我が故郷での親鸞と謙信(4)

(1)謙信の鎮護信仰

 謙信の信仰遍歴は既に詳しく述べました。最後は高野山の無量光院の清胤に帰依し、真言密教への信仰を深め、1574(天正2)年謙信45歳で正式に仏門に入ります。1578(天正6)年、春日山城内で謙信は倒れ、四日後に逝去。「不識院殿真光謙信法印大阿闍梨」の法号は彼の信仰を適確に表現しています。謙信は春日山本丸に不識院、大乗寺を建立していましたが、真言密教霊場の「高野山=金剛峰寺=空海」に倣って、「春日山大乗寺=不識院」を構想していたのです。

 自らを毘沙門天の化身と称した謙信は、聖と俗の場所を高野山に倣って一致させていたのです。謙信は春日山城内で亡くなると、そのまま北の丸に自身が建立した不識院に葬られました。つまり、謙信は居城の春日山城の中核部分に埋葬されたのです。さらに、上杉家が会津、そして米沢へと移封すると、謙信の遺骸もこれにともなって移され、会津若松城、続いて米沢城の本丸に安置されています。上杉家は、越後から会津へ移され、関ヶ原合戦の後、米沢・福島三十万石に減封され、江戸時代には十五万石にまでなります。そのような状況下でも米沢藩は、本丸に家祖上杉謙信の御堂を建立し、節目の法要を欠かそうとはしませんでした。

 戦前の別格官幣社のうち、主祭神となった戦国武将は六人で、その中に謙信も含まれています。徳川家康日光東照宮、後に久能山東照宮)、豊臣秀吉(豊国神社)、織田信長建勲神社)、毛利元就(豊栄神社)、上杉謙信上杉神社)、前田利家尾山神社

上越市には春日神社と春日山神社があり、春日神社は奈良の春日大社の分霊を祀り、春日山神社は米沢市上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀っています。「春日山」という地名、山名は春日神社の「春日」に由来します。春日山神社は1887(明治20)年、旧高田藩士小川澄晴(小川未明の尊父)が発起し、前島密らの援助を受けて1901年に創祀されています。妙高山頂へ謙信の代参で登山をするのが南方位山(なんぼいさん)で、正式には「御剱祭南方山」で、その通称が「南方位山」。これは春日神社の行事です。

(2)親鸞の神祇不拝

 「神祇」は天神地祇(てんじんちぎ)の略で、天神は「あまつかみ」と呼ばれ、天上で生まれ、あるいは天上から降(くだ)った神のことで、地祇は「くにつかみ」と呼ばれ、地上に天降った神の子孫、あるいは地上で生まれた神のことです。「神祇不拝」とはそれら神々を拝まないことで、神祇不拝を主張したのが親鸞です。

 親鸞の教えに忠実な門徒であれば、他力本願の阿弥陀信仰を持つことと神社に祀られている神々を拝むことが両立しないと考える筈です。浄土真宗一神教に近い性格を持ち、他の宗派とは激しく対立します。ですから、門徒が氏子になることはあり得ないというのが当たり前の筈なのですが、その後の歴史を見れば、そうはなっておらず、氏子の中に門徒がいてもおかしくないどころか、氏子と門徒は共存できるというのが実際の姿で、正に「神仏習合」でした。奈良時代以来、仏教と神道は習合しながら、互いを守り合ってきました。その具体的な姿が修験道であり、戸隠神社や関山神社のような「…権現社」と呼ばれる神社です。明治になってそれが崩れ、仏教と神道は分離され、別々に拝まれることになりました。

 死んだ人間や動物などの霊魂を神社に祀ると、そこに留まり、人々に幸せや不幸を与える力を持つと信じられている神が「実社の神」です。例えば、日光東照宮徳川家康上杉神社上杉謙信明治神宮明治天皇です。一方、「権社の神」は仏や菩薩が神として仮に現れていると解釈され、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と呼ばれています。「本地垂迹」とは、仏が仮に神となって現れるということで、本地が仏、神が垂迹です。この教えを神社の神にあてはめて、日本の神を仏や菩薩の権現(ごんげん、仮の姿のこと)であるとしたものが、権社の神です。でも、明治時代に神仏分離令が出され、現在は権社の神は消えました。神が人の勝手な都合で生まれたり、消えたりするとは何ともおかしな話で、およそ宗教らしからぬことですが、これは何も神道だけの話ではありません。宗教教義や宗教儀礼は人がつくり、人が変えてきたのです。

 人の欲望は限りなく、それが不幸を生み出すと考えた一人が親鸞。財産、地位、名誉や家族ではなく、「後生の一大事」の解決によってのみ幸福になれると説くのが仏教です。仏教の目的は、後生の一大事の解決です。ところが、後生の一大事を解決する力があるのは阿弥陀如来だけですから、後生の一大事を阿弥陀如来に解決してもらうというのが親鸞の教えで、それは解脱することです。『歎異抄』にも「われもひとも、生死を離れんことこそ、諸仏の御本意」と述べています。

 したがって、親鸞の教えを信じる門徒であれば、どの門徒も神祇不拝で、後生の一大事の解決を目指すことになる筈なのです。ですが、それは実現するどころか、寺と神社が共存する生活世界ではほぼ誰も実現を望まないのです。信教の自由が認められている世界では寺院と神社が共存している風景に何の不思議もありません。ところが、門徒がほぼ独占状態の妙高市でも他と同じように共存しています。妙高市には神社は僅かしかないというのが真面目な門徒の住む妙高市の姿の筈なのですが、そんなことはなく妙高市の神社の数や祭りは近隣の町と何ら変わりはありません。ですから、これが神仏習合の実際の姿だと見極める必要がありそうです。つまり、論理的にはあり得ないのですが、「真面目な門徒は真面目な氏子である」ことが真であり、それが日本の神仏習合の実際の姿なのです。

**上記の文章を謙信、親鸞の順に読むと、謙信の方が古く、親鸞は斬新だと思う人が必ずやいる筈です。でも、謙信は親鸞より400年近く後に生まれているのです。