素人の初歩的疑問:南方讃、南方山?

 「義の人」と呼ばれる謙信は、自らの書状や願文で「義」を使わず、「筋目」を使っています。彼の筋目は今風には「正義」のこと。謙信自身の目的は王法と仏法の回復にありました。戦乱の原因が利己的な感情や利権をめぐる対立、浅はかな思慮にあり、それが慣例や伝統を破壊することになる、と謙信は考えました。筋目とは道徳や正義の規範であり、筋目に従えば、世は正されると彼は信じたのです。

 1536(天文五)年 7歳の謙信は林泉寺天室光育のもとで学問修行を始め、筋目を重んじ、毘沙門天を熱心に信仰し、旗印にも「毘」の文字を使いました。上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し、「宗心」という法名を受けました。その後、謙信は真言宗に傾倒し、高野山に参拝し、無量光院の清胤(せいいん)と出会うことになります。謙信は清胤を師として剃髪、法体します。この時、謙信45歳、清胤53歳。謙信は清胤から伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けています。

 上杉謙信は越後の鎮守として関山権現を信仰していました。1570(元亀元)年、彼は領内の人々の安全、繁盛を南方の妙高山に祈願するため、林泉寺の和尚に「倶利伽羅梵天尊像(くりからぼんてんそんぞう)」の竜旗を下賜し、代参を依頼しました。あるいは、1570(元亀元)年の越中出陣の際、五穀豊穣所領安全を祈願して倶梨加羅竜の旗を持ち、妙高山に登ったと伝えられています。いずれにしろ、その後は妙高山山開きの旧暦6月23日に山麓の各村が小印の旗を持って登山し、その先達が五位野氏ということになりました。五位野氏の先達は江戸時代までで、明治以降は高田春日町(現上越市)の竹内氏に代わりました。

 上越市本町にある春日神社から妙高山へ登山し、御来光を拝む行事「御剣祭南方位山(なんぼいさん、なんぽうさん)」が2021年7月22、23の両日に行われました。上杉謙信妙高山信仰に由来する行事で、今年は451回目(その様子は以下のブログを参照)。

https://blog.goo.ne.jp/miyanao5630/m/201307

https://blog.goo.ne.jp/miyanao5630/e/633c692e7bd68dc83c3ee5e27774838c

https://nordot.app/791908082311446528?c=581736863522489441

 

 ここで私の疑問です。「南方讃」は声明の曲の一つとして有名です。ナーガールジュナ(龍樹)は仏典を求める旅の途中、インドの南方で周囲に流れる旋律を耳にします。彼はこの旋律が宇宙を貫く普遍の真理、密教の響きであると知り、これを「讃」と呼びました。でも、上記のコンテクストでは妙高山山開きの行事を指し、「南方山」とも書かれています。これらの間の関係は私には謎なのです。「なんぼいさん」の語源として「南無梵天讃」、「南無阿弥陀仏讃」などの説があります。関山三社権現の中尊は聖観音菩薩であり、加賀の白山妙理大菩薩の本地仏は十一面観音菩薩です。妙高山頂には八大竜王が生息するという興善池があった(?)ようで、これらのことは妙高山信仰に加賀白山系の観音信仰が入っていることを示していて、妙高山登山の「なんぼいさん」は、竜神信仰と結びついていたと説明されるのですが、私にはこれも納得がいかないのです。

 妙高山頂には九尺四方の阿弥陀堂があり、木曽義仲が納めた弥陀三尊像が安置されていました。関山三社権現の祭礼で旧暦の6月17日、18日に山頂から如来様を神社まで下ろす行事があり、高田藩の百姓が登山道の道刈を担当しました。祭が終わると、6月23日の山開き行事「なんぼいさん」の中で、如来を山頂に返しました。現在は三尊ともに関山神社境内の妙高堂に移されています。

 妙高堂は明らかに仏教の建物で、明治時代初頭に発令された神仏分離令後に山頂から現在地である関山神社境内に移されました。また、関山神社の本尊も明治に入ってから秘仏化されています。これらの理由はそれぞれ何なのか、これも私には大きな疑問なのです。