるかの理由は今までの叙述では不十分である。そこで、実在論擁護の理由を以下に考えてみよう。
1.「無奇蹟」論証(No miracle argument)
 多くの実在論者はこの論証を科学的実在論のもっとも強力な理由と見なしている。この論証は次のように展開される。

一般相対論や量子力学が宇宙の基本構造について本質的に正しいことを述べているのでないとしたら、それら理論が正しい経験的な予測をすることは奇蹟か偶然の一致と言うしかないだろう。奇蹟や偶然の一致でない説明があったとすれば、私たちは奇蹟や偶然の一致をそのまま認めないだろう。ある理論が現象の背後で起こっていることの真の姿を捉えていれば、それら現象は奇蹟でも不思議な偶然でもないだろう。だから、今受け入れられている理論は確かに正しいと結論してもよいだろう。

 上の無奇蹟論証を具体的に繰り返せば、次のようになる。クオークや光子が実在していないとすれば、それらを使ってなされる予測や説明は奇蹟だろう。科学理論がなぜ成功しているか(つまり、宇宙はクオークや光子が実在しているかのように振舞うこと)の最善の説明は実際にそれらが実在していることを認めることである。それゆえ、私たちは実在論が正しいと信じるべきなのである。

(問)無奇蹟論証がアブダクションを使った論証であることを説明せよ。

反実在論からの反応)
 奇蹟がないことからの論証は、科学理論の予測成功についての唯一の説明は、予測を真にする観察できない対象はそれら理論が述べている通りのものである、ということを主張している。だが、構成的経験論者であるフラーセンはこの主張に対して別の説明をする。
 科学は生命現象の一つであり、環境との相互作用を円滑にする有機体の活動である。これは科学的説明にそれまでと違った解釈を与えてくれる。ネコから逃げるネズミについて二つの異なる説明がある。アウグスティヌスは意図的な説明を考えた。ネズミはネコを敵だと認識し、それゆえ逃げた。ここで仮定されているのは自然の秩序、つまり、ネズミの心に敵の関係が正しく捉えられていることに対するネズミの思考の十分さである。だが、ダーウィン主義者は言う。なぜネズミが敵から逃げるかはネズミの心に問うべきではない。敵とうまく渡り合えなかった種はもはや生存しない。これが、うまく渡り合えるものだけが生存している理由である。これと同じように、現在の科学理論の成功は奇蹟ではない。どんな科学理論も厳しい生存競争の中で生き残ったものだけが成功している。科学理論が正しいから成功しているのではない。

2.因果的説明からの論証
 ある現象がなぜ起こったかを説明することは、しばしばその原因を特定することであると言われる。現象の因果的な説明で役割を演じる対象はしばしば観察できないものである。だが、そのような場合でも説明が正しいと認められるなら、その説明における原因が本当に存在すると見なされるべきである。これが実在論者の考えである。
 それに対して反実在論者のフラーセンは、私たちの因果的説明が意味をもつために観察できない対象に因果的な役割を与えることを否定する。背後の因果的メカニズムについての話は理論やモデルの内的構造についての話として解釈できるというのが彼の考えである。科学者は理論に自らを投入し、理論が描く観察できない実在が正しいと思うことによって現象を説明する。因果的な力をもった観察できない実在が存在するかのように科学者は語るが、実際に彼らが行なっているのは(観察できない実在ではなく)理論やモデルがどのように適合しているかについて語っているに過ぎない。