紫陽花の季節

 梅雨に入ると、多くの人がアジサイを連想する。スミダノハナビ(隅田の花火)、アナベルカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)など…「隅田の花火」の特徴は、周りの装飾花が八重になっていて、白から次第に青色がほのかに入り、花火のように星形の花が飛び出すような形をしている。カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)の原産地は北米東南部で、花の色は白。アナベルは園芸品種のアメリアジサイ。小さな花が集まり、大きな塊になる。

 私の観察眼など高が知れたもの。視覚は知識に左右され、不確かな知識は視覚像も不確かにする。今回もその不確かな知識と視覚像が発端。梅雨入りし、公園や庭先だけでなく歩道にさえ植えられ、梅雨の季節の風物詩と言われているのが紫陽花。梅、桜、藤、杜若など、日本人が好む花は大抵が大昔から好まれてきたもので、多くの文献、文学作品がその長い歴史を見事に物語ってくれている。そんな花の歴史を大切にしながらも、「花を愛でるにはその花を知らなければならない」などと野暮なことは言わずに、素直に花を見て、ただその美しさを感覚的に享受すれば十分なのだと、つい自分の観察眼や鑑賞力を過信してしまう。では、紫陽花の場合はどうか。

 手毬のようなアジサイを公園で堪能し、ガクアジサイと表示された小さな花の集まりを散歩道で見とれ、それぞれの見事さに感嘆しながら、二つは同じアジサイなのかと疑問が湧き、それに誘発されて、自分がどれだけ知っているのか不安になり出す。知覚像が日頃慣れ親しんだものであれば、私たちは安心してそれを受け入れ、時には情報として使い、時にはその像そのものを見て楽しみ、疑問や疑念などもたない。だが、その知覚像が何かわからないと不安になり、それが何か無性に知りたくなる。厄介なのは、知覚像が何か一応はわかるのだが、それが正しいのかどうかはっきりせず、一抹の不安を抱える場合である。この厄介な場合が私のアジサイ経験。アジサイについての常識は日本人が好きな花についての常識とは何か違う気がし出したのである。その途端、アジサイは私の中で謎をもった対象に変わってしまう。

 結論を先に書いておこう。アジサイは日本原産だが、日本人に好まれた訳ではなく、ヨーロッパで品種改良され、逆輸入される。それでも戦前まではマイナーな花に過ぎなかった。アジサイの人気は戦後のもので、鎌倉の寺を始め、日本各地にアジサイの名所が生まれた。これがアジサイの真の姿だとなると、興ざめもよいところ。雑念なしに「花を愛でる」とはどのようなことなのか、また問題が一つ増えたようである。

 そこで、まずはアジサイを知り直そう。品種はガクアジサイとホンアジサイの2種類。ガクアジサイは日本原産だが、ホンアジサイは18世紀にヨーロッパに渡ったガクアジサイが品種改良され、手毬のような形になったもの。よく見かける大きな丸い花のアジサイはほとんどがホンアジサイ。ヨーロッパで品種改良されたアジサイが日本に逆輸入された当時は「西洋紫陽花」とも呼ばれていた。

 アジサイの花には両性花と装飾花の2種類がある。両性花は、繁殖するための雄しべ、雌しべをもった本来の花だが、ブロッコリーのように小さい花が密集した形になっている。装飾花は花びらではなく萼(がく)に色がついたもの。萼は花びらの外側にある花葉のことで、普通は葉と同じ緑色だが、紫陽花はまるで花のような見た目をしている(ドクダミを思い出してみよう)。だが、ガクアジサイはこの萼が花のように見えるからガクアジサイと呼ばれているのかと言うと、それも間違いで、ガクアジサイのガクは「額」のガク。両性花が額縁のように萼で囲っていることから、ガクアジサイと呼ばれる。では、花びらはどこなのか。ガクアジサイの花びらは、このガクの中心にある、小さい玉。小さな花びらが5枚ほどついた花が咲く。

 アジサイの漢字を「紫陽花」としたのは、平安時代歌人源順(みなもとのしたごう)。源順は、中国の白楽天の詩にある「紫陽花」の特徴から、ガクアジサイを同じ花と考え、この漢字を当てた。だが、上述のようにアジサイは日本原産だから、この命名は誤っていた。今では日本人に愛されているアジサイだが、それは戦後の話で、それまでは大した関心をもたれていなかった。アジサイが登場するのは『万葉集』が最初。『万葉集』には多くの草花が詠まれているが、アジサイはわずか二首に過ぎず、奈良時代に人気がなかったことがわかる。平安時代を代表する文学作品、『源氏物語』、『枕草子』、『古今和歌集』などには、アジサイの記述が一切ない。

 小さな花が集まって球状に見える、手毬咲きのアジサイの記録があるのは、桃山時代に入ってからである。この頃には画家によるアジサイ画が登場する。狩野永徳の作品に「松と紫陽花図」があり、南禅寺所蔵の重文である。江戸時代になると、尾形光琳俵屋宗達酒井抱一らがアジサイを描いている。だが、アジサイの人気はいまいち。芭蕉が「紫陽花や帷子時の薄浅黄」と詠み、北斎も「あじさいに燕」という絵を描いているが、庶民の関心は薄かった。幕末になって、アジサイには欠かせないエピソードが生まれる。シーボルトはお滝という日本人女性と恋仲となり、彼は自分の好きな花であるアジサイに、「Hydrangea otakusa」(オタクサ)と命名しようとした。だが、アジサイには既に別の学術名があり、認められなかった。シーボルトは帰国後、『日本植物誌』を著し、その中でアジサイ属の花14種を新種として紹介している。

 アジサイの人気のなさは、明治になっても同じだった。中国に伝わっていたアジサイは1789年ロンドンに送られた。1900年代のはじめにはフランスで育種がスタートし、セイヨウアジサイへと発展する。そして、大正時代には西洋で改良されたアジサイが日本に入ってくる。それでも、今日のように普及することはなかった。第二次世界大戦後、ようやくアジサイ人気が出てくるようになる。そのきっかけは、観光資源として注目されたことである。

 今では全国にアジサイの名所が数多くある。例えば、鎌倉の明月院長谷寺が有名で、今は訪れる人が多い。アジサイの名所となる寺は全国に拡がるが、なぜ寺にアジサイが植えられるようになったのだろうか。それはアジサイが死者に手向ける花だと考えられたことに由来する。特に、流行病が発生した地域では多く植えられた。今の世界を考えると、アジサイ需要がさらに高まるかも知れない。

 アジサイの名所のほとんどが戦後のものということになると、少々興ざめな気持ちになるのは私だけではあるまい。日本原産で古くから存在しながら、日本人には好まれなかったアジサイが戦後急速に人気を集めたこと、しかもアジサイが極めて日本的だと多くの日本人が信じ込んでいることは一体何を意味しているのだろうか。常識はとんでもない誤解に基づいていることの証かも知れないが、その前に人気の理由を見つけるべきだろう。優れた観光資源だった理由は、恐らくは逆輸入されたアジサイの見事な花振りとアジサイ本来の栽培の簡単さにあったのだろう。それが戦後の経済成長に伴う観光ブームにうまく乗ったのではあるまいか。

 アジサイの花の色は、発色の色素と補助色素、土壌のpHとアルミニウム量(一般に酸性では、アルミニウムイオンがアジサイの根から吸されやすくなり青変、またアルカリ性では、アルミニウムイオンが吸収されにくくなるので赤変)、開花からの日数などによって、様々に変化する。花の色は、クロロフィル(緑の葉緑素マグネシウムポルフィリン化合物)、カロチノイド(黄、橙、赤、紫のポリエン色素、カロチン、キサントフィル)、フラボン(白、黄色、無色の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)などからつくられている。まずクロロフィルが色あせると、カロチノイドが目立ってくる。次にカロチノイドも分解し、フラボンが強くなり、青くなる。この頃、光合成によって葉が作った糖分が花の方にまわってくるので、アントシアニン(赤、青、紫、紫黒の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)に変わり、そのあと胞液の酸でマグネシウムが分解し、カリウムが結合して紫に変化する。このように、アジサイの花は、緑、黄、青、赤、紫の順に変化する。

 日本では古くより、アジサイの花を乾かし、煎じて飲むと、解熱薬となり、葉は瘧(おこり、マラリア)の治療薬用にもなると言われ、重宝されてきた。だが、アジサイ自体には毒性があり、中毒を起こす。

 既述のように、アジサイはヨーロッパに渡り、1790年頃にイギリス王立植物園に植えられ、欧州各地でも盛んに栽培され、品種改良も積極的に進められて、ピンク・赤・青などの多くの園芸品種が誕生した。これらのアジサイが逆輸入され、セイヨウアジサイとして公園や散歩道を飾っている。日本原産の花でありながら、日本に逆輸入され、その種類はなんと3,000種類以上にも及ぶ。

f:id:huukyou:20200614045242j:plain

f:id:huukyou:20200614045304j:plain

f:id:huukyou:20200614045327j:plain

f:id:huukyou:20200614045349j:plain

f:id:huukyou:20200614045412j:plain

f:id:huukyou:20200614045433j:plain