「雪月花」-日本画の習合と選択

 仏葬の副葬品である冥銭は六道銭とも呼ばれ、三途の川の渡し賃とも言われています。しなの鉄道の「ろくもん」は「真田一族」の家紋「六文銭」から名前がつけられました。列車の配色は真田信繁(幸村)が大坂冬の陣などで用いた「赤備え」(赤で統一された甲冑や武具)をイメージした濃い赤が基調になっています。 

 中国では西暦621年に「開元通宝」という優れた貨幣が造られ、これが遣唐使などによって日本に伝えられました。この開元通宝をモデルにし、和銅元(708)年に造られたのが「和同開珎」、さらに古い7世紀後半に造られたとされる「富本銭」が奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で見つかっていますが、貨幣は中国からもたらされ、日本で独自に発展します。真田の六文銭はその起源が中国でも、日本独自の発展結果であることは誰にも明らかなことです。これと似たことが日本画についても言えて、様々な絵画が日本で習合し、独自のものが生まれたと考えていますが、まずはしなの鉄道の「ろくもん」と並ぶえちごトキめき鉄道の「雪月花(せつげっか)も見ておきましょう。

 「雪月花」の由来は何か。白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶(おも)ふ)」から来ている、というのが最も一般的な説明で、雪、月、花は自然の美しい三つの風景を指しています。長安白居易は江南にいたときの部下殷協律にこの詩を贈りました。この詩の「雪月花の時」は四季折々を指す語で、そうした折々に遠く江南にいる殷協律を思い出し、詠んだものです。

 これが日本に入り、自然の代表的な美を表すのに用いられてきました。例えば、宝塚歌劇団の花、月、雪という組分けにも用いられています。「雪月花」という名称が決められた理由は「夜桜の春、山と海を体感できる夏、紅葉と収穫の秋、雪景色の冬など四季明瞭な沿線の折々の景色を愛で、地元の旬の食材が堪能できる車両をイメージした名称」ということなのでしょう。「雪月花」は季節美を表現し、「花鳥風月」は自然美を表現しているのですが、それぞれには雪がなく、山や川もなく、写生的でもないのですが、いずれも中国語の「風花雪月」、「雪月花」からそのまま移入されたものです。

 さて、「雪月花」は喜多川歌麿(1753~1806)によって描かれた一連の肉筆画の大作で、「深川の雪」、「品川の月」、「吉原の花」を指しています。「品川の月」が天明8年(1788年)頃、「吉原の花」が寛政3,4年(1791-92年)頃、「品川の雪」が享和から没年にかけて(1801-06年)と制作時期が大きく隔たります。

*後述の司馬江漢は 1783年頃には既に油絵を描き出しています。

 歌麿の「雪月花」三部作が揃って展示された最古の記録は、1879年11月23日に栃木県定願寺で豪商・善野家が出品したというものですが、その後三部作は美術商の手によってパリに渡り、現在は「吉原の花」はアメリカのワズワース・アセーニアム美術館に、「品川の月」はアメリカのフリーア美術館に収蔵されています。

 また、「深川の雪」は戦前に日本に戻り、1948年と1952年の2回にわたり公開展示されたことが確認されていましたが、長らく行方がわかりませんでした。しかし、2012年に再発見され、現在では箱根の岡田美術館に収蔵されています。

 私は勝手に歌麿写楽北斎、広重を江戸の浮世絵の四天王と呼んでいるのですが、その一人歌麿の肉筆画は北斎の晩年の肉筆画と並んで見事としか言いようがありません。私がここで注意したいのは「雪月花」で四季を捉えることを中国から学び、それを下敷きにして、日本独自の絵画を遠近法も考慮しながら描いている点です。ここには文化の混淆が見事に結実しています(これは次に述べる司馬江漢ではより鮮明になります)。

訓詁学(くんこがく)風に、「雪月花」と同類の名前となると、「雪月風花」、「風月無辺」、「雪中四友」、「山紫水明」、「大観」、「風雅」等々の名前が浮かぶが、四文字熟語が圧倒的に多い。どれも自然環境の見事さを表現したもの。

 

 歌麿の「雪月花」の次は鈴木春重の「雪月花」です。あまり知られていない名前の鈴木春重は錦絵を創始した鈴木春信の弟子ですが、今では司馬江漢という名前の方が遥かに有名です。「品川月」は 明和7~8年(1770~71)頃の作品で、他の二作品は「青楼雪」 と「二軒茶屋の花」も明和7~8年(1770~71)頃です。歌麿より随分前の作品で、短い期間にまとめて制作されたことがわかります。そして、春重と歌麿を比べるなら、浮世絵そのものの進化がわかるだけでなく、歌麿の遠近感のある描写が際立っているのがよくわかります。さらに、歌麿の「雪月花」と司馬江漢の洋画を見比べてみるのも有意義です。

 さて、司馬江漢(1747―1818)は私より200年前に生まれ、歌麿より6年先輩の江戸時代中期から後期の洋風画家です。芝新銭座生れで、それが後の「司馬」名になりました。彼はまず狩野派に入門し、絵を学び、後に宋紫石に(森蘭斎らの写実的な)南蘋派の唐画を学ぶと同時に、鈴木春信の弟子になり、春重の名で浮世絵を描き、その中の作品が上記の「雪月花」の三部作です。その後、平賀源内や小田野直武らの影響により洋風画に転じ、1783(天明3)年には日本最初の銅版画制作に成功します。さらに、江漢は1788年頃からは油絵も描き始めています。

 狩野派から油絵まで描き、蘭学にも通じていた司馬江漢には「日本画」という概念など大した意味を持っていなかった筈です。外国から多くのものを吸収し、独自のものを生み出すことは歌麿にも江漢にも共通していて、それがどんな事柄にも通じるように私には思えるのです。

深川の雪

品川の月

吉原の花

青楼雪

品川月

二軒茶屋の花