数日前に上越大和郵便局の12月24日よりの新春特別企画 「明治を中心にした歴代総理大臣の書、及び書簡の展示」 のお知らせがありました。それに合わせて、私の友人所蔵の何人かの総理大臣の書や書簡が添付されていました。その中の黒田清隆書の内容について、コメントを書きました。それを一部修正して再録すると、次の通りです。
『孟子』(巻3 公孫丑章句上)で述べられているのは「この上もなく大きく、つよく、正しいもので、それを立派に育てれば、天地の間に充満するほどにもなる。それが「浩然の気」である。だが、この気は正義と人道と共にしか存在しない。」ということ。(「至大至剛(しだいしごう)にして直(なお)く、養いて害(そこの)うことなければ、則ち天地の間に塞(み)(満)つ。その気たるや、義と道とに配(合)す」(『孟子 上』(小林勝人訳注、岩波文庫)、つまり、「至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之間。其爲氣也、配義與道。」で、黒田の書はその最後の部分に対応しているように思えます(画像の書は「其気配義與道」)。人格の完成につながる「浩然の気」を養うのが立派な人物のつとめというのが孟子の考えで、「その気は正義と人道と共にしかない」という意味です。性善説の孟子らしい主張です。それにしても黒田の書は意外に優しい。
さて、コメントを書いた後、数日たって気になりだしたのが最後の東条英機の句です。画像の「寒月や幾代照して今ここに」は辞世の句かどうか定かではないのですが、東条は1948年12月23日に処刑されています。まず、「照らす」ではなく、「照す」と書かれているのが気になりました(「てらす」という他動詞に対する自動詞の「てる」を比べると、共通の音は「て」だけ。それが漢字の部分で、他は仮名の筈です。つまり、自他の動詞の不変部分が漢字で、可変部分は送り仮名です)。他の関連文献ではどう表記されているか、気になりチェックすると、いずれも「照らして」でした。さらに、句の内容も気になり、少し考えてみたくなりました。
どこかの大学の紀要で、A級戦犯者東条の辞世の句の一つとして、
寒月や幾世照らして今ここに
が挙げられていました。そこに東洋的な諦観や武人としての潔さを感じとる人も、自己の無責任性に気づくことなく逝ったと批判する人もいる筈です。東条の辞世の句は幾つもあり、少々厄介でも、いくつか考えてみました。『東条英機』(上法快男編、芙蓉書房、1975)に辞世として句一つと歌二首があります。
苔の下待たるる菊の花盛り
たとへ身は千々にさくとも及ばじな栄し御世をおとせし罪は
我行くも又此の土地に帰り来ん国に報ゆる事の足らねば
また、東条は真夜中の死刑の七分前にも歌を詠んでいます。
さらばなり有為の奥山今日越えて弥陀のみもとに行くぞ嬉しき
明日よりは誰にはばかるところなく弥陀のみもとでのびのびと寝ん
日も月も蛍の光さながらにゆく手に弥陀の光輝く
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん國に酬ゆることの足らねば
東条の処刑までの経緯や辞世の句について確定的な結論はありませんが、上記の歌から軍人としての無責任さが浄土真宗への帰依によってかき消され、独特の心理状態にあったことが窺えます。「寒月や幾世照らして今ここに」にもこの世とあの世の習合が見て取れるのです。そして、その習合は敵対国だった欧米では許されない不合理な混淆だとされるものでした。現在なら、辞世の歌や句はプライベートなもので、公表されるべきではないと主張する人が必ずやいる筈です。でも、中世以降、文人の末期や武士の切腹に際し、ほとんど必須となっていたのが辞世の文学です。最も多く作られたのが辞世の和歌で、江戸時代に入ると狂歌や俳句に移り変わっていきますが、「辞世文学」は確かに定着していました。では、現在はどうでしょうか。辞世の句など聞かなくなりましたが、それがプライベートなものだとは誰も思わないでしょう。私小説は文学ですし、死人にプライバシィがあるかどうかは十分に議論されてもいないのです。