「私は今ここにいる」という私の知識の正当化(1)

 何かを見るとき、何かを見る眼に何が起きているかということと眼が何を見ているかということの間には大きな違いがあります。カントはこの違いに着目し、そこから私たちが見ている、あるいは経験している世界は私たちの精神(=心)によってつくり出されたものであると捉え、私たちが経験をつくり出す過程は自発的で、総合的なものだと考えました。そして、世界は私たちが作り出す、信頼できるものであることを示そうとしました。カントにとって、世界は私たちとは関係なく実在するのではなく、私たちが創造したものであり、リアリスティックではなく、ロマンティックなものなのです。

 すると、実在論的な「物それ自体」の世界は、それが存在するとすれば、私たちの経験とは無関係の世界であり、私たちが生み出す経験世界とは異なっていることになります。誰もいない森の中の出来事は私たちの経験できないものであり、それゆえ、私たちが経験する世界とは違う、見たくても見ることができない世界ということになります。でも、多くの人は誰もいない森でも監視カメラや過去の記録といった情報や知識によって森の中の出来事を経験できると考えています。

 実際、私たちの経験には一定の形式があり、それがカテゴリーと呼ばれてきたものです。大半の場合、感覚的な入力情報から経験世界をつくりだす過程は生得的で、自動的に進行します。カントの主な関心は私たちの精神によって経験世界を構成することでした。では、私たちの精神は感覚的な入力からどのようにして世界をつくりだすのでしょうか。この問いは認知科学者が現在研究していることそのものです。18世紀にはカントばかりか他のどんな人も、そのような実証的研究が精神に対して可能であるとは考えていませんでした。ですから、カントは精神の働きについて実証的な研究を示唆するようなことは述べていません。その代わり、彼は経験が可能であるために必要な条件を導き出そうとしたのです。実際、カントはそのような導出の論証を「超越論的」論証と呼んでいます。

 カントは先輩ヒュームの懐疑論を論駁し、それを乗り越えることを目指したのですが、それはすべての出来事には原因があり、原因と結果の系列は一般法則を満たさなければならないという原理を使って行われました。それによって、カントはどんな経験に対しても、ヒュームとは違って帰納的な推論が信頼できることを示したと考えたのです。カントが疑ったのは、世界それ自体がどのようなものかという知識をもてるかということでした。というのも、既述のように、私たちの精神によって構成された経験的世界についての知識は世界それ自体については何も述べていないからです。こうして、カントの哲学には二つの異なった主張が含まれていることがわかります。つまり、経験世界は精神によって構成され、経験世界の諸性質はこの構成の産物であるという観念論と、経験が可能であるための必要条件は経験の一般的性質から演繹的推論によって確立することができるという超越論的論証との二つの主張です。

 カントの目標は幾何学と運動の法則をアプリオリな知識として認め、それによってヒュームの帰納的な懐疑論の問題を解くことでした。彼の戦略は、ユークリッド幾何学ニュートンの運動の法則、そして帰納的推論が信頼できるような仕方で、精神によって構成される対象、性質、関係のシステムとして世界を構成することでした。カントはユークリッド幾何学が真であることを直接論証していません。彼は経験世界の空間がユークリッド的であることを仮定し、さらに、それが必然的に真であり、それが真であることを私たちは知ることができると仮定します。ユークリッド的な関係が私たちの経験を総合する形式であるなら、すべての可能な経験はユークリッド幾何学を満たさなければならず、私たちはその正しさについて確信をもつことができることになります。でも、感覚データから経験をつくりだす際、心の働きによって空間的な表象がユークリッド幾何学を満足することを保証するという仮説は、なぜ空間がユークリッド的かを説明するでしょうが、ユークリッド幾何学が真であるということは説明しないのです。

 繰り返しになりますが、カントは経験の対象が構成され、総合されたものであると考えました。ですから、世界は私たちによって構成されたシステムなのです。でも、彼はそれが何から構成され、どのように構成されるかといった細部については極めて曖昧です。例えば、ラッセル(Bertrand Russell)はそこで次のように考えました。基本的対象(=センス・データ、感覚与件)の間を動く変項(variable)とセンス・データの性質を指示する述語によって、センス・データの集合を指示する名辞を定義できます。物理的な対象はセンス・データの集合であり、あるいは、センス・データの集合の集合であり、等々と続きます。物理的対象の高次の性質も適切なセンス・データの集合です『外部世界はいかにして知られうるか(Our Knowledge of the External World)』)。つまり、ラッセルはカントの曖昧な構成を変項とセンス・データの性質を表現する述語とに置き換えて、論理的に世界を構成し直したのです。

 それをさらに推進したのがカルナップ(Rudolf Carnap)で、彼は『世界の論理的構築(Der logische Aufbau der Welt)』で、世界の諸性質が単純な経験データから心によって構成される手続きの詳細で明確な記述が与えられています。世界の論理的な構成は基本的経験を指示する名辞に適用される論理式(logical formula)の集まりとしてだけ示されているのではありません。彼は構成を計算上の手続きとしても述べています。これはカントの計画と認知科学の間の論理的な橋渡しになっています。カルナップは心の理論を計算的なプログラムとして提示したのです。つまり、人工知能の研究はカルナップの構想の具体化なのです。