我が故郷での親鸞と謙信

(1)二人の交錯まで

 奈良時代鎮護国家思想(仏教は国家を守護・安定させる力をもつ)に基づき、741(天平13)年に聖武天皇が「国分寺」の建立の詔を出し、その建設事業が始まります。さらに、743(天平15)年に国家安泰を願って東大寺盧舎那仏像の造立が発願されます。南都七大寺東大寺興福寺元興寺、大安寺、西大寺薬師寺法隆寺)を保護し、各寺院で仏教の教理研究が奨励されました。これらの政策はいずれも仏教が国家を守り、皇族が自らの仏教に対する帰依を象徴的に示すもので、国家運営と仏教が強く結びついていたことを表しています。奈良時代に編纂された神話や古代史を伝える「記紀」によれば、仏教思想と文化を積極的に受容し、日本政治に神仏習合によって対処するための模索が続きました。

 12世紀から13世紀(平安時代末期から鎌倉時代)は仏教の重大な転換期でした。仏教は真言宗天台宗という二大密教の状況から、急速に多様化し、現在の仏教宗派のほとんどがこの時期に生まれます。その多様化を引き起こしたのが天台宗真言宗と違って天台宗は模索中の宗派だったため、天台宗の教義に組み込まれた思想の中から特定の思想だけを抜き出し、それを「真の仏教」として提示し、教団を形成する、という動きが同時多発的に起こったのです。天台宗を母体として新たに登場した種々の仏教教団は、貴族だけでなく、武士、商人、農民といった多数の社会構成員の共感を得るようなり、一方、権力側に寄り添っていた真言宗天台宗も、そうした動きを取り込み、民衆救済をスローガンとして打ち出すようになっていきます。

 この変化を最澄空海を比較することによって見直してみましょう。最澄天台宗の仏典を中国から持ち帰っただけで、その研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、密教を持ち帰った空海が脚光を浴びることになります。この時点で最澄は焦りを感じた筈です。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、そこには禅や浄土などが含まれていて、基本的に何でも受容でき、そのため、密教も自然に入ってしまいました。天台宗密教台密と呼ばれます。こうして、天台宗は考え方が寛容で、天台宗自体の研究が最澄の帰国後の課題であったことから、比叡山には研究すべきことが溢れていて、学術的な環境の中で宗派が維持されてきました。

 最澄空海が以後の日本仏教の原型を作りました。庶民の信仰という観点からは「お大師様」空海の役割は絶大ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要です。なぜなら、これ以後ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく、未完成のままの比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材に修行、研究する場を提供したからです。そのような中で鎌倉時代に入ると、比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗の旧来のやり方に不満や疑問をもつことによって、新しい日本仏教を生んでいくことになります。

 新たに登場した仏教教団が提唱した民衆救済の方法は大きく二つあります。一つは、苦しみのこの世界から逃れる方法の提唱で、その典型は法然親鸞などをリーダーとする浄土宗や浄土真宗などです。もう一つは、信仰の力によって現状を変えようという教えで、日蓮をリーダーとする日蓮宗がその代表です。これらの教義を主張する教団は、既存の二大密教から見れば、厄介な新興宗教教団でした。民衆の期待に添う仕方で教えを説く新興教団の勢いは止まらず、その勢力範囲は次第に広がっていきます。こうして、純然たる密教真言宗、多様な仏教思想の集合体を密教的雰囲気で覆った天台宗、その天台宗の多様な仏教思想の中の特定の思想だけを取り出して教義とする複数の新興仏教教団、という三つの勢力が並立することになります。

 そして、さらにこうした動きに禅宗が加わります。禅宗は伝説上の開祖達磨が5世紀から6世紀に中国で創始した新しい仏教です。釈迦が説いた仏教は本来、瞑想修行による自己変革を目的とする宗教で、修行のためのカリキュラムがあります。誰もが等しく悟りを目指して進んでいくためのコースが明確に定められていました。しかし、禅宗はそれを「体験によってしか理解できない、言語では伝達できないもの」として神秘化し、瞑想に専心している状態自体を重視します。この禅宗の特質は中国の知識階級に好まれ、8世紀以降急速に広まり、12世紀に日本に伝わってきました。今の日本には臨済宗曹洞宗黄檗宗という三派が存在します。

 禅宗は知的な瞑想生活を重視し、教えの中身に関しては不確定、無関心です。臨済宗を創始した栄西(1141〜1215)は密教を重視し、曹洞宗を創始した道元(1200〜1253)は「われわれは本来仏であり、瞑想によってそれを確認する」という独自の思想を持っていました。でも、瞑想修行を中心に据えた禁欲的な生活形態を重視する点に禅宗の共通性があり、それが当時の武士階級を中心とした多くの知識層に受け入れられたのです。

 こうして、既存の真言、天台の密教に加えて、救済の宗教としての二つの教団、知的ライフスタイルを提唱する禅宗という仏教が新たに日本に根を下ろしました。この仏教の分布が現在に至るまで続いているのです。

*4回分の第1回です。