にいがた文化の記憶館企画展「江戸のリアリズム 森蘭斎」:森蘭斎と岡倉天心

 タイトルの二人はともに新潟県妙高市に深く結びついていて、二人とも美術に関わっていました。蘭斎は新井に生まれ、天心は赤倉に移住しました。では、妙高市民は蘭斎と天心についてどのように考えるのがいいのでしょうか。特別の区別など必要ないのですから、この質問はとても意地の悪い質問です。でも、岡倉天心妙高の多くの人に明治の日本美術を救った大人物に映り、森蘭斎は妙高市民にさえほとんど知られず、骨董趣味の老人が関心を寄せる画家というのが通り相場なのではないでしょうか。これは誤った風評でしかありません。そこで、二人を公平に比較しながら評価するために、二人についての肝心な事実を私なりに幾つか指摘してみたいと思います。

 花鳥画の「花鳥」の主題は、単に花と鳥とにとどまらず、花は植物、鳥は動物を代表しています(これは「雪月花」も同じ)。花鳥は自然の縮図、自然の中の生命の象徴です。享保の改革で有名な八代将軍吉宗は実用的、実証的な学問に強い関心を持っていました。彼は洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教関連以外の洋書の輸入を許し、それによって蘭学が興ります。吉宗の好奇心は絵画にも向かい、享保7年長崎奉行に唐画、紅毛絵の輸入を命じ、その結果、オランダからは油彩画が、中国からは唐画が入ってきます。享保16年中国人画家沈南頻が来日し、享保18年に同じ船で帰国するまで長崎に滞在します。唐画には現在でいう南顕派、文人画(南画)、円山四条派、伊藤君沖、曾我競白等の絵が含まれます。森蘭斎が属した南頻派の主な画題は花鳥であり、色鮮やかな花鳥画に特徴があり、以後多くの日本人に好まれることになります。

 さて、明治15年フェノロサは美術講演の中で、文人画(南画)を批判しました。当時の新聞紙上で「つくね芋山水」と否定的に表現され、南画を非難する傾向が生まれました。フェノロサ、天心のこのような批判以後、南画は近代絵画発展を妨げる陋習というイメージが植えつけられ、隆盛が失われます。その隆盛を生み出した出発点の一人が森蘭斎でした。森蘭斎の絵師としての活動は大坂で始まります。蘭斎は長崎で熊斐を介して沈南蘋の画風を学んだことがわかっています。晩年になって、蘭斎は大坂から江戸に出たのですが、蘭斎が長崎を離れた後の安永4年に大坂で暮らしていて、天明7年には何人もの門人を抱えていたことがわかっています。当時多くの画家たちにとって垂涎の的であった長崎遊学の後、大坂にやって来て、弟子たちを抱え、少なくとも安永2年から寛政元年にかけての十四年間大坂で暮らし、南蘋派絵画の普及に努めたのが蘭斎でした。蘭斎は南蘋の唯一の直弟子である熊斐の娘婿ですから、熊斐没後に大坂に出た蘭斎の制作活動は、正統派の南蘋派絵画の普及であり、南蘋の直系というべき蘭斎の大阪での活動意義は重要です。その成果が『蘭斎画譜』です。蘭斎の大坂での活動を軽視してきた従来の南蘋派研究は、そこから派生する文人画(南画)への厳しい評価によって著しく偏ったものになっていたのです。

 天心やフェノロサらが高く評価したのは、琳派の画家、狩野芳崖らをはじめとする日本美術院の画家、そして円山応挙らでした。彼らは江戸狩野の絵画の大半、大坂画壇の絵画のほとんどを、さらに幕末明治期の文人画のほとんどを評価しませんでした。天心によって確立される日本近世近代絵画史は近世絵画史と近代絵画史とを分断し、その結果、江戸時代と明治以降の美術作品の連続性を無視する研究がほとんどでした。ですから、江戸絵画史を専門とする研究者は、近代絵画を扱わず、近代絵画史の研究者は、江戸の絵画を扱わない、という専門分野の棲み分けがなされてきたのです。これは私が学生時代に経験し、感じたことに見事に合致しています。近代絵画と江戸の絵画は別々の美術史家が別々に扱い、その間の交流はほぼありませんでした。

 明治38年岡倉天心によって執筆された草稿「浮世絵概説」は、日本人が初めて浮世絵を美術史的に体系化しようとしたもので、浮世絵の定義から始まり、16~19世紀の浮世絵史を略述しています。この前年初めてボストン美術館に勤務した天心には、3万点以上の浮世絵の鑑定と目録作成が急務となっていました。そのために作成された「浮世絵概説」は未定稿ですが、浮世絵の定義に始まり、時代を三期に分けて代表的絵師とそれを取り巻く江戸の社会世相や文化にも言及しながら浮世絵史の体系化が試みられています。三期とは初期の菱川師宣、中期の喜多川歌麿や歌川豊国、そして文化以降の浮世絵衰亡期です。葛飾北斎については「彼レの画は最早江戸通人の画にアラサルなり」と浮世絵の枠から一歩抜きんでた絵師としてその芸術を高く評価しています。天心は著書『東洋の理想』において「浮世絵は色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている」と述べており、北斎を別格としても、浮世絵芸術を評価していないことがわかります。岡倉天心は、浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。『東洋の理想』(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)(原書英文、講談社学術文庫)では次のように述べています。
「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである。」

 

 天心は蘭斎の画をどのように評価するか、天心の美術評論に対して蘭斎はどのように判断するか、妙高市民なら是非知ってみたいのではないでしょうか。二人の意見を公平に比較できるならば、故郷に縁の深い二人について今以上に知ることができるのは確かです。