天心の六角堂

 西洋は「理性的に誇示」し、日本は「内省し、謙遜」する。茶は経済学と同じで、「生の術」であり、具体化された道教である。こんな主張が『茶の本』の核心にある。

 岡倉天心はお雇い外国人フェノロサと出会い、フェノロサの美術調査に随行。千年の眠りから覚めた八角の夢殿の観音と逢着し、天心は「東洋の夢」に向かう。このときの調査団長九鬼隆一は哲学者九鬼周造の父であり、その夫人波津との恋愛事件によって、天心は東京美術学校校長の座を追われ、それが奇縁で天心らは日本美術院を起こし、五浦に籠城することになる。

 話は変わるが、親鸞は29歳の時、比叡山を降り、六角堂(頂法寺)で百日間の参籠を行う。95日目に救世観音が夢に現れ、「あなたが前世の因縁によって女犯しても、私が女性の姿に変わって交わりを受けよう。一生の間よく仕え、臨終の際には極楽へ導こう」と言った。女犯(妻帯)の罪に苦悩していた親鸞は、これにより悟りを得、法然の教えを受け、浄土真宗の開祖になる。六角堂は聖徳太子の創建といわれ、救世観音は聖徳太子の化身と伝えられている。

 六角堂や八角堂は総称して「円堂」。既述の法隆寺夢殿、頂法寺六角堂などが有名。奈良県には多数の八角円堂があり、ほとんどが国宝や重要文化財法隆寺東院夢殿・法隆寺西円堂・栄山寺八角堂・興福寺北円堂の4箇所が国宝、興福寺南円堂重要文化財

 1905年(明治38年)、天心は八角堂でなく、六角堂をつくる。天心はその六角堂を「観瀾亭」と呼び、「瀾(大波)を観る亭(東屋)」とする。1893(明治26)年、中国美術調査のため初めて清国を訪問、四川省成都で唐時代の詩人杜甫の旧跡を見て感銘を受けた。その中の杜甫草堂は朱色の六角堂。そこで、天心はそれを手本に、仏教建築の要素を加え、道教(中国)、仏教(インド)、茶(日本)の精神が渾然一体となった独特の建築物を生みだした。