上杉謙信の義の心

 親鸞と謙信のいずれを「ふるさとの偉人」とするかと問われれば、上越市妙高市では越後で生まれた英雄に一票を投じる人が圧倒的に多い筈です。

 そのふるさとの英雄について、上越市のホームページの説明を引用すると、「義は、人間の行動・思想・道徳で「よい」「ただしい」とされる概念で、謙信公は、義を重んじた武将とされています。謙信公の居城、春日山城麓の林泉寺には、謙信公自筆と伝えられる「第一義」の額が残されています。「第一義」は、禅の書跡『碧巌録』の達磨太子と梁(中国)の武帝との問答の逸話に出てくる語句で、釈迦のあらゆる事物の心理を表すとされており、この語句は謙信公の思想と人となりを如実に表したものとして広く知られています。」となります(引用文の中の「心理」は「真理」と思われます)。

 『碧巌録』は禅の公案(こうあん)、つまり、禅の問答や問題を集めた有名なテキストです。その『碧巌録』の第一則が達磨廓然無聖(かくねんむしょう)と呼ばれる問答。武帝が達磨に「如何なるか是聖諦(しょうたい)の第一義」(つまり、「仏教の根本的な真理(the first principle)は何か」)と問い、「廓然無聖」(「からっとして何もなし」)と達磨が答えたというエピソードで、これについて僧の間で問答が交わされることになります。仏教の第一原理は廓然無聖というのが達磨の答えですから、武帝でなくてもあ然とするのではないでしょうか。

 さて、儒教の中心概念は孔子の「仁」ですが、孟子はそれを仁と義に分けました。義は静的な秩序とその維持を意味し、利己心を克服する気持ちも指していました。上杉謙信の「天下静謐」というスローガンは義の前者の意味の具体的表現と思われます。義は江戸時代以降、義理や義務、正義を意味し、自然の理に適うこと、正しい行いを守ることなどを意味するように変化します。正義と義理が同居したままの江戸時代から、明治に入り、漱石は「人生の第一義(根本的な真理)は道義だ」と捉え、それが多くの人に受け入れられました。現在は「義はJustice」と割り切った方がわかりやすいでしょう。正義はハリウッド映画によく登場しますが、私などはロールズの『正義論』(A Theory of Justice)を考えてしまいます。

 では、「義の心」でウクライナを支援するとはどのようなことでしょうか。謙信は川中島合戦で信濃の更級郡八幡宮に捧げた願文では「武田晴信(信玄)はただ国を奪うためだけに信濃の諸士をことごとく滅ぼし、神社や仏塔まで破壊して民衆の悲嘆は何年も続いている」と信玄の信濃侵攻を非難し、「自分に私的な遺恨はないが、信濃を助けるために戦う」と宣言し、これが後に「義の心」と呼ばれるようになります。当時の謙信は守護職の代役程度の身分で、武田は甲斐守護職。この格差を埋めるため、謙信は普遍的な正義を持ち出して武田家に対抗しようとしました。彼は正しい戦争と、そうでない戦争があると考えたのです。

 ホームページからの引用を続けると、「戦国乱世に人としての正しい心、義の心を掲げた上杉謙信公。雪国上越だからこそ紡ぐことができた共助の精神であり、これからの持続可能な社会において不可欠な心でもあります。」とあり、「義の心でウクライナを支援する」とはどのようなことかが浮かび上がってきます。

 例えば、「日本スキー発祥110年記念 レルヒ少佐と高田の友人たち」(上越市立歴史博物館、令和3年7月10日から9月5日)を思い出してみましょう。レルヒ少佐は1914年(明治44年)から1年あまり高田に滞在し、多くのものを高田に残した。長岡外史、岡倉一雄、片桐文邦などと多くのつながりが生まれました。そのため、レルヒがオーストリアに帰還し、生活苦に陥った際、高田の友人たちが援助した、とあり、これが共助の精神の具体例だと考えることができます。

 「義の心」の原義では「正義の戦争」を始める、あるいはそれに直接コミットすることが意味され、上越市のホームページでは友人を助ける共助の精神へと変わっています。私たちにとってどのようにウクライナを支援すべきか、義の心以外の心で考えることも必要と思われます。