セザンヌ:風景画と山水画の統合

 自然を措いた絵画といえば「風景画」、あるいは「山水画」。どちらも自然の風景を描いているが、ヨーロッパの風景画と中国の山水画では大きな隔たりがある。風景画はルネサンス以前にはなく、それに500年は先行する山水画は自然を万物を生み出す源として描く。

 純粋な風景画の始まりは16、7世紀のオランダ絵画。山水画の歴史は古く、六朝時代(3~6世紀)。西洋の風景画はジャンルとして独立した後も、長らく宗教画、歴史画、神話画等に比べて評価は高くなかった。だが、東洋の山水画はそれらと同等、あるいはそれ以上に高い地位と評価が与えられていた。

 中国では宋時代になると、それまでの色彩豊かな山水表現に対して水墨画による表現が生まれる。それらの作品が鎌倉時代以降、日本に数多くもたらされ、水墨技法が定着、室町時代に入ると周文や雪舟などにより水墨山水画が隆盛を見せる。しかし、かの有名な雪舟の「天橋立図」など僅かな実景山水を除けば、そのほとんどは「胸中の山水」と呼ばれるごとく、理想的、心象的な山水画が多数を占めた。

 江戸時代中期になると、写生を重要視した円山応挙葛飾北斎歌川広重などの浮世絵師、そして文人画家池大雅らによって新たな作品が描かれ出す。彼らは実際に日本各地を旅し、そこで見る風景を写生し、それをもとに西洋画の写実や遠近法などを取り入れたもので、その活動と作品は日本の風景画の先駆となった。

 そして、明治に入り、美術でも西洋の技法・表現・思想が取り入れられ、絵画においては西洋画(油絵)が新たな絵画技法として加わる。それによって、「山水画」とは異なる「風景画」が日本でも浸透していった。これに対し、岡倉天心らの指導の下、狩野芳崖横山大観らが、日本絵画の伝統を守りつつも新たな日本画の創造に尽力、伝統的山水画と並行して日本画による風景画制作も試みられた。

 風景画と山水画はこのように違っているが、それを統合しようとしたのがセザンヌセザンヌは、リンゴをはじめとして、テーブルの上に静物を並べた静物画をよく描いた。当時は歴史や神話の人物を描いた人物画こそが、格調の高い絵画だと思われていて、静物画は人間中心主義からは見下されていた。だが、セザンヌにとって、静物画は自在に画面を構成できる格好の題材だった。絵画を二次元の平面上で構成する美学だと考えるセザンヌにとっては、静物こそ自らの本領を発揮できるモチーフだった。セザンヌは、ある書簡で「自然を円筒形、球、円錐によって扱いなさい」と述べている。彼が物体の質感や立体感などにこだわらない印象派の絵画から距離を置いたのは、もの自体を表現したかったからだろう。さらに、西洋の絵画の伝統である一点透視図法(遠近法)から考えれば、セザンヌ静物画は複数の視点から描かれ、明らかに破綻した描き方。このような斬新な視点は、後にピカソやブラックのキュビスム(立体主義)につながる。

 セザンヌの空間認識は東洋の山水画に用いられた遠近法に似ている。無限の広がり、無限の深さ、無限の高さという東洋の三遠法に通じ、視覚の認識ではなく、無限の空間の中にある世界観を描こうとしている。セザンヌには西洋の一点透視で対象を捉えることに対する不満があり、描こうとする対象が宇宙の一部であると考える点で東洋との類似性がある。また、セザンヌは自然の内にある幾何学的要素に還元することに関心があった。セザンヌは円筒、球、円錐で自然を表現しようとし、木の幹は円柱、りんごやオレンジは球で構成しようとした。セザンヌは「知覚の真理」を把握したいと考えていたため、複数の視点での表現を探求し、このセザンヌの美術思想は、そのまま後にキュビスムに受け継がれる。「ニコラ・プッサンを再構成している」というセザンヌの主張は、古典主義的な構成の永続性(形態の量感や空間概念の表現)と自然の観察(印象派的な色合いの表現)という彼の願望を結びようとする主張であった。

 セザンヌの代表作は1887年の「サント=ヴィクトワール山」である。画面中央の山を、前景の松の木の幹と枝がしっかりと包み込んでいる。平野と山と空に対して前景の端に大きく松の木を置いて、古典主義的な安定した画面構成となっている。だが、空間の奥行きや対象の立体感を表出するのは伝統的な遠近法や陰影法ではない。緑色、黄土色、青色を主調とし、色調を微妙に変化させた小さな色面を並置することで、風景の広がりや大地の量感が表現されていく。特に、塗り残した部分をつくり、それらが作品の一要素として組み込まれており、全体を塗り込めて完成する従来の西洋絵画の考え方から逸脱し、山水画に通じている。

 サント=ヴィクトワール山は岩山で、南部のエクス=アン=プロヴァンスの近くにあり、長く延びる全長18km以上の石灰岩の山で、その最高点は「ピックデムッシュ」1011m。この山を描くことに固執したセザンヌ妙高にいたなら、妙高山をどのように描いただろうか。そんなことを空想し、彼の残した絵を描き直してみたくなる。あるいは、北斎や広重が妙高山を描いたら、一体どんな風景の版画ができ上ったろうか。また、天心や大観なら妙高の風景をどのように捉え、描こうとしただろうか。老人の妙高の風景画や山水画に対する夢想は尽きない。