全国に四つある岡倉天心の顕彰会(それぞれ岡倉天心の両親の出身地である福井県福井市、天心生誕の地である神奈川県横浜市、天心が晩年の活動の拠点とした茨城県北茨城市、そして天心の終焉の地となった妙高市にある)が一堂に会す「第24回天心サミットin妙高」が、今年は11月18日に赤倉温泉で開かれた。
また、初演から6年経ち、岡倉天心作オペラ「白狐」が11月17日に妙高市文化ホールで再演された。演出家も主要オペラ歌手も一新されての公演となった。
さて、国家間、民族間の対立は今でも一向に衰えを見せない。100年以上も以前、一人の日本人が覇権や利権をめぐり世界を荒廃させる争いを、荒波の中で一つの玉を奪いあう龍に擬えた。彼の名は岡倉覚三(天心、1863〜1913)。
1906年に米国で出版されたThe Book of Tea(『茶の本』)において、天心は龍の争いによって裂かれた世界を修復するためには中国古代神話の女神「女媧(じょか)」やインドにおける神仏の化身「アバター」を待つしかない、と述べながら、読者に訴える。「まあ、茶でも一口すすろうではないか」と。そして、彼は言う、「明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかなさを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか」と。「西洋」で飲まれる「紅茶」の茶葉は「東洋」を原産としながらも、紅茶は「西洋」の生活に欠かすことのできない飲み物となり、日常生活の中でお茶を味わうことは、国や民族を越えた普遍的な習慣となっている。つまり、東西の人間性は「茶碗の中で出会う」歴史を刻んでいるのである。
『茶の本』は、茶道を例にして日本文化を海外に紹介した著作だが、それ以上のメッセージをもつ。東西は文化的に異なるが、両者は対等であると主張し、かつ互いの価値観や文化の多様性を認め合いながら、互いを寛容に思いやることによって、両者は「調和」できると説明する。彼は「茶」という日常の小さな出来事が創り出す心と心の交流を、世界規模に広げようとした。
では、岡倉天心とはどのような人物なのか。東京美術学校(現・東京藝術大学)創立に尽力し、そこから横山大観(1868~1958)らの日本画家が輩出されたこと、日本美術院を設立したことなどを思い起こせば、彼が近代日本美術の発展に果たした功績は大きい。日本の伝統に基づきながら新しい時代の美術の創造を積極的に推進し、廃仏毀釈で傷ついた古美術の保存と修復に尽力した。その活躍の場は国際的な広がりを持ち、晩年の10年間は、米国ボストン美術館中国日本美術部の経営に手腕を発揮し、東洋美術を欧米に紹介する拠点とすべくコレクションを拡充し、人材を育成した。
天心の国際的な眼は、横浜と福井と日本橋、商人と武士、西洋文明と伝統的教養というハイブリッドな文化環境で培われた。福井藩の下士だった父親は、開港した横浜で藩の商館の手代となり貿易商人として才覚を発揮、維新後は東京日本橋に転居して旅館や越前物産取次所を開業。天心は横浜で英語を学び、東京大学でフェノロサから西欧の学問を摂取する一方、日本橋で漢詩、南画、琴、茶道という日本の伝統的な教養を身につける。
彼は東京大学を卒業して文部省(現・文部科学省)に入省、やがて国家建設期の美術行政を先導し、東京美術学校の二代目校長となる。そのまま順風満帆な人生を送るかに見えたが、上司九鬼隆一の妻初子との恋愛関係が生じ、西洋式の教育の導入を図る新しい指導者との間に軋轢が生じた。やがて「美校騒動」が起き、彼と共に辞職した画家、彫刻家、工芸家たちとともに日本美術院を設立した。理想を掲げて立ち上げたものの、横山大観や菱田春草らが新しい表現として試みた没線描法が「朦朧体」と批判を受けて経営が悪化し苦境に陥った。
将来の活路を求めて彼が向かったのがインド。その目的の一つは、シカゴの万国宗教会議で「宗教の調和」を唱えて信者を得たヒンドゥー僧スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863〜1902)に会うことだった。ヴィヴェーカーナンダは、古代インドの諸宗教の真理を西洋世界に示しつつ、西洋思想と東洋思想の持つ普遍的要素を認めながらも、交流を願った。このような調和の考えは、『茶の本』には「象牙色の磁器の中の琥珀色の液に、その道の心得ある者は、孔子の甘美な寡黙、老子の風刺、釈迦牟尼その人の天上の香気に触れることができる」と述べられていて、儒教、道教、仏教が調和した「茶」の神髄は、様々な思想を包容することがわかる。
天心はインドでラビーンドラナート・タゴール(1861〜1941)とも親交を結んだ。タゴールは、詩、戯曲、小説をベンガル語で著し、1913年にノーベル文学賞を受賞した近代インド文化を代表する人物。各国を歴訪し、インド文化と思想の紹介につとめ、世界平和と国際協力を推進。天心は、タゴールの周辺に集う現地の芸術家たちと交流し、英国からの独立を目指す人々のナショナリズムに共感を寄せていった。
天心、ヴィヴェーカーナンダ、タゴールは、西洋文明が圧倒的な優位を誇る時代にアジアを代表する知識人として、自国の芸術、宗教、歴史、生活文化など伝統的文化を西欧社会に伝え、その理解を求めた。三人とも芸術や宗教を通して、「西洋」と「東洋」の持つ普遍的要素を唱え、その健全な交流、調和を願ったのである。
インドで天心は「日本美術」の源流を「アジア」に位置づけた。それを拠り所に「日本」の文化・思想をボストンから世界に発信する。彼はボストンを「西洋と東洋の中間に位置する家」に喩え、優れたコレクションの形成は「西洋と東洋が互いを理解し合う」ために不可欠と論じた。
彼の最後の著作はオペラ台本The White Fox(『白狐(びゃっこ)』)である。信太妻(しのだづま)伝説を題材に、母親の愛情と別離の悲しみという普遍的なテーマを核に、オペラという西洋文化の枠組みで創造された物語である。狐コルハとヤスナとの間に生まれた子どもは、相いれない二つの世界を結びつける奇跡的な存在で、その子にコルハが残した魔法の玉は、二つの世界に調和をもたらす未来を予言している。
1913年赤倉の天心は腎臓病に心臓病を併発、さらに尿毒症をも発して重体に陥る。急をきいて東京から弟由三郎、弟子の横山大観、下村観山らが駆けつけたが、そのまま、9月2日早朝、天心は五十年の生涯を閉じた。翌日、家族や弟子たちに護られて東京に戻る遺骸をおさめた棺は、花こそが私たちとともにあるとした天心の言葉をなぞるように、赤倉の山に咲き乱れる秋の野花で覆われていた。
さらに詳しく知りたい向きは、えちご妙高会のfacebookでシェアした次のものを読んでほしい。大久保喬樹「岡倉天心の思想は現代でどのような意味をもつのか?」