『ふるさとの歩み わたしたちの斐太北』の補足説明の改訂

 上記の冊子は2021年3月に妙高市の斐太北小学校区学校運営協議会によって刊行されました。冊子の年表部分はとてもしっかりできていて、斐太地域の歴史がよくわかります。いくつか重要な事柄があり、より詳しい説明があればさらに役立つと思われます。そこで、幾つか説明を補足し、妙高市以外の方々にもわかるように説明してみました。対象は主に中学生ですが、高校生や父兄の方々にも役立つ筈です。

 さらに、『斐太歴史の里の文化史 鎮守の森の文化財と斐太神社を訪ねて』(妙高市教育委員会、2014)を読むための補助にもなる筈です。

 

(1)国分寺とエミシ

 奈良時代を代表する元号が「天平(てんぴょう)」です。この時代に唐の影響を強く受けた「天平文化」が開花しますが、天災、疫病の流行などが次々に起こり、決して平和で安泰な時代ではありませんでした。聖武天皇は、そのような厳しい状況に対して中国伝来の「仏教」によって国を守ろうと考えました。鎮護国家(ちんごこっか、国を守る)のために仏教を信仰し、仏教の力で国を守り、治めようとしたのです。

 国分寺(こくぶんじ)は741(天平13)年に聖武天皇が仏教による国家の鎮護のために日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。越後国にも国分寺が造られましたが、それを引き継ぐ寺院が五智国分寺(ごちこくぶんじ)で、新潟県上越市五智にある天台宗の寺院です。

 

坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)と「エミシ」

 坂上田村麻呂平安時代初期の武将です。785(延暦4)年従五位下となり、越後守(えちごのかみ)などを兼任していましたが、征夷大将軍となり、802年胆沢(いさわ)城を築き鎮守府(ちんじゅふ)をここに移し、蝦夷(エミシ)平定に大きな功績を残しました。

 さて、「蝦夷」は「エミシ」とも「エゾ」とも読むことができます。読み方が違うのはなぜでしょうか。日本に小さなクニが生まれたのは弥生時代のことで、やがてクニとクニが戦い、より大きなクニができていきました。中でも、近畿地方の「ヤマト政権」は中国大陸や朝鮮半島と交流し、進んだ文化を取り入れて、強大なクニ(今の西日本)になりました。天皇中心の政治のしくみが整い、平城京奈良時代)や平安京平安時代)といった都ができました。これが日本の原型です。

 この頃の関東・東北地方は「東国」と呼ばれ、日本の外にある国でした。農耕を営み、同じような生活をしていても、日本国民ではなく、日本国民と区別するために「エミシ」と呼ばれていました。奈良時代の末、都では土木工事や軍備増強のため、財政が厳しくなり、「エミシ」を統合し、税を徴収しようと、大軍が送られました。平安時代に入ると、桓武天皇坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、「エミシ」を屈服させようとしました。彼の活躍で、岩手県の北部までが「日本」に統合されます。でも、さらに北には、まだ「日本」の支配に属さない人々がいました。これらの人々が「エゾ」と呼ばれたのです。

 

(2)延喜式(えんぎしき)

 10世紀に編纂された『延喜式』は、古代の役人(官人)の業務マニュアル、つまり行政の仕事の細則集です。その分量は全50巻、約3540条に及び、役人が職務遂行のために諸規定、祭祀(さいし)や儀礼、宮中の備品や調度類とその原材料、食品、医薬品、繊維製品等々、実に様々なものを記した「古代の百科全書」です。醍醐天皇の命により905年に「養老律令」の施行細則を定めたのが始まりで、927年に完成します。

 「格」、「式」は古代日本の基本法である律令の施行細則で、格と式の明確な区別はありません。『延喜式』はほとんどが現存し、平安時代の社会を知るための貴重な歴史史料となっています。律令の施行細則は既に奈良時代から必要に応じて所管部署で作成、施行されていましたが、しっかり統合されていませんでした。そこで、整理され、編纂されたのが『延喜式』です。

 『延喜式』(50巻)には、神祇(じんぎ、神々のこと)関係の法規が冒頭10巻にわたり記されています。その巻9「神名上」、巻10「神名下」は、それら神祇関係の法規が適用される神社名を列記したもので、この2巻、つまり『延喜神名式』(『延喜式神名帳(じんみょうちょう)』)に記載された当時の官社3132座が「式内社」と呼ばれています。それゆえ、それら神社は『延喜式』成立の927年以前に創建された、由緒ある神社ということになり、斐太神社もその一つなのです。

*『延喜式神名帳』に記載された神社を「延喜式の内に記載された神社」という意味で延喜式内社(えんぎしきないしゃ)、または単に式内社といい、一種の社格(神社の格式)になっています。「神名帳」は当時の神祇官が作成した官社の一覧表のことで、国・郡別に神社が羅列され、祭神、社格などが記されています。越後国神名帳には(妙高地域では)大神社、斐太神社が挙げられています。その大神社の一つが関山神社で、斐太神社も関山神社も共に式内社ということになります。

 

(3)斐太神社と関山神社

 妙高市の代表的な神社は山間部にある関山神社と平野部にある斐太神社です。斐太神社だけでなく、関山神社も是非直接訪れてみて下さい。既述のように斐太神社も関山神社も式内社ですが、それぞれの神社としての特徴は随分異なります。「出雲大社系の斐太神社」、「修験道の関山神社」というのが二つの神社を特徴づけるキーワードになるでしょう。

 斐太神社は伊勢神宮出雲大社の両方の流れをくむ神社です。大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神に、事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと、諏訪大神)を祀っていることから、出雲大社諏訪大社とよく似ています。でも、かつては天照皇大神も祀られていたことから、出雲系だけでなく、伊勢神宮の影響もあったことがわかります。出雲文化が北陸から頸城野を通り、信州へ、そして諏訪にまで到達することを示しているのが斐太神社の存在です。

 さて、日本の宗教の特徴の一つが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」ですが、その神仏習合の具体例が「修験道(しゅげんどう)」で、それを見事に示しているのが関山神社です。山岳信仰と仏教が習合し、江戸時代には宝蔵院という別当寺(べっとうじ、神社を管理する寺)と一体化していたのが関山神社です。近くにある戸隠神社も同じような神仏習合の神社です。

修験道

 熊野那智大社の御本尊は如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)で、創建は4世紀とされています。仁徳天皇(312〜319)の時代、インドから来た裸形上人(らぎょうしょうにん)が各地を巡歴し、那智大滝で修行しました。その後、役行者(えんのぎょうじゃ)、弘法大師(こうぼうだいし)等の高僧が修行し、神仏習合の場となりました。修験道は自然のものや現象に霊が宿るとして信仰の対象にした古い神道山岳信仰と仏教が習合して成立しました。日本各地の霊山を修行の場とし、「験力(げんりき)」を獲得して人々の救済を目指す宗教です。妙高山も霊山とされ、関山神社はその裸形上人が開基とされています。神道の八百万(やおよろず)の神々は様々な仏が化身として現れたもの、つまり、権現(ごんげん)であるとされ、関山権現の祭神もそれぞれ仏の生まれ変わりとされました。

 

(4)親鸞

 年表の鎌倉時代には親鸞(しんらん)、恵信尼(えしんに)、覚信尼(かくしんに)の名前が出てきます。ここでは親鸞について述べますが、さらに詳しく知りたい人は次の<補足の補足>の文書を誰かに読んでもらい、より詳しく知るようにしてください。

 名号(みょうごう)と呼ばれる「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は、私には「なまんだぶ」と祖父母が仏壇の前で唱えていた念仏ですが、今でもそれを聞く人がいるかも知れません。妙高市の寺院の9割以上は浄土真宗ですから、市民の多くは門徒(もんと、浄土真宗の信者)です。妙高市浄土真宗の独占状態が続いてきました。では、どうして妙高市はこれほど門徒が多いのでしょうか。その理由は親鸞にあります。彼は1173年日野有範(ひのありのり)の長男として京都に生まれ、1181年に出家し、比叡山で修行することになりました。以後20年も比叡山で修行を続けるのですが、仏教の真理(悟り)を見出すことができず、1201年京都の六角堂で「法然(ほうねん)に会え」という聖徳太子のお告げを聞きます。親鸞の師である法然は浄土宗の開祖で、その教えのエッセンスは「専修念仏(せんしゅうねんぶつ)」と呼ばれ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰もが浄土(じょうど)に往生(おうじょう)できるというものでした。南無阿弥陀仏の「南無」は「頼りにする、信仰する」という意味で、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏様、私はあなたを信じています」という意味です(キリスト教の「アーメン」は「その通りです」という意味で、似ていなくもありません)。法然のもとで親鸞は6年間を過ごしました。二人とも「南無阿弥陀仏と唱えれば、人は救われる」という教えに天台宗とは違う新しい可能性を見出したのです。自然の災害から逃れ、国の安寧を求めるのが神道やそれまでの仏教だとすれば、彼らは個人の心の苦悩を解決し、人々を救う仏教を目指したのです。

 1207年、「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」と呼ばれる事件が起こります。法然の弟子が女官とスキャンダル事件を起こしたのです。後鳥羽上皇の怒りは浄土宗にも及び、法然とその弟子たちは京都から追放されました。親鸞流罪となり、越後国へ流されることになります。親鸞が35歳の時です。

 親鸞直江津の居多ケ浜(こたがはま)に上陸し、五智国分寺本堂脇の竹之内草庵に住みました。約1年をそこで過ごし、次に移り住んだのが現在の国府別院の地である竹ケ前(たけがはな)草庵です。彼はこの越後時代に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名乗るようになりました。

 1211年11月越後に来て5年後、法然とともに赦免となった親鸞は、師との再会を願いつつも越後に留まります。1214年、親鸞42歳で、関東での布教活動のため家族や門弟たちと共に越後を離れ、信濃善光寺を経て常陸(ひたち、今の茨城県)に入った親鸞は、以後20年間を精力的に布教に努め、主著となる『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書き始めます。60歳を過ぎたころ、妻子と共に京都に帰ります。帰京して『教行信証』を完成させ、1262年親鸞は90歳の生涯を閉じます。

 ところで、親鸞と結婚し、越後から常陸、京都へと同行したといわれる恵信尼(えしんに、1182(寿永元)年-1268(文永5)年?)ですが、驚いたことに、何世紀も経た1921(大正10)年に真実が明らかになります。恵信尼親鸞が亡くなる数年前に末娘の覚信尼(かくしんに)に親鸞の世話を任せ、郷里の越後板倉(上越市板倉区)に帰っています。その頃京都にいる覚信尼に宛てた文書『恵信尼消息』10通が、時を超えて西本願寺の宝物庫から発見されたのです。

親鸞は笠間郡稲田郷(茨城県笠間市稲田町)に稲田禅坊(いなだぜんぼう)を開きました。彼はこの禅坊を浄興寺(じょうこうじ)と名づけました。彼は浄興寺で十余年過ごし、京都へ戻ります。この浄興寺は紆余曲折を経て、高田(現上越市)に移ります。それが現在の浄興寺です。

 

<補足の補足>

・日本の仏教:最澄空海から法然親鸞

 日本への仏教伝来は6世紀。新羅に対抗しようと百済聖明王は日本の援軍派遣を願い、当時最先端の仏像や経典を日本に贈りました。仏教受け入れに賛成の蘇我氏、反対の物部氏が争い、蘇我氏が勝ちます。そして、仏教を本格的に研究し、それを政治に利用しようとしたのが聖徳太子でした。

 奈良時代になると、インドや中国から仏教の輸入が盛んになります。その仏教は倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律(りつ)、法相(ほっそう:唯識)、三論(さんろん)、華厳(けごん)の六つの宗派で、「南都六宗(なんとろくしゅう、なんとりくしゅう)」と呼ばれました。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国の政策として仏教の普及が進みました。そして、平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革=宗教改革でした。

 平安時代初めに、奈良仏教から抜け出し、仏教の改革を行うべく最澄(さいちょう)が中国から天台宗をもたらし、平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たします。そして、最澄天台宗はその後の法然親鸞らの新興仏教が興こるきっかけを与えることになります。また、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海(くうかい)が密教(みっきょう)を輸入します。空海長安密教を受け継ぎ、日本に輸入し、密教を完成させます。密教では釈迦の悟りを追体験することを目指し、宇宙を信仰の対象にして様々な秘術を用いて修行しますが、空海は大乗、小乗どちらも包含する壮大なシステムの構築を考えていました。

 そこで、密教について考えてみましょう。釈迦の悟りを知るには二つの方法があります。一つは釈迦が残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注解、解釈することによって悟りに達する方法です。これは古典テキストを学習することであり、研究や教育の一般的な方法そのものです。もう一つは釈迦が悟りに達した状況を直接に追体験する直観的な方法で、これが密教です。

 釈迦が悟りの境地に達した時が仏教の始まりだとすれば、釈迦は自らの悟りについてすぐには話さず、沈黙の期間が21日ありました。21日経って初めて他の人に話し始め、それを聞いた弟子たちが釈迦から話を聞くという仕方で仏教がスタートしたのです。釈迦に心境の変化を起こさせたのは梵天(ぼんてん、古代インドで世界の創造主とされた神)ということになっています。これが「梵天勧請(ぼんてんかんじょう、梵天が釈迦に「悟りを開いたのであれば、それを他の人に対して説け」と勧めたこと)」で、上座部(じょうざぶ)経典に述べられています。このように22日目以降に釈迦が話し始めた教説が「顕教(けんきょう)」と呼ばれます。ですから、顕教では釈迦の言葉を通して教説を学ぶということになります。ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、そのときの釈迦と同じ精神状態を追体験しようとする考え方があり、これが「密教」です。最初の21日間の釈迦、すなわち釈迦の口から出る言葉(サンスクリット語の「真言(しんごん)」)、姿勢、意識、心情をそのまま全部追体験しようという試みです。具体的には真言を唱えながら印契(いんげい、手指の組合せで菩薩の種類や特徴を示したもの)を結び、いわゆる催眠状態を目指すわけで、今風に言えば「超常体験」のことです。

 「悟り」と「悟りの告白」は違いますが、「悟りの内容」に違いはない筈です。ですから、顕教密教の違いは根本的に異なるなどというものではなく、互いに補完し合うものであり、何かを知るために顕教密教の違いがあるかと言えば、それはありません。知識は言葉で表現されるものですから、意識体験が知識獲得に必要でも、獲得された知識は言語によって表現されなければなりません。実験や観察は言語ではなく、それがないと実証的な知識は手に入りません。実験や観察と同じように修行体験によって知識が手に入ることはあるかも知れません。でも、手に入った知識は言語で表現されなければ知識とは呼べません。

 本題に戻ります。空海密教には二つの重要な特徴があります。一つは「ご利益」です。病気が治るとか、河川の土木工事がうまくいくなどといった一般庶民に直接関係のある「ご利益」を実現してみせることによって、仏教信仰を庶民生活の中に定着させました。これは、「理屈抜きで信じる」という点で宗教に効果的でしたが、それと同時に密教がいかがわしさを持ったことも否定できません。もう一つの特徴は「即身成仏」です。空海は死期を悟った後、高野山奥の院で成仏したと伝えられています。これによって、成仏と死というものが直結することになります。

 最澄天台宗の仏典を持ち帰りましたが、その研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、空海が華々しく登場し、密教ブ-ムが起こります。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、そこには禅や浄土などが雑多に含まれ、基本的に何でも受け入れることができ、その結果、密教も自然に入ってしまった訳です。こうして天台宗は考え方の範囲が非常に広い宗派になり、天台宗自体の研究は最澄の帰国後の課題であったことから、研究しなければならないことがたくさん残り、宗教というよりは学術的な雰囲気の中で宗派が維持されたのです。

 とにかく、最澄空海が以後の日本仏教の原型を作ることになります。庶民の信仰という観点からは「お大師様」空海の役割は絶大ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要です。なぜなら、これ以後ほとんどの僧侶は完成された密教高野山ではなく、未完成の顕教比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材に修行、研究する場を提供したからです。そのような中で鎌倉時代に入ると、比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗の考え方に不満や疑問をもつことによって、新しい仏教を生んでいくことになります。

 鎌倉仏教は比叡山で修行した天才僧侶たちが自らの考えを実践するために生み出されました。その結果、釈迦の主張がこれらの僧侶たちの考えを通じて改めて認識され、日本中に広められることになります。

 浄土経系の宗派(浄土宗、浄土真宗時宗など)は、いずれも浄土三部経(『無量寿経(むりょうじゅきょう)』、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』、『阿弥陀経(あみだきょう)』)に基づき、念仏を唱えることをその宗教活動の中心に据えました。中でも浄土宗を始めた法然浄土真宗親鸞の活動が際立っています。法然阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶は寺をもつ必要がないと主張しました。浄土真宗の開祖は法然の弟子の親鸞ですが、彼は徹底的に「他力本願」とは何かを追求した人で、その結果として、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、そのために念仏至上主義を主張し、「南無阿弥陀仏」と唱えることを信者(門徒)に求めました。さらに、親鸞は仏教に「善悪」の考え方を導入しました。「善悪」はそもそも儒教の倫理的概念で、「空」を基本とする相対論的な仏教には本来存在しないものでした。

 次に、禅宗は座禅を修行の中心に据え、経典の言葉だけでは釈迦の教えは伝わらないと考えます。臨済宗では『般若経』と『法華経』を重要な経典と考えていますが、開祖の栄西(ようさい)は、教外別伝(きょうがいべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)と言われるように、言葉によらず、直観的にインスピレーションで悟りに至るということを重視します。座禅はそのためのものですが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅をする公案禅(こうあんぜん)でした。臨済宗栄西の後もしばらくの間は一休宗純夢窓疎石などの優れた禅師を輩出します。曹洞宗の開祖とされる道元も教外別伝、不立文字、以心伝心で特定の経典にこだわらず、座禅によって悟ることを目指すのですが、彼は何も考えないでひたすら座禅をする黙照禅(もくしょうぜん)を生み出しました。

 これら以外に『法華経』を最も大切な経典として、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する超過激な一派が日蓮の始めた日蓮宗です。

 釈迦の基本思想という点からこれら開祖を比べてみましょう。まず、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通している考え方です。特に、平等主義のうち権力に迎合しない姿勢はこれら開祖すべてに共通しています。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像はいらないと思っていますから、仏像を拝むということは考えていません。浄土教系においては、念仏を唱えることが最も重要であり、これは拝む行為ではありませんから、偶像崇拝の考えとは本質的に異なっています。いずれにせよ、これら鎌倉時代の天才僧侶たちは釈迦の考えに非常に近い思想(そして、浄土教系ではキリスト教に近い思想)を共有していたことを示しています。

 では、鎌倉新興仏教の天才開祖たちは仏教をどのように変えたのでしょうか。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、大乗仏教でわかりにくくなっていた仏教本来の姿がもっとわからなくなったということです。親鸞道元などの開祖の姿や主張がまず目立ち、釈迦の考え自体はその後ろに隠れてしまいました。つまり、浄土真宗は、釈迦の教えというよりも親鸞の宗教、曹洞宗道元の宗教と考えられるようなったのです。

 もう一つは、開祖たちが天才だったために、その開祖の教えを改善することを後継者たちが考えなくてもよかったことです。したがって、日本の仏教諸宗派はスタートが最高点で、その後は次第に衰えていくことになります。それは仏教史を見れば明らかで、鎌倉時代以後に新しい思想や哲学が諸宗派から出てくることはほぼなく、大した進展のないことがわかります。

 人々を掌握するために仏教をうまく利用したのは江戸幕府です。徳川家康は二人の僧侶を巧みに使いました。一人は天台宗の天海(てんかい)、もう一人は臨済宗の崇伝(すうでん)です。天海は最澄を真似て江戸の鬼門にあたる上野に寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣事件を起こしました。彼らは檀家制度を考案し、総本山-本山-末寺の体制を作りました。幕府はキリスト教を禁止しましたが、その際、人々はいずれかの寺院の檀家にならなければならないとして、宗門人別帳という全員の名簿を寺院に作らせて、戸籍と宗教の管理という役割を寺院に任せたのです。同時に本山末寺体制によって仏教教団の集金システムが完備されました。この二人の僧によって、仏教は本来の仏教思想から離れ、管理組織に変身していったのです。江戸幕府は実に巧みで、政治の指導原理を儒教とし、統治の手段として仏教寺院を利用したのです。

 明治維新は仏教を廃止しようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策を取りました。これによって仏教教団は危機的状況に陥ります。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けました。ただし、浄土真宗は資産運用に所領の拡張という方法をとりませんでしたので、経済力の壊滅をうまく逃れました。

 明治以降、西洋との交流が始まり、西欧の科学が入ってきました。実はこれが仏教にとって思想的復活の最後のチャンスでした。でも、この時点で復活できなかったために太平洋戦争時に各宗派こぞって戦争を肯定しました。その結果が今日の葬式仏教です。

 イギリスの言語学者ジョーンズは、仏教経典の言語であるサンスクリット語インド・ヨーロッパ語族に属することを発見しました。サンスクリット語パーリ語というインドの古い言語の研究を出発点にして、19世紀には既に仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいました。上座部仏教の経典が主な研究対象で、パ-リ語の阿含(あごん)経典群などが含まれていました。これらの研究内容が日本に入ってくると、釈迦の考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は、実は仏教ではないのではないかという疑問から、「大乗非仏説論争」が始まりました。その結果、大乗も釈迦の教説を正しく継承したものであること、またその大乗への変形は発展の必然的形態であるという肯定的な内容で決着しました。でも、この時点で既存の宗派に自らの教義を再点検、再評価するような動きがあれば、現在とは異なる姿が見られたのかも知れません。

 

(5)守護と守護代から大名へ:上杉家と長尾家

 鎌倉幕府の主従関係は、鎌倉殿(将軍)の御恩に対して、「御家人が奉公する」(主君に家来が仕えること)ことによってそれに報いることから成り立っていました。御家人全てが将軍の「直臣」で、そのため北条であれ、足利であれ、他の御家人を家来にすることはできませんでした。

 それが「建武の新政」によって御家人の呼称が廃止され、次のように変わりました。

(1)守護:国単位の行政・軍事指揮官で、幕府が任命する。

(2)守護代:守護から任され、守護が留守の時に代行する。

(3)国人領主:上記以外の領主。

 南北朝の内乱によって守護は任命された国の武士などを家来にし、農民に税や労役をかけ、一国を支配する領主に成長していきます。国を支配するまでに成長した守護は「守護大名」と呼ばれます。室町幕府の重要な役職は有力な守護大名たちが占めていました。将軍家の跡継ぎ争いと、守護大名細川氏と山名氏との対立が絡み合って、1467(応仁元)年京都を中心に応仁の乱が起こります。戦いは11年も続き、京都は焼け野原になりました。京都で戦火がおさまっても、各地の守護大名は領地を広げるために戦い、戦乱は全国に広がり、戦国時代に入りました。守護大名が戦乱に明け暮れているうちに、各地にいた家臣たちが地侍や農民をおさえる力を養い、実力で守護大名を倒していきます。このようにして実力で領国をおさめた大名が「戦国大名」であり、下の身分の者が上の身分の者を力で倒す 「下剋上(げこくじょう)」の時代になりました。

 上杉憲顕(のりあき)が越後守護に就任すると、家臣長尾景忠(かげただ)はその功によって守護代となりました。やがて景忠は越後を弟の景恒(かげつね)にまかせ、自らは上野国白井城山内上杉氏に仕え、上州長尾各氏の祖となります。その後、戦国時代まで上杉家と長尾家は時には協力し、時には戦い、越後の戦国時代を生き抜いていきます。守護大名の上杉家と、その守護代から戦国大名を目指した長尾家の関係は実に複雑なものでした。

 1548年長尾景虎(かげとら)は兄の晴景(はるかげ)と争って、春日山城主となります。彼は1553以来信濃川中島長野市)へ5回出兵します(川中島の戦い)。1561年鎌倉の鶴岡八幡宮上杉憲政(のりまさ)から上杉の姓と関東管領職を譲られ、名を上杉政虎上杉謙信)と改めます。その後も多くの戦いを続けますが、1578年関東出陣を前に脳溢血で急死してしまいます。

 その後の上杉家は当主の景勝が豊臣政権の五大老となりますが、関ヶ原の戦いで西軍側について敗北し、米沢に移転・減封され、上杉家の苦難の歴史が始まります。上杉家は相次ぐ減封によって規模を縮小させますが、越後春日山から持ち込んだ上杉謙信の遺骸を漆で密封した甕(かめ)に入れ、米沢城の本丸内に安置し、謙信崇拝に基づいた誇り高い士風を守ります(上杉家は人も物もすべて持ち出したため、春日山の謙信の遺品は林泉寺山門の「第一義」の扁額(へんがく)だけです)。1776年には細井平洲によって藩校「興譲館(こうじょうかん)」ができ、それが現在の米沢興譲館高校にまで続いています。また、上杉鷹山(ようざん)は藩の殖産興業を行って財政を立て直した名君です。

 

(6)上杉謙信米沢藩上杉家

 儒教の「義」は、私欲にとらわれず、行うべきことを実行することを意味していて、利による行動と対比されます。つまり、私利私欲で行動するのではなく、正義のために行動することです。

 米沢藩上杉家の祖である謙信は越後守護代長尾為景の二男として生まれ、19歳で家督を継ぎ、23歳で関東管領上杉憲政から関東管領と上杉姓を譲り受けました。謙信は尊王意識が高く、朝廷や足利幕府のために活躍しましたが、1578年49歳で急死しました。御館(おたて)の乱が起こり、あとを継いだのが上杉景勝です。景勝は豊臣秀吉の信任を受け、五大老の一人となりました。1598年慶長秀吉によって越後春日山から会津120万石へ転封となり、その後徳川家康に敵対し、関ヶ原合戦後の1601年米沢30万石に減封されてしまいます。上杉家は転封の際、謙信の遺骸だけでなく、家臣もすべて連れていく徹底ぶりで、そのため、越後春日山会津にはほぼ何も残っていません。

 1664年四代藩主綱勝(のりかつ)が世継ぎのないまま急死、断絶の危機を迎えました。吉良義央(よしひさ、よしなか)の長子綱憲(つなのり)が跡継ぎと決まったのですが、15万石に減封されます。今の言葉を使えば、江戸幕府外様大名へのイジメの典型例と言えます。その結果、上杉家は会津120万石の八分の一になり、当然ながら藩財政は破綻寸前の状況になりました。それでも米沢藩は家臣を減らさず、リストラしませんでした。米沢藩の財政改革を成し遂げたのが上杉鷹山(ようざん)です。彼は質素倹約、学問の奨励、殖産興業に率先して取り組み、藩復興に当たりました。また、彼は細井平洲を招き、藩校「興譲館」の創設に尽力しました。

 謙信の義は正義ですが、家臣のリストラをせず、終身雇用を守った上杉藩の義は義理です。生活世界での義は江戸時代に入り、正義から義理に転化変形しています。家臣を思いやるという生活上の倫理を実現しようとした上杉藩の環境は、戦いの中で義を実現しようとした越後の謙信の時代とは随分と違っています。

 謙信は「義の人」と呼ばれ、「第一義」という扁額を春日山林泉寺山門に残したのですが、両方に登場する「義」は漢字が同じという程度のものでしかありません(「第一義」は基本原理、根本原理のことで、林泉寺は米沢と春日山の両方にあります。)。行動規範としての「義」も謙信とその後の米沢藩では違っています。歴史の中で義の意味は変化し、多義的になっていったのです。越後に生まれた「義の人謙信」を敬う越後の人々の「義」は正義でいいのでしょうが、米沢の人々の「義」は家臣のために終身雇用を守った義理堅い振舞いを指していることになります。

*今回の内容は少々難しかったはずです。わからない部分は先生や家の方に聞いてみて下さい。英語を知っている人には、「Justice」と「Duty」の違いが謙信の義と上杉家の義の違いだと考えていいかも知れません。また、興譲館の「興譲」は「人に譲る」という利他的な倫理を表していて、「正義」から興譲という「善」への変化が読み取れます。

 

(7)妙高出身の森蘭斎(らんさい)、そして岡倉天心

 1731(享保16)年長崎に一人の中国人画家がやってきます。彼の名は沈南蘋(しんなんぴん、1682~1760?)。彼の花鳥画はその精緻な描写と華麗な彩色によって人々を惹きつけ、その後の日本絵画に非常に大きな影響を与えることになります。直弟子熊斐(ゆうひ、1712~1772)、その娘婿森蘭斎(1740~1801)を経て、長崎から京都、大坂へ、そして江戸へと南蘋の画風は広まり、長崎派と呼ばれました。本草学、博物学への関心が高まり、南蘋の写実的な自然描写が人々を惹きつけたのです。

 その影響は南蘋の画風を真似た画家に限りません。特異な画家として近年注目を集めている伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716~1800)も南蘋を学び、独自の画風を築きました。写実的で装飾的な画風によって近代日本画を生み出した円山応挙(まるやまおうきょ)も若い頃に南蘋の画を学びました。司馬江漢(しばこうかん)も俳人文人画家として知られる与謝蕪村(よさぶそん)も南蘋風の絵を数多く描いています。

 1716年若冲が京都で、蕪村が大阪で生まれます。その同じ年に尾形光琳(おがたこうりん)が亡くなり、時代が大きく変わり出します。そして、将軍吉宗が洋書の輸入を緩和し、黄檗宗(おうばくしゅう)や最新の中国の画譜が入ってきます。若冲狩野派の絵を学び、 蕪村は江戸で俳諧に親しみます。40歳で隠居し、絵に専念した若冲、40歳を越えて定住し、花鳥画を学んだ蕪村は共に京都で活躍します。森蘭斎は師が没すると、大坂に出て医者となりながら、画を通じて著名な文人と交友します。『蘭斎画譜』では熊斐から受けた画法の伝授課程を伝え、熊斐の小伝を掲載しています。そして、彼は江戸に移り住みます。

 関口雪翁(せきぐちせつおう、1753-1834)は越後十日町に生まれ、江戸に出て学び、津山藩儒(藩主に仕える儒学者)となります。書画に優れ、雪竹を描いては日本三竹の一人です。彼にも長崎派の影響を見てとれます。同じ越後出身の蘭斎と親交があったかどうか不明ですが、共通の友人はいた筈です。蘭斎は寛政年間に江戸に移住し、幕府の儒官林述斎(はやしじゅっさい)や宇都宮藩藩主戸田忠翰(とだただなか)らと交友。とりわけ戸田忠翰とは画の共作を行うほど親しく交わりました。

 浮世絵を含めた近世美術史は明治以降の美術史と隔絶されてきました。これに対して、平成24年に刊行された『森蘭斎画集』(森蘭斎画集編集委員会編、森蘭斎顕彰会、2012)は大きな意味をもっているのです。

 森蘭斎と岡倉天心の二人はともに妙高市に深く結びついていて、二人とも美術に関わっていました。今風に言えば、天心は赤倉に移住した人、蘭斎は新井に生まれた人です。岡倉天心妙高の多くの人に明治の日本美術を救った大人物に映り、森蘭斎は妙高市民にさえほとんど知られず、骨董趣味の老人が関心を寄せる画家というのが通り相場になってきました。これは誤った過去の風評に過ぎません。そこで、妙高の人たちが二人を公平に比較しながら評価できるために、二人を比較できる肝心な事実を私なりに幾つか指摘してみたいと思います。

 花鳥画の「花鳥」の主題は、単に花と鳥とにとどまらず、花は植物、鳥は動物を代表しています(これは「雪月花」も同じです)。花鳥は自然の縮図、自然の中の生命の象徴なのです。享保の改革で有名な八代将軍吉宗は実用的、実証的な学問に強い関心を持っていました。彼は洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教関連以外の洋書の輸入を許し、そのことによって蘭学が興ります。吉宗の好奇心は絵画にも向かい、享保7年長崎奉行に唐画、紅毛絵の輸入を命じ、その結果、オランダからは油彩画が入ってきます。中国絵画は唐画と呼ばれ、享保16年中国人画家沈南頻が来日し、享保18年に同じ船で帰国するまで長崎に滞在します。唐画には現在でいう南顕派、文人画(南画)、円山四条派、伊藤若冲、曾我競白(そがきょうはく)等の絵が含まれます。森蘭斎が属した南頻派の主な画題は花鳥であり、色鮮やかな花鳥画に特徴があります。

 さて、明治15年近代日本画の育成に尽力したフェノロサは美術講演の中で、文人画(南画)を批判しました。新聞紙上でそれが「つくね芋山水」と否定的に表現され、南画を非難する傾向が生まれました。フェノロサ、天心のこのような批判以後、南画は近代絵画発展を妨げるものというイメージが植えつけられ、一時の隆盛は失われます。その隆盛を生み出した出発点にいる一人が森蘭斎でした。森蘭斎の絵師としての活動は大坂で始まります。既に述べましたが、蘭斎は長崎で熊斐を介して沈南蘋の画風を学んだことがわかっています。晩年になって、蘭斎は大坂から江戸に出たのですが、蘭斎が長崎を離れた後の安永4年に大坂で暮らしていて、天明7年には何人もの門人を抱えていたことがわかっています。当時多くの画家たちにとって垂涎の的であった長崎遊学の後、大坂にやって来て、弟子たちを抱え、少なくとも安永2年から寛政元年にかけての十四年間大坂で暮らし、南蘋派絵画の普及に努めたのが蘭斎だったのです。蘭斎は南蘋の唯一の直弟子である熊斐の娘婿ですから、熊斐没後に大坂に出た蘭斎の制作活動は正統派の南蘋派絵画の普及であり、南蘋の直系というべき蘭斎の大阪での活動意義は重要なのです。その成果が既述の『蘭斎画譜』です。蘭斎の大坂での活動を軽視してきた従来の南蘋派研究は、そこから派生する文人画(南画)への厳しい評価によってとても偏ったものになっていたのです。

 天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖(かのうほうがい)らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。彼らは江戸狩野派の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんどを、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視する研究がほとんどでした。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は、近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は、江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされてきたのです。これは私が学生時代に経験し、感じたことに合致しています。近代絵画と江戸の絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼありませんでした。

 明治38年岡倉天心によって執筆された草稿「浮世絵概説」は、日本人が初めて浮世絵を美術史的に体系化しようとしたもので、浮世絵の定義から始まり、16~19世紀の浮世絵史を略述しています。この前年初めてボストン美術館に勤務した天心には、3万点以上の浮世絵の鑑定と目録作成が急務となっていました。そのために作成された「浮世絵概説」は未定稿ですが、浮世絵の定義に始まり、時代を三期に分けて代表的絵師とそれを取り巻く江戸の社会世相や文化にも言及しながら浮世絵史の体系化が試みられています。三期とは初期の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、中期の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や歌川豊国(うたがわとよくに)、そして文化以降の浮世絵衰亡期です。葛飾北斎(かつしかほくさい)については「彼の画は最早江戸通人の画にアラサルなり」と浮世絵の枠から一歩抜きんでた絵師としてその芸術を高く評価しています。天心は著書『東洋の理想』において「浮世絵は色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている」と述べていて、北斎を別格としても、浮世絵芸術を評価していないことがわかります。岡倉天心は、浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。『東洋の理想(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)』(原書英文、講談社学術文庫)では次のように述べています。「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである。」

 天心が蘭斎の画をどのように評価するか、天心の美術評論に対して蘭斎はどのように反応するのか、推測はできますが、妙高市民なら是非彼らの直接の意見を知ってみたいのではないでしょうか。今となっては無理だとしても、二人の意見をより確実に推測できるならば、故郷に縁の深い二人について今以上に知ることができるのは確かです。

*「森蘭斎展」がかいさいされています。会場は「道の駅あらいくびき野情報館ギャラリー」で、9月15日(日)~23日(月・休)10:00~16:00、観覧料は無料です。

 

(8)九頭龍大神(くずりゅうおおがみ)と出雲

出雲系の斐太神社と違って、関山神社や戸隠神社山岳信仰修験道)を中心にした神仏習合の神社という性格を持っています。かつてはそれぞれ妙高山雲上寺宝蔵院、戸隠山顕光寺と呼ばれていました。戸隠神社は遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来した戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っています。平安時代末には修験道の道場でした。神仏習合を示すのが「戸隠十三谷三千坊」という呼び方で、比叡山高野山と共に栄えました。江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となりました(関山神社も寛永寺の末寺で、百石の朱印状)。明治になり、神仏分離政策により、戸隠神社、関山神社と改名、現在に至ります。

 妙高や関山神社と比べると、戸隠や戸隠神社は昔から人々の関心や興味が高く、そのため多くの文献に記載があります。天照大神(あまてらすおおみかみ)が、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸を取って遠くへ投げ飛ばし、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町へ、そしてもう一方の戸が信濃の戸隠へ落ち、その岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになりました(奥社の祭神が天手力雄命)。

 その後、849年学問という修行者が入山し、先住の九頭龍大神(くずりゅうおおかみ、九つの頭と龍の尾をもつ鬼が善神に転じて、水神になる)を山の守護神として岩戸で封じ、戸隠寺を建て、自ら別当となったと伝えられています。龍神の中の頂点に位置するのが九頭龍大神で、それを祭神とするのが箱根神社戸隠神社の九頭龍社です。「戸隠」は実在する地域や山の固有名詞ではなく、神話や伝承からつくられた固有名詞で、語られる仕方に応じて複数の対象を異なる仕方で指示していて、準固有名詞のようなものです。その上、「戸隠」の意味についても複数あって、「(岩)戸に隠れる」、「(岩)戸を投げて隠す」、「九頭龍を(岩)戸で封じ隠す」のいずれをも意味しています。

 平安時代以降、戸隠山は修験の霊場として有名でした。この地には九頭一尾の龍神がいて、その大きさは戸隠山から旧妙高村関山を回り、旧能生町までしっぽが届いたほどでした。そこで、関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社新潟県糸魚川市)には尾先権現が祀られました。九頭龍権現は水神で、信越地方一帯の水を司る神でした。

 そこで九頭龍伝説を辿ってみましょう。善知鳥(うとう)神社(青森市)の周辺に八岐大蛇の姉である持子の九頭龍が潜んでいました。宗像三女神の長女・竹子姫の子の島津大人(しまつうし)が、九頭龍を見つけ、切りかかると、九頭龍は逃げ出し、能生の白山神社周辺に至り、関山神社を通り、戸隠の九頭龍社に逃げ延び、九頭龍は戸隠の宮に留まることになりました。

 各地に九頭龍大神の伝承があり、ある時は悪役、またある時は善神として語られてきました。では、その正体は何なのでしょうか。一つの尾から九つの首を生やした龍(あるいは大蛇)の姿で描かれる九頭龍大神の中でも有名なのが芦ノ湖九頭龍大神奈良時代に、万字ヶ池(まんじがいけ、今の芦ノ湖)には九頭の毒龍が住み、たびたび大波を起こしては里人たちを苦しめていました。757(天平宝字元)年、駒ヶ岳で修行を積み箱根大神の加護をいただいた萬巻(まんがん)上人がついに毒龍退治に挑み、連日祈祷をして法力でもって毒龍を調伏しました。こうして萬巻上人は箱根神社里宮に続き、万字ヶ池のほとりに九頭龍大神を祀りました。荒ぶる化け物を鎮め、神として祀ることは、出雲の八岐大蛇や常陸国の夜刀神の神話に似ています。全国に散らばる九頭龍伝説の中で特に多いのが、この調伏・鎮静型の伝承です。既に戸隠神社の九頭龍社の祭神は封印された九頭龍だと述べました。これらの言い伝えには大和民族対土着民の戦いが透けて見えてきます。

 九頭龍は毒蛇、仏法守護の神、そして様々な姿に変わっていきます。なぜ九頭龍はこのように全国各地に現れ、時として恐れられ、時として崇められたのでしょうか。その理由は、日本古来の信仰と大陸文化との融合の過程にあります。九頭龍は仏教から派生した神でした。仏教の元となったインド神話では猛毒を持つ大蛇とされ、仏教に取り入れられる時に仏法を守護する八大龍王の一柱「和修吉(わしゅきつ)」となりました。

 さて、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は出雲の国で暴れていましたが、酒を飲んでしまい、須佐之男命に退治されました。八岐大蛇の正体は、川の氾濫・盗賊の襲来・出雲の国そのものと諸説あります。九頭竜川の場合と同じように、斐伊川・出雲の国そのものと考えていいでしょう。こうなると、九頭龍と八岐大蛇はダブってしまい、一つに見えてきます。

 この辺で妙高に眼を転じると、海岸を北上してきた出雲文化が内陸に折れて信濃へ向かう途中にあるのが妙高です。居多神社がある直江津から関川水系を遡ると、信濃へ向かう北国街道沿いに出雲町、大己貴社、斐太神社、小出雲など、出雲地名と出雲大神を祭る古社が連なります。1810(文化7)年の「東都道中分間絵図」の高田の城下町を見ると、出雲町が記されています。今の上越市南本町1丁目辺りで、さらに北国街道を南へ進むと、石塚を経て荒井宿に入り、それに続くのが小出雲(村)です。今の妙高市小出雲1、2、3丁目あたり。小出雲は信州飯山道との分岐点でもあり、飯山道を進むと、信越国境の関田峠に至ります。そこから先の旧温井(ぬくい)村にも小出雲があります。先祖は大昔出雲から流れてきて、そこに住み着いたと考えられます。そこから飯山を経て善光寺方面へ向かうと、越後の小出雲から関山を越えて信濃入りした北国街道と交差するのです。

 これまでの話から、戸隠の九頭龍と出雲の八岐大蛇という二つの異なる伝説物語が混じり合い、それらがそのまま日本のあちこちで伝承されてきたことになります。

 

(9)江戸時代後半の米沢藩高田藩

 江戸時代の前半の越後高田は藩主が次々と変わり、直轄統治もなされ、落ち着きませんでした。一方、米沢藩上杉家も外様大名として石高を減らされ、苦境に追いやられていました。そこに登場し、藩の窮状を救ったのが米沢では上杉鷹山(ようざん、1751‐1822)、高田では榊原政令(まさのり、1776‐1861)でした。

 米沢藩は幕府から領土を減らされ、藩の財政は厳しく村人の生活も困窮していました。上杉鷹山は17才で藩主となり、この厳しい藩の財政を立て直し、人々が豊かになるために様々な事業に取り組みました。財政を豊かにするために、新田を作り、そこに水を引くための水路やため池をたくさん作りました。藩と村人が一体となった一大土木事業として「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」という水路を作り、米沢盆地北部の水不足を解消し、現在の農業の基礎を作りました。また、新しい産業を起こし、教育にも取り組み、72才で亡くなる頃は、藩の借金をほとんど返し、農村の復興を果たしました。アメリカの元大統領ケネディは最も尊敬する日本人として上杉鷹山の名前をあげました。

 細井平洲(ほそいへいしゅう)はその鷹山の先生です。平洲は人にとって最も大切なことは「譲る」、「相手を思いやる」ことであり、反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い(利己主義)」が最も人の道にはずれたことだと説きました。平洲は藩校を設立する際、校名を「興譲館」と名付けました。興譲とは「譲を興す」と読み、人を人として敬い、譲り合う生き方で、それを徹底すれば争いのない地域社会ができ、そのことによって国が栄えるという利他主義を説きました。

 上越市では今でも上杉謙信は地元の大英雄であり、比類なき人物ということになっています。江戸後半の榊原家の政治は堅実で、高田藩は豊かな藩に生まれ変わっていきます。もっと榊原家は重視されてしかるべきなのですが、謙信に比べると、軽視されてきたように思えます。そこで、戦時の英雄謙信に対し、平時の名君政令(まさのり)を見直してみよう。

 榊原家は徳川四天王の一人榊原康政(やすまさ)に始まり、徳川譜代の家臣の中でも筆頭格です。榊原政令は1776(安永5)年に生まれ、1810(文化7)年35歳で家督を継ぎます。藩政に尽くし、藩士への産綬事業推奨、領内赤倉山の温泉を掘削し、赤倉温泉を開き、藩士に果樹の木の植樹を推進するなど、多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政を立て直しました。また、陸奥国の飛び地分9万石余のうち5万石余を高田城隣接地に付け替えられるという幸運もあり、藩財政は安定しました。

 政令は思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発まで行い、倹約令なども徹底していて、食事はどんな場合も一汁一菜でした。また、「武士がそろばんをはじいて何が悪い」と藩士たちにも盛んに内職を勧め、それまで隠れて内職をしていた下級藩士たちは、堂々と内職をするようになりました。数年後には藩士たちの作った曲物、竹籠、凧、盆提灯などが高田の特産品となり、信州や関東にまで売り出されました(『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史、2003、新潮新書)を遥かに超えています)。

 さて、赤倉温泉は1816年に開かれました。地元の庄屋が地獄谷の温泉を麓に引いて湯治場を作りたいと高田藩に願い出ます。高田藩の事業として開発が始められ、温泉奉行を置く藩営温泉となりました。第3セクターによる公営事業の始まりです。妙高山を領地としていた関山神社の別当宝蔵院に温泉買い入れ金800両、関温泉への迷惑料300両を支払って開発が始まりました。2年間の開発経費3120両、温泉宿などの建設経費2161両で、当時としては大開発事業でした。

 政令財政再建によって高田藩は安定し、天明天保の飢饉の際には一人の餓死者も出しませんでした。さらに、兵法に洋式を取り入れて大砲を鋳造し、ペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進しています。

上越市大手町にある榊神社には「榊原康政・3代忠次・11代政令・14代政敬」が顕彰され、祀られています。高田藩について詳しく知りたい人は「公益財団法人旧高田藩和親会」で検索してみて下さい。また、米沢には上杉神社春日山林泉寺、上杉記念館などがありますので、これらもそれぞれ検索してみましょう。

 

(10)私立学校有恒学舎と会津八一

年表には斐太北小学校の歴史が詳しく述べられています。そこで、他の学校についても考えてみましょう。それは妙高には馴染みのない私立学校についてです。現在の上越市の私立学校は上越高等学校、関根学園高等学校の二つで、私立の小学校、中学校はありません。妙高市には私立学校は何もありません。そこで、皆さんは公立学校と私立学校の違いは何だと思いますか。私立学校を十分に知らない皆さんはどう答えるのでしょうか。

上越市板倉区にある県立有恒高等学校の前身は私立有恒学舎で、明治29年当時29歳の増村朴斎(ぼくさい)が私財を投じて創立しました。かつては「西の松下村塾、東の有恒学舎」と呼ばれました。朴斎の教えは現在の有恒高校にも受け継がれています。有恒学舎創立に際し、元幕臣勝海舟が校名を書き送っています。また、明治39年からは会津八一が4年間在職し、英語を教えました。

 ここからは私の思い出です。私は私学で学び、私学で教えてきました。私の子供の頃、故郷の妙高では国公立大学が私立大学より優れていると疑いなしに信じられていて、私の出た県立高校などは国立大学に入学させることを目指して受験教育に明け暮れていました。私立の文学部に行きたいと担任教師に言ったら一笑に付されたのを今でもよく憶えています。当時、妙高に私立学校はありませんでしたが、妙高の隣の板倉村(現上越市板倉区針)には有恒学舎がありました。当然ながら、人々には勉強のできる子供の行く学校ではないと思われていました。現在は県立の高等学校になってしまいましたが、それで偏差値が上がった訳でもなく、私のような私学出には私立高校が減って寂しい限りなのです。

 孔子の『論語』から校名がとられ、「有恒」とは「他にまどわされない一定不変の心を持つ」ということを意味し、そのような心をもつ人間を育成することを目指していました。有恒学舎は明治29年に針出身の増村朴斎が設立し、「西の松下村塾、東の有恒学舎」とも呼ばれました。東京に福沢諭吉慶應義塾大隈重信の東京専門学校(後の早稲田大学)、京都に新島襄同志社英学校が、そして板倉には増村朴斎創立の有恒学舎があったのです。

 会津八一は明治39年から4年間英語教師として有恒学舎に在職し、小林一茶の俳句の収集を熱心に行っています。明治43年坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となります。その後、早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義、さらに昭和6年早稲田大学文学部教授となります。

 八一の書は清廉そのもので私の好きな書です。会津八一記念館が所蔵する「秋艸堂(しゅうそうどう)」は八一の住まいの号です。20代後半からこの号を用いていて、「秋艸堂」の「艸」は、草を総称する語句で、彼が萩・菊・葉鶏頭など秋の草花を好んだことから命名されました。妙高の「艸原祭(そうげんさい)」にも使われる文字ですが、妙高は春の草、八一の場合は秋の草が意味されています。新潟県人ならよく知っている「新潟日報」の題字は八一が書いたものです。