(3)上杉謙信
上杉謙信は武神毘沙門天を熱心に信仰し、本陣の旗印にも「毘」の文字を使っています。彼は子供の頃から曹洞宗の林泉寺で天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の徹岫宗九のもとに参禅し、「宗心」という法名を受けました。晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺の法印(僧侶の位階の最上位)で、無量光院住職であった清胤から伝法灌頂を受け、阿闍梨権大僧都の位階を受けています(真言宗では僧侶の資格である阿闍梨の位を授ける儀式が伝法灌頂で、16段階ある位階の上から8番目が権大僧都)。
謙信は室町幕府の関東管領を務め、越後国を統一し、周囲の国々にも度々出兵しました。当時の武将としては珍しく生涯独身で、助けを求められて出兵したことから、「義」の武将と呼ばれています。謙信は関東管領就任の拝賀として鶴岡八幡宮に参詣し、鎮護国家の信念とそれを自らの使命とする強い意志を示しています。実際、1562(永禄五)年には越後国分寺の再興を果たしました。
「義の人」謙信は自らの書状や願文で「義」を使わず、「筋目」を使って正当な戦を説明しています。謙信自身の目的は王法と仏法の回復にありました。筋目とは道徳や正義の規範であり、筋目に従えば、世は正されると彼は信じたのです。謙信の「筋目」は聖武天皇以来の鎮護国家を目指す信念です。ここで留意すべきは謙信の豊かな仏教遍歴の中に浄土真宗が入っていないことですが、謙信が阿弥陀信仰や念仏を知らなかった訳ではなく、真言宗を通じて浄土思想について相当に知っていたと思われます。
天台宗から浄土教が派生し、それが法然や親鸞の浄土宗や浄土真宗を生み出していったのですが、高野山には浄土教はなかったのでしょうか。密教は「即身成仏」を目的にしています。その教義は「この身のままで仏になる」ことであり、死んだ後で仏になるのではありません。でも、浄土思想は「死後に西方浄土に往生することによって成仏する」という教えです。両者が相容れないことは自明です。空海には西方往生の考えはなかったようです。また、真言宗では大日如来がすべての仏を統率します(宗派に応じてどの仏が最重要かは違っていて、天台宗は釈迦如来、浄土真宗は阿弥陀如来ですが、禅宗は不定です)。浄土真宗ではどの寺の本尊も阿弥陀如来ですが、真言宗は大日如来以外でも構いません。どの仏も大日如来の一部だと考えるからです。つまり、阿弥陀如来も釈迦如来も大日如来の一部なのです。即身成仏は「私がそのまま大日如来となり、大日如来がそのまま私になること」であり、大日如来=阿弥陀如来=私であり、それが即身成仏の世界、つまり「密教浄土=この世の浄土」なのです。これは西方極楽浄土とはまるで違っています。
こうなると、謙信と門徒はまるで相容れないことになるのですが、その間を埋めてくれたのが高野山の民俗信仰です。遥か以前から「山中他界」という信仰があり、それは「高野山の山の中は死後の世界」という考えです。奥乃院に多くの墓があるのはこの民俗信仰と結びついているためと考えられます。来世往生思想と即身成仏思想は「山中他界」で危うい形で結びついているようです。これが謙信の浄土思想だと考えると、浄土真宗と彼の関係が少しはわかるのかも知れません。
とはいえ、一向一揆と謙信の関係は極めて政治的です。1570年12月、上杉輝虎は法号「不識庵謙信」を称し、それ以降、上杉謙信となります。1571(元亀2)年2月、謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃しました。康胤は激しく抗戦を続けましたが、上杉軍は城を落城させます。でも、康胤は越中一向一揆と手を組み、謙信への抵抗を続け、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めました(越中大乱)。
**上杉謙信は祖父の長尾能景の代より越中の一向一揆と戦い、能景はその戦いで戦死しています。また、家康は家臣の多くが一揆方に加わるという苦渋を味わい、信長の晩年は一向一揆との抗争に費やされました。一向一揆の「一向」は「ひたすら」を意味し、一つに専念することです。「一向」は経典『無量寿経』にある「一向専念無量寿仏」からきたもので、阿弥陀仏の名号を称えることと解釈されています。
上杉謙信は「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ、 ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す(『白河風土記』)」と書き、私利私欲で合戦はしない、ただ、道理をもって誰にでも力を貸すと表明しています。筋目とは道理であり、大義、正義、仁義、信義と言い換えることもできます。謙信に忖度して言えば、彼の戦いは領土的野心も私利私欲もなく、筋目の正しい、そこに「義」を認めれば、誰であれ味方する、というものでした。
謙信の遺体が移された米沢に話を移しましょう。「興譲」は「譲(ゆずる)を興(おこす)」ことであり、細井平洲の教えです。人を人として敬い、譲り合う生き方を徹底することによって、人間関係の良好な地域社会を築くというのが興譲思想。これは利他主義の一形態であり、個人主義や、人を所有し、支配し、搾取する社会の対極にある思想です。「譲」という漢字にはもう一つ意味があり、それが「責譲(せきじょう)」。誤りや歪みがあったときには、それに対して徹底的に相手の責任を問うことで、「興譲」には悪を許さないという信念も含まれています。この平洲の考えを受け継ぎ、具体的な政策で成功したのが上杉鷹山です。
このように見てくると、謙信の戦時の「筋目」、平洲や鷹山の平時の「興譲」が上杉一族の「義」の具体的表現、活動指針となっていたことがわかります。「義」という中国由来の概念が「節目」、「興譲」へと歴史的に展開していったことを垣間見ることができます。
謙信の信仰の中で浄土思想、阿弥陀信仰は重要なものでした。上杉家の菩提寺は高野山に二つあります。一つは奥之院にある上杉謙信霊屋(たまや)を管理する清浄心院。霊屋には謙信と養子の景勝の位牌が安置されています。すぐ近くには武田信玄と勝頼の墓地があり、川中島の合戦を想起させます。もう一つの寺は無量光院。既述の無量光院住職の清胤法印は越後出身で、謙信は清胤から阿闍梨権大僧都の僧位を得たのでした。