天心と六角堂:メモ

 岡倉家の菩提寺は福井の西超勝寺(浄土真宗本願寺派)で、天心の墓所巣鴨の染井霊園、墓の墓碑には釈天心(浄土真宗では戒名ではなく、法名)とある。

*「戒名」は出家して戒律を守り、修行していくための名前、「法名」は阿弥陀仏の教えを守りながら出家せず、生きることを誓う際に授かる名前。

 岡倉天心自らが考案し、1905(明治38)年平潟の大工小倉源蔵が建てたのが五浦の六角堂。「六角堂」は通称で、天心自身は「観瀾亭(かんらんてい、大波を観る東屋)」と名付けた。六角形をした個性的な建物は、中国の道教で重要視された6という数字の影響とも、漢詩をよくした天心が杜甫の草堂に倣ったとも言われている。五浦の六角堂は東北大地震津波で土台を残して姿を消し、2012年4月に再建された。

 東京芸術大キャンパスの「奥の細道」と称される木立の中に建っているのが六角堂。天心は1890(明治23)年に東京美術学校の第二代校長となり、現在の芸大の基礎をつくった。天心を記念して作られた六角堂には、平櫛田中作の「岡倉天心像」が置かれている。寄せ棟屋根の瀟洒な建物で、1931(昭和6)年に金沢庸治が設計したもの。

 台東区谷中の天心の旧居跡にあるのが岡倉天心記念公園で、1898(明治31)年そこに日本美術院が開設され、1906(明治39)年に茨城県五浦に移転するまで、日本美術の中心的な場所だった。1967(昭和42)年に台東区が公園として整備し、「岡倉天心先生旧宅趾・日本美術院発祥之地」碑と、五浦の六角堂を模した建物が建ち、堂内には平櫛田中作の岡倉天心胸像が安置されている。この胸像は彼が1931(昭和6)年に制作した作品(上記)の原型から鋳造されたもの。

 天心は晩年赤倉の土地をこよなく愛し、山荘を建てた。彼は1913(大正2)年9月2日に赤倉山荘で亡くなり、その山荘跡に建てられた六角堂は法隆寺の夢殿を模していて、平櫛田中作の天心の金色の胸像が安置されている。

 さて、天心が六角堂にこだわった理由は何だろうか。彼は中国で四川省成都の草堂寺・浣花亭を訪れたが、そこはかつて杜甫が4年ほど住んでいた場所。杜甫草堂は六角堂で、杜甫漢詩を愛した天心には無上の空間であった。また、上述のように天心は熱心な門徒であり、京都頂法寺六角堂は特別な意味を持っていた。聖徳太子建立の六角堂は親鸞が百日参籠し、夢で太子の化身から回心の契機を得ることになった建物である。さらに、『茶の本』の著者である天心には六角堂は茶室でもあった。天心にとって亭や東屋、仏堂、茶室の三つを併せ持つのが六角堂であった。

 さらに、聖徳太子を追慕して造られた法隆寺東院の中心の建物が夢殿で、フェノロサと天心が無理やり開示させた救世観音はその夢殿の本尊であり、夢殿はその形から八角円堂と呼ばれてきた。夢殿は仏教の六角堂に連なり、道教の世界観を表現したのが杜甫の草堂、そして、禅宗を具体化したのが茶室と、天心の六角堂は三つの役割を併せ持ち、天心の精神世界を具現化した書斎となっていた。