森蘭斎

 まずは彼の略歴を見ておきましょう。
 越後国頸城郡新井村(現在の妙高市)に生まれた森蘭斎(もりらんさい、1740-1801)は画才に恵まれ、24歳頃に長崎に遊学、医学を学ぶとともに、沈南蘋の高弟熊代熊斐(くましろゆうひ)に入門し、画才を認められ、師の娘と結婚。熊斐が61歳で病没し、蘭斎は師の遺志を継いで南蘋派を全国的に普及させるため、35歳の時に10年に及ぶ長崎滞在を終え、妻子と共に大坂に移住。大坂では、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)ら多くの文人たちと交流し、彼らの協力を得て『蘭斎画譜』8巻を刊行。この書は蘭竹・花鳥の粉本(中国や日本の古画や名画を模写した絵画資料)として、画を志す人たちのよい手引書となった。38歳頃に帰郷したが、その後も奥州、信州、上州など各地を遍歴、54歳で江戸に出て日本橋に居を構え、ここを終生の地とした。江戸では医業を営みつつ、さらに写実に徹した作風を押し進め、加賀藩お抱え絵師もつとめた。『蘭斎画譜』の後編を出版する準備も進めていたが、享和元年、出版を果たせないまま62歳で死去。その後、信州の門人掛玄斎が中心となって『蘭斎画譜後編』4巻が刊行された。これには幕府の儒官林述斎や宇都宮藩主戸田忠翰らが序文を書き、宍戸藩主松平頼救が題(漢詩)を寄せている。」
 1731(享保16)年長崎に一人の中国人画家がやってきます。彼の名は沈南蘋(しんなんぴん、1682~1760?)。彼の花鳥画はその精緻な描写と華麗な彩色によって人々を惹きつけ、その後の日本絵画に非常に大きな影響を与えることになります。直弟子の熊斐(ゆうひ、1712~1772)、その娘婿の森蘭斎(1740~1801)を経て、長崎から京都、大坂へ、そして江戸へと南蘋の画風(南蘋風、南蘋主義)は広まり、画家たちは「南蘋派」と呼ばれました。本草学、博物学への関心が高まり、南蘋の写実的な自然描写が人々を惹きつけたのです。また、中国の文人画を取り入れた日本の文人画は南画と呼ばれ、洋風画がそれに加わり、それらをまとめて唐画と呼ばれることになります。
 南蘋派の隆盛を生み出した原点にいる一人が森蘭斎です。森蘭斎の絵師としての活動は大坂で始まります。当時多くの画家たちの垂涎の的であった長崎遊学の後、大坂にやって来て、弟子たちを抱え、少なくとも安永2年から寛政元年にかけての十四年間大坂で暮らし、南蘋派絵画の普及に努めたのが蘭斎でした。蘭斎は南蘋の唯一の直弟子である熊斐の娘婿ですから、熊斐没後に大坂に出た蘭斎の制作活動は、正統派の南蘋派絵画の普及であり、南蘋の直系である蘭斎の大阪での活動意義は極めて重要です。そして、その成果の一つが『蘭斎画譜』です。
 京都ではその唐画が流行し、特異な(?)画家として近年注目を集めた伊藤若冲曾我蕭白、さらに、円山応挙長沢芦雪らが独自の画風を築きます。また、洋風画の司馬江漢俳人文人画家として知られる与謝蕪村も南蘋風の絵を数多く描いています。
 1716 年若冲が京都で、蕪村が大阪で生まれます。その同じ年に尾形光琳が亡くなり、時代が大きく変わり出します。そして、将軍吉宗が洋書の輸入を緩和し、禅宗黄檗宗や最新の中国の画譜が入ってきます。若冲狩野派の絵を学び、 蕪村は江戸で俳諧に親しみます。40 歳で隠居し、絵に専念した若冲、40 歳を越えて定住し、花鳥画を学んだ蕪村は共に京都で活躍します。森蘭斎は師が没すると、大坂に出て医者となりながら、画を通じて著名な文人たちと交友。『蘭斎画譜』では熊斐から受け継いだ画法の伝授を伝え、熊斐の小伝もそこに掲載しています。そして、彼は江戸に移り住みます。
*画譜は絵の手本集で、中国で生まれ、明清時代に数多く刊行されました。それらが日本に輸入され、江戸時代に多くの画譜が出版されました。
 関口雪翁(せきぐちせつおう、1753-1834)は越後十日町に生まれ、江戸に出て学び、津山藩儒(藩主に仕える儒学者)になります。書画に優れ、雪竹を描いては日本三竹の一人です。彼にも長崎派の影響を見て取ることができます。同じ越後出身の蘭斎と親交があったかどうか不明ですが、共通の友人はいた筈です。蘭斎は寛政年間に江戸に移住し、幕府の儒官林述斎(はやしじゅっさい)や宇都宮藩藩主戸田忠翰(とだただなか)らと親交がありました(戸田忠翰とは画の共作を行う)。