私には神仏習合の生々しい経験がない。寺院と神社は別の宗教の建物であり、妙高や戸隠に神が宿るとも思わないし、関山神社の御神体が菩薩や阿弥陀と言われてもピンとこない。これは私だけでなく、明治以降の人ならほぼ同じではないか。神仏習合の実際の信仰形態を実際に経験している人はとても僅かだろう。
神仏習合の時代が長く続き、善光寺、戸隠神社、妙高山、関山神社などが混然一体と連携していたと説明されると、素人の私は素直に頷くしかないのだが、そのように主張する歴史家たちが神仏習合をどのように理解しているのか、それが私にはよくわからないのである。例えば、仏教内部の習合を象徴するような善光寺は仏教内の異宗派、修験道等が混在し、私にはカトリックとプロテスタントの習合を連想させ、戸隠神社や関山神社は神仏習合としてキリスト教とイスラム教が習合したような気持になり、習合のもつ曖昧さが何とも不可解なのである。
親鸞は善光寺の勧進聖として関東に赴いたという説がある。善光寺が炎上すると、その再建のために善光寺は勧進聖をあちこちに派遣している。この善光寺の勧進聖たちの活動が善光寺阿弥陀仏への信仰を盛んにしていく結果となり、善光寺阿弥陀三尊像の模像が各地に作製されるようになる。親鸞が善光寺の勧進聖であったかどうかはわからないが、彼が善光寺信仰や勧進聖の活動ルートで布教活動を行なったことは確かなようである。浄土真宗と善光寺の習合の仕方は詳しく調べてみたいと思っている。
現在、善光寺山内にある天台宗の大勧進と浄土宗の大本願の二大寺があり、法要など日常の行事を交替で勤めている。天台宗の大勧進の下には25院、大本願の下には14坊があり、これら2つの宗派によって善光寺は管理・運営されている。 それぞれの宗派を代表する貫主(大勧進)と上人(大本願)が善光寺の並立する住職であり、上人は尼僧である。善光寺には、これまで一遍、親鸞、重源、良寛という様々な宗派の僧が参拝していて、日本宗教の習合の特性を巧みに具体化した例になっている。
私の子供の頃の経験から、善光寺は私の周りの浄土真宗の寺とは違ったし、修験道などまるで知らなかった。神仏習合による妙高市の宗教史を善光寺、戸隠神社、関山神社、妙高山の修験道によって説明することは、少なくとも浄土真宗が広がるまでの説明としては了解できても、門徒がほとんどを占めるようになった近世以降の説明にはつながっていないと思えて仕方ないのである。
神仏習合の時代に私の先祖たちはいったいどのような仕方で一心不乱に門徒であり、氏子であることができたのか、その時代を生きていない私にはやはりわからないのである。