実在や表象について「主観的」と「客観的」とは紙一重で、二つの峻別は的外れ、というのが昨日の結論だった(「主観」と「客観」は直面と仮面に似ている。「主観的である、客観的である」の二つの状態しか意識の状態はないのかと問われれば、通常の知覚経験は主観的とも客観的とも意識されない経験である。主観と客観の境界は曖昧で、それゆえ、間主観といった妥協・調停が考えられてきた。主観的なもの、例えば感覚知覚の経験は客観的な知識だけからなる自然科学では表現できないと信じられてきたが、脳科学や心理学は主観的なものを解明しようと躍起になってきた。直面が仮面の一つであるように、主観性も客観的に解明されるべき対象の一つと捉えられるようになってきた。「意識が「主観的」」なのは意識をもつ人の主観的な判断に過ぎない)。
雪舟の「山水図」と等伯の「松林図屏風」が気になり出して暫く経つ。(世界とその表象に関する)西欧での経緯はつまるところ、次のようなもの。3次元空間を正確に2次元画面に写生するには視点の固定が不可欠と考えたのがルネッサンス以降のヨーロッパ。そのために透視図法を開発。画家の視点を固定しないと透視図法は使えない。カメラオブスキュラもピンホールを通った光を利用するため、やはり視点の固定が必要。対象は視点を一つ固定して描画されるが、人間は実は単数視点で物体を見ていない。単数視点で物体をながめていると空間認識がうまくできなくなり、ゲシュタルト崩壊を起こす。
人物の身体は正面、顔は真横、目は正面と、異なる角度からながめた人物のパーツを寄せ集めた多数視点描画法の代表がエジプト絵画。 人間の空間認識システムから考えれば、多数視点描画が人間の普通の見方。中世の絵画にも多数視点描画が多く見られる。その後、視点の固定によって透視図法が導入され、写実的な単数視点描画が完成。しかし、人間の空間認識システムは多視点が基本のため、単数視点描画が洗練されればされるほど、それがしっくりこないと感じる画家がでてくる。その代表的な一人がセザンヌ。セザンヌは多数視点描画法で静物や風景を描いた。彼の静物画は、さまざまな方向から見た多数視点をマイルドに組み合わせ、自然に受け入れることができる画になっている。セザンヌのこの姿勢はピカソらに受け継がれ、キュビズムが登場。多視点から対象物を二次元画面上に意識的に再構成するのがキュビズム。しかし、極端な一つだけの視点に違和感を感じるように、多数視点を強調したキュビズムにも人は違和感を感じる。面白い実験でしかなかったキュビズムだが、人間本来の空間認識法である多数視点を描画に取り入れ、人間の知覚を主役にした主観的な絵画への途を拓いた。
結局、科学的な世界観の基礎に置かれた世界の描像は一つの視点をもつ透視画的なものから複数視点や視点のない描像へ変わり、文脈に相対的な世界が複数あることに落ち着く。客観的な一つの実在世界から主観的な複数の知覚世界へと世界像が転回していく中で、それをなぞって見せたのが西欧の絵画ということになる。
雪舟も等伯も上述のような世界の構造や知覚の経緯をすべて超越してしまっている。視点も透視図法も無視し、それらを逸脱した「逸品」を描くことによって、世界の姿を私たちに示してくれた。複数の視点を使って描くという西欧のつつましい実験に比べれば、世界を逸脱して描くのが山水と断じたのが雪舟。それだけでもセザンヌを遥かに凌駕しているというのは言い過ぎか。
「松林図屏風」は未完ゆえに私たちの心を惹きつける。完成されていたら、まるで違ったものになっていたことは、等伯の他の山水画を観れば簡単にわかる。だから、「松林図屏風」はダ・ヴィンチやデューラーのデッサンと比べた方がいい。濃霧の中の松林に引き込まれる理由は、デッサンのもつ余白や空白が日本画の余白や空白とうまく混同されたところにある。浮世絵の余白とセザンヌの余白は同類だが、等伯の余白はデッサンの余白と同類。