ハイカラな森蘭斎と、国粋的な岡倉天心

 純粋な日本画、彫刻などは実は存在せず、日本文化そのものが混合的、混血的であると述べてきましたが、それが端的に表れているのが神仏習合の日本宗教です。仏教と神道の習合は、真に日本的な特徴が混淆性、混血性、混合性にあることを見事に示しています。この特徴を巡って森蘭斎と岡倉天心は好対照の例になっています。

 蘭斎と天心の二人はともに妙高市に深く結びついていて、二人とも美術に関わっていました。今風に言えば、天心は赤倉に移住した人、蘭斎は新井に生まれた人です。天心は妙高の多くの人に明治の日本美術を救った大人物に映り、蘭斎は妙高市民にさえそれ程知られず、骨董趣味の老人が関心を寄せる画家というのが通り相場になってきました。これは誤った過去の風評に過ぎません。そこで、二人に関する肝心な事実を私なりに幾つか指摘してみたいと思います。

 1731(享保16)年長崎に一人の中国人画家がやってきます。彼の名は沈南蘋(しんなんぴん、1682~1760?)。彼の花鳥画はその精緻な描写と華麗な彩色によって人々を惹きつけ、その後の日本絵画に非常に大きな影響を与えることになります。直弟子熊斐(ゆうひ、1712~1772)、その娘婿森蘭斎(1740~1801)を経て、長崎から京都、大坂へ、そして江戸へと南蘋の画風は広まり、長崎派と呼ばれました。本草学、博物学への関心が高まり、南蘋の写実的な自然描写が人々を惹きつけたのです。

 その影響は南蘋の画風を真似た画家に限りません。特異な画家として近年注目を集めている伊藤若冲(いとうじゃくちゅう、1716~1800)も南蘋を学び、独自の画風を築きました。写実的で装飾的な画風によって近代日本画を生み出した円山応挙(まるやまおうきょ)も若い頃に南蘋の画を学びました。司馬江漢(しばこうかん)も俳人文人画家として知られる与謝蕪村(よさぶそん)も南蘋風の絵を数多く描いています。

 1716 年若冲が京都で、蕪村が大阪で生まれます。その同じ年に尾形光琳(おがたこうりん)が亡くなり、時代が大きく変わり出します。そして、将軍吉宗が洋書の輸入を緩和し、黄檗宗(おうばくしゅう)や最新の中国の画譜が入ってきます。若冲狩野派の絵を学び、 蕪村は江戸で俳諧に親しみます。40 歳で隠居し、絵に専念した若冲、40 歳を越えて定住し、花鳥画を学んだ蕪村は共に京都で活躍します。森蘭斎は師が没すると 大坂に出て医者となりながら、画を通じて著名な文人と交友。『蘭斎画譜』では熊斐から受けた画法の伝授課程を伝え、熊斐の小伝を掲載しています。そして、彼は江戸に移り住み、幕府の儒官林述斎(はやしじゅっさい)や宇都宮藩藩主戸田忠翰(とだただなか)らと交友。とりわけ戸田忠翰とは画の共作を行うほど親しく交わりました。

*浮世絵を含めた近世美術史は明治以降の美術史と隔絶されてきました。これに対して、平成 24 年に刊行された『森蘭斎画集』(森蘭斎画集編集委員会編、森蘭斎顕彰会、2012)は大きな意味をもっているのです。

 花鳥画の「花鳥」の主題は、単に花と鳥とにとどまらず、花は植物、鳥は動物を代表しています(これは「雪月花」も同じです)。花鳥は自然の縮図、自然の中の生命の象徴なのです。享保の改革で有名な八代将軍吉宗は実用的、実証的な学問に強い関心を持っていました。彼は洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教関連以外の洋書の輸入を許し、そのことによって蘭学が興ります。吉宗の好奇心は絵画にも向かい、享保 7 年長崎奉行に唐画、紅毛絵の輸入を命じ、その結果、オランダからは油彩画が入ってきます。中国絵画は唐画と呼ばれ、享保16年中国人画家沈南頻が来日し、享保18年に同じ船で帰国するまで長崎に滞在します。唐画には現在でいう南顕派、文人画(南画)、円山四条派等の絵が含まれます。森蘭斎が属した南頻派の主な画題は花鳥であり、色鮮やかな花鳥画にその特徴がありました。

 蘭斎は長崎で医術と唐画を学び、大坂と江戸で画家、文人として活躍します。『蘭斎画譜』は貴重な美術教科書でもあり、多才な能力を発揮しました。科学と美術、文学とを駆使して、唐画の普及に尽力したことがわかります。彼が当時の最新の知識と芸術を啓蒙したことが窺えます。

 

 さて、明治15年近代日本画の育成に尽力したフェノロサは美術講演の中で、文人画(南画、唐画)を批判しました。新聞紙上でそれが「つくね芋山水」と否定的に表現され、文人画を非難する傾向が生まれました。フェノロサ、天心のこのような批判以後、文人画、唐画は近代絵画発展を妨げるものというイメージが植えつけられ、一時の隆盛は失われます。その隆盛を生み出した出発点にいる一人が森蘭斎でした。森蘭斎の絵師としての活動は大坂で始まります。既述のように、蘭斎は長崎で熊斐を介して沈南蘋の画風を学んだことがわかっています。晩年になって、蘭斎は大坂から江戸に出たのですが、蘭斎が長崎を離れた後の安永4年に大坂で暮らしていて、天明7年には何人もの門人を抱えていたことがわかっています。当時多くの画家たちにとって垂涎の的であった長崎遊学の後、大坂にやって来て、弟子たちを抱え、少なくとも安永2年から寛政元年にかけての十四年間大坂で暮らし、南蘋派絵画の普及に努めたのが蘭斎だったのです。蘭斎は南蘋の唯一の直弟子である熊斐の娘婿ですから、熊斐没後に大坂に出た蘭斎の制作活動は、正統派の南蘋派絵画の普及であり、南蘋の直系である蘭斎の大阪での活動は重要な意義を持っていました。その成果の一つが既述の『蘭斎画譜』です。蘭斎の大坂での活動を軽視してきた南蘋派研究は、そこから派生する文人画への天心らの厳しい評価によってとても偏ったものになっていました。

 天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖(かのうほうがい)らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。彼らは江戸狩野派の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんどを、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視することになりました。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は、近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は、江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされてきたのです。これは私が学生時代に経験し、感じたことに合致しています。近代絵画と江戸の絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼありませんでした。

 明治38年に天心によって執筆された草稿「浮世絵概説」は、日本人が初めて浮世絵を美術史的に体系化しようとしたもので、浮世絵の定義から始まり、16~19 世紀の浮世絵史を略述しています。この前年初めてボストン美術館に勤務した天心には、3万点以上の浮世絵の鑑定と目録作成が急務となっていました。そのために作成された「浮世絵概説」は未定稿ですが、浮世絵の定義に始まり、時代を三期に分けて代表的絵師とそれを取り巻く江戸の社会世相や文化にも言及しながら浮世絵史の体系化が試みられています。三期とは初期 の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、中期の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や歌川豊国(うたがわとよくに)、そして文化以降の浮世絵衰亡期です。葛飾北斎(かつしかほくさい)については「彼レの画は最早江戸通人の画にアラサルなり」と浮世絵の枠から一歩抜きんでた絵師としてその芸術を高く評価しています。天心は著書『東洋の理想』において「浮世絵は色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている」と述べていて、北斎を別格としても、浮世絵芸術を評価していないことがわかります。天心は浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。『東洋の理想(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)』(原書英文、講談社学術文庫)では次のように述べています。「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである。」

 天心が蘭斎の画をどのように評価するか、天心の美術評論に対して蘭斎はどのように反応するのか、推測はできますが、妙高市民なら是非彼らの直接の意見を知ってみたいのではないでしょうか。今となっては無理だとしても、二人の意見をより確実に推測できるならば、故郷に縁の深い二人について今以上に知ることができるのは確かです。

 2007年は地域振興策の一つとしてバルビゾン村構想があった頃で、岡倉天心河鍋暁斎の子孫の対談が妙高で行われました。この構想はその後すっかり消えてしまうのですが、天心と暁斎の組み合わせには二人のお雇い外国人が関与していて、これら二人を抜きにしては彼らの明治を語ることができないのです。その二人とはジョサイア・コンドルとアーネスト・フランシスコ・フェノロサで、二人については既に述べました。 

 コンドルは『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著しています。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法について書かれた本。日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが書いたのです。暁斎が自作の絵画を標準より高額の値段で博覧会に出品すると、ある審査官が苦言を呈しました。それに対し、暁斎は「この作品は長年の研鑚修行の成果であり、この値段はそのごく一部に過ぎない。」と反論。暁斎の隠居後の作品は雄渾かつ独創的な構想力に溢れ、それ以前の自身の作品を凌駕しています。隠居後も「画人としての技倆はいまだ最終的完成の域には達していない」と絶えず口にしていました。

 岡倉天心河鍋暁斎はそれぞれ思想家と職人絵師と分類され、近代化された明治期には考える人が天心、つくる人が暁斎ということになります。私自身が考えることを生業にしてきたことから天心に近く、暁斎からは遠いのですが、近年考えることの無力さを痛感しています。そのためか、つくることへの老いの憧れが疼いているのです。天心の終焉の地は妙高。赤倉が死に場所ではなく活躍の場所であったらと悔やんでも詮無きことで、よく見る東京駅や三菱一号館ジョサイア・コンドルの影を見て、さらに人気の高くなった暁斎の絵を見ると、フェノロサや天心を身近に感じることができないもどかしさは「考える」ことの当然の結果だと観念するしかないのかと溜息をつくのです。

 「つくる」人はつくったものを長く残すことができます。「考える」人は「考え」が心の中にしかないようにものの形で正確に残すことはできず、せいぜい言葉や画像を使って間接的に表現するのが関の山です。唯一正確に残せるとなれば数学化された理論くらいしかありません。河鍋暁斎ジョサイア・コンドルの師弟は「つくる」ことによって固く結ばれ、アーネスト・フェノロサ岡倉天心の師弟は「考える」ことで柔らかく結ばれていました。それでも天心の著作、天心の弟子である横山大観らの日本画家たちは多くの日本人の心に今でも強く焼き付いています。一方、蘭斎は美術と医術で、「つくる」と「考える」の両輪を使って活躍したハイカ文人でした。