関山神社の性格から

 関山神社火祭りは妙高山信仰から生まれ、この7月15日に仮山伏の棒術、松引き、16日に神輿渡御が行われます。そこで、関山神社について暫し考えてみましょう。その前に、

 

YouTube妙高山その知られざる信仰と歴史」

https://www.youtube.com/watch?v=InTdD5_p9bk

 

を見ると、関山神社に関する歴史を含む説明を15分ほどで受けることができます。実際、とても分かりやすい説明と美しい画像を楽しむことができます。その後に、私の話を読んでみて下さい。

 妙高市の関山神社は江戸時代まで「関山権現社」と呼ばれていました。「権現」とは、仏や菩薩が人々を救うために仮の姿(=神)になって現れることで、現れた神のことも権現と呼びます。一方、元の仏は本地仏(ほんじぶつ)と呼ばれます。このような神仏の同一化は平安時代に生まれた神仏習合を説く本地垂迹説によるもので、神と仏が結びつき、「・・・権現」と呼ばれるようになりました。仏が主で、神が従ですから、本来なら仏神習合と呼ぶべきなのでしょうが、なぜかこれまで神仏習合と呼ばれてきました。

 本地垂迹説は、神の本地は仏で、人々を救済するために仮の姿の神としてこの世に現れる、という主張です。天照大神の本地は十一面観音(または大日如来)です。権現号は明治時代の神仏分離により使用が禁止されましたが、庶民の間では権現信仰が根強く残り、日吉神社の「山王権現」や春日大社の「春日権現」などのように、権現名で呼ばれる神も健在です。徳川家康を祀った東照宮も「東照大権現」として有名です。「権」は「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が仮に神の形を取って現れたことを表しています。

 さて、関山神社縁起によれば、妙高山和銅元年(708)に裸行上人が登山し、弥陀三尊の来迎に会い、頂上に阿弥陀三尊を祀り、翌二年に神託を受けて麓の関山に社殿が造営され、「関山三所権現」と呼ばれることになります。これらは伝承で、後世の創作ですが、裸行上人の開基が意味するのは、熊野那智山修験道の影響があったと思われます。また、山頂に阿弥陀三尊を安置したのは、阿弥陀三尊が一光三尊仏であることから信州善光寺信仰の影響が考えられます。関山三所大権現は、主尊が関山大権現(祭神国常立尊(くにのとこたちのみこと)、本地聖観音)、左脇侍が白山大権現(伊弉冊尊(いざなみのみこと)、本地十一面観音)、右脇侍が新羅大明神(素戔嗚尊(すさのおのみこと)、本地文殊)ですが、古くから祀られていた本尊に脇尊が加えられて三所になったと思われます。

 戸隠神社と関山神社に共通するのは、共に神仏習合の典型例であり、修験道と関係が深い点です。修験道の教義や世界観、修行方法には仏教、特に密教が取り入れられていて、そのため密教の知識がないと、修験道を理解することはできません。中世より多くの密教僧が修験道を伝えてきました。修験道は日本古来の漠然とした宗教的心情を、主に仏教思想を利用して整理し、さらにその他の宗教をも習合して形成されてきた独特の宗教なのです。

 現在の戸隠神社は、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社の五社から成り立っていますが、明治以前は「戸隠山顕光寺」と呼ばれ、奥院、中院、宝光院からなっていました。既に平安時代には神仏習合の一大山岳霊場として多くの修験者が集い、戸隠三千坊と言われるほど、修験道の聖地として歴史を刻み、戸隠山の険しい岩峰の姿から、厳しい修行の場でした。明治に入り、神仏分離により仏像や仏教的なものは全て取り除かれ、名前も戸隠神社と改められ、現在に至ります。この経緯は関山神社とほぼ同じで、修験道別当寺、神仏分離など、まるで兄弟のようによく似ています。

 ところで、「別当(べっとう)」は「兼務する」という意味で、寺院が兼務して神社を管理する場合に使われました。神社を管理するために置かれた寺院が別当寺、宮寺(みやでら)、神宮寺(じんぐうじ)などと呼ばれました。ですから、宝蔵院が関山神社を、顕光寺戸隠神社を管理していたということになります。このような管理体制は本地垂迹説にもとづいているため、別当寺の方が神社より優位な立場にあり、別当寺が神社の祭祀を仏式で執り行い、神前読経があげられ、それを取り仕切っている僧の代表が「別当」と呼ばれていました。ですから、「別当」は「宮司」よりも上位の立場にありました。

 このように関山神社の歴史を補足してくると、多くの疑問が湧き起こってきます。私のいた文学部には実証的な宗教の歴史を扱う宗教学があり、宮家準先生が修験道を研究されていました。日本山岳修験学会の『山岳修験』第44号は妙高山特集で、小島正巳、鈴木昭英らの論文が掲載されています。斐太神社と関山権現社の違いを江戸時代までの人々、そして明治以降の人たちは実際にどのように考えてきたのか、それが私の最初の疑問です。私自身、寺と神社が一緒になった信仰形態の具体的な姿をうまく想像できないのです。例えば、宝蔵院と関山神社をそれぞれ礼拝するとは、あるいは関山権現を礼拝するとは一体どのように拝めばいいのか、本当のところ私にはよくわからないのです。

 関山神社や戸隠神社の今の姿から、神仏習合に対する私の実感は神社が主で、寺が従なのですが、形式的には仏が主で、神が従なのが神仏習合した修験道の姿です。本地垂迹説も仏教が主であることを説いていますから、関山権現は江戸時代には寺と思われていた筈です。すると、関山地域に関山権現の氏子がいたことは想像できますが、果たして宝蔵院の檀家はあったのでしょうか。既述のように妙高地域は浄土真宗の独占地域ですから、関山の寺も浄土真宗の寺で、住民のほとんどは門徒だった筈です。

 結局、私には神仏分離はわかるのですが、神仏習合はわからない信仰形態なのです。

 

 本地垂迹説による神仏習合とそれを実現した各地の修験道や権現社の信仰について、私にはよくわからないと述べたのですが、誤解を生みそうなので補足しておきます。

 新年に神社やお寺に参拝し、神と仏をそれぞれ拝むことは私にも経験があり、それはわからない訳ではありません。神社や寺に参った後で、教会の新年ミサに出席することも私には特別不思議ではありません。これは自分が多神教の信者であればこそ可能なことで、それが多神教のメリットだと思っています。

 私がわからないと不満を表したのは、仏の仮の姿が神であるという神仏習合の主張を受け入れて、仏と神を拝むことなのです。神社で拝んでいる私は仏を拝んでいるのでしょうか、それとも神を拝んでいるのでしょうか。いずれを拝んでいるのか不可解という結果をもたらす危険が神仏習合にあり、神と仏を判然と区別し、別々のものだと分離することが必要だと考えたのが明治政府でした。それが行き過ぎて、廃仏毀釈となる訳です。神仏分離によってそれぞれを別々に拝むことは今でも普通の日本人が平気で行っていることで、私もその一人なのです。ですから、新井別院に参拝し、その後に関山神社に参拝することは奇妙なことではなく、それぞれ仏と神に対して別々に拝むわけです。ところが、関山権現となると、仏が神の姿を使って祀られている訳ですから、私は仏を拝んでいるのか、神を拝んでいるのかわからなくなるのです。

 旧約聖書コーランは共通の話をたくさん持っています。もちろん、相容れない部分がより重要で、ある部分は習合し、別の部分は分離していても、基本的には対立している訳です。そのような対立関係が仏教と神道の間にあるのか問い直してみると、何とも曖昧模糊としているのです。ですから、神仏習合神仏分離の違いも案外僅かで、そのため神仏対立ができないのかも知れません。