春日神社は奈良の春日大社の分霊を祀り、春日山神社は米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀っています。「春日山」という名前は春日神社の「春日」に由来します。一方、春日山神社は1887(明治20)年、旧高田藩士小川澄晴(小川未明の尊父)が発起し、前島密らの援助を受けて1901年に創祀されています。何とも紛らわしいのですが、これからの話は春日神社の行事についてです。
「竜の御旗」を捧げ持ち、妙高山頂へ謙信の代参で登山をするのが南方位山(なんぼいさん)。正式には「御剱祭南方山」で、その通称が「南方位山」。また、「竜の御旗」の竜は倶利伽羅不動尊(倶利伽羅竜王)のこと。毘沙門天が右手に持つ剣に巻きついている竜が倶利伽羅不動尊。謙信が永禄年間の越中(富山県)へ出陣の際、名立・筒石近辺で大嵐に遭い、困った謙信は毘沙門天に一心に祈ると、筒石山の西南より倶利伽羅不動尊が現れ、暴風が鎮まり晴天が覗き、一行を助けてくれました。謙信は能生の権現堂に参拝し、絵師の狩野直信に倶利伽羅不動像を描かせました。その後の川中島合戦の際にも、本陣を構えた関山でこの「倶利伽羅不動尊御旗」を拝礼して戦に臨み、見事勝利します。その後、越中の国を平定した謙信は所有領地の安泰・安全を妙高山頂の阿弥陀三尊に祈願することを思い立ち、「倶利伽羅不動尊御旗」を供にしての代参登山が現在にまで続いています。
「義の人」と呼ばれる謙信は、自らの書状や願文で「義」を使わず、「筋目」を使って表現しています。彼の筋目は今風には「正義」のこと。謙信自身の目的は王法と仏法の回復にありました。筋目とは道徳や正義の規範であり、筋目に従えば、世は正されると彼は信じたのです。謙信の「筋目」は王法と仏法の回復という(聖武天皇以来の鎮護国家を目指す)信念で、武神毘沙門天を熱心に信仰し、本陣の旗印にも「毘」の文字を使っています。彼は子供の頃から曹洞宗の林泉寺で天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)のもとに参禅し、「宗心」という法名を受けました。晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺の法印(僧侶の位階の最上位)で、無量光院住職であった清胤(せいいん)から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、阿闍梨権大僧都(あじゃりごんのだいそうず)の位階を受けています(真言宗では僧侶の資格である阿闍梨の位を授ける儀式が伝法灌頂で、16段階ある位階の上から8番目が権大僧都)。ここで留意すべきは謙信の豊かな仏教遍歴の中に浄土真宗が入っていないことで、一向一揆と謙信の関係は極めて政治的です。
謙信は越後の鎮守として関山権現を信仰していました。1570(元亀元)年彼は領内の人々の安全、繁盛を南方の妙高山に祈願するため、林泉寺の和尚に「倶利伽羅梵天尊像(くりからぼんてんそんぞう)」の竜旗を下賜し、代参を依頼しました。越中出陣の際、五穀豊穣所領安全を祈願して倶梨加羅竜の旗を持ち、妙高山に登ったと伝えられています。
*1570年12月、上杉輝虎は法号「不識庵謙信」を称し、それ以降、上杉謙信となります。1571(元亀2)年2月、謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣し、椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃しました。康胤は激しく抗戦を続けましたが、上杉軍は城を落城させます。でも、康胤は越中一向一揆と手を組み、謙信への抵抗を続け、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めました(越中大乱)。
**妙高山山開きの旧暦6月23日に上越市本町にある春日神社から妙高山へ登山し、御来光を拝む行事「御剣祭南方山(南方位山、なんぼいさん)」が続いています。「南方讃」は声明の曲の一つとして有名です。ナーガールジュナ(龍樹)は仏典を求める旅の途中、インドの南方で周囲に流れる旋律を耳にします。彼はこの旋律が宇宙を貫く普遍の真理、密教の響きであると知り、これを「讃」と呼びました。「なんぼいさん」の語源として「南無梵天讃」、「南無阿弥陀仏讃」などの説があります。関山三社権現の中尊は聖観音菩薩であり、加賀の白山妙理大菩薩の本地仏は十一面観音菩薩です。妙高山頂には八大竜王が生息するという興善池があった(?)ようで、これらのことは妙高山信仰に加賀白山系の観音信仰が入っていることを示していて、妙高山登山の「なんぼいさん」は竜神信仰と結びついていたと説明されるのですが、この説明は私にはよくわかりません。