インペトス理論について昨日述べました。そこで、科学革命(scientific revolution)の前後を垣間見てみましょう。中世ヨーロッパの大学で教えられていた自然哲学(natural philosophy)は、アリストテレスの自然学。アリストテレス自然学では性質(形相)を使って物質(質料)が説明されています。つまり、物質は性質によって理解され、その逆ではありません。現在でも本質、性質が重要だという考えが根強いですが、アリストテレス自然学の名残りと言えます。運動もこの性質によって説明されましたが、運動の目的は性質の実現であり、それが目的論的世界観です。この世界観を逆転させたのが,17世紀の科学革命で、ガリレオやデカルトが生み出したのが機械論的自然観です。機械論的自然観では、性質は物体の運動によって生み出されます。すると、性質は運動に付随するものとなります。機械論的自然観は実験科学を確立したボイルに受け継がれ、ニュートン物理学でさらに変質し、因果論的世界観が生まれます。
科学革命の最初の闘士ガリレオ(1564-1642)は『贋金鑑識官』で、物質の色や匂いや味や手触りなどの感覚的、知覚的な性質は感覚や知覚の経験をもつ人がもつ主観的なもの(第二性質)で、物質の形、個数、配置、運動(位置変化)だけが客観的な性質(第一性質)と区別します。つまり、客観的な第一性質は物理的な性質ですが、主観的な第二性質は心理的なものに過ぎないのです。
ガリレオに続くデカルト(1596-1650)の機械論哲学によれば、当時発達した機械(当時の機械の典型は時計、現在ならコンピューターということになります)のメカニズムをもとに、自然も神が作った精妙な機械ということになります。機械の各部分は、それ自体としての意思を持たない、受動的な物質ですが、その部品が、機械製作者の意思に基づいて組み立てられ、完成すると製作者とは独立に動き始めます。神はこの世界を作りましたが、その世界を人間に任せて自らは身を引きました。物質を受動的な物とみなし、製作者(つまり、神または人間)の意思のみに能動性を認める考え方は、精神と物質、心と身体の二元論的考え方の根拠の一つになりました。
ケプラーもボイルも、自然を時計仕掛けのようなものと考えていました。機械論哲学では、機械の歯車と歯車の組み合わせのように、物質は互いに接触しなければ運動を伝えることはできません(近接的な力)。それゆえ、ガリレオやその弟子たちはケプラーの法則を認めず、デカルトの追随者たちはニュートンの重力の法則(いずれの法則も離れた物体同士が力を及ぼしあうという遠隔的な力についてのもの)を批判しました(遠隔的な力をきちんと説明することは大変で、エーテル概念の否定は20世紀になります)。
ベーコン(1561-1626)は観察や実験によって得られた事実をもとに一般的な真理を得るのが自然哲学的な方法だと主張しました。正しい自然哲学を作り上げるための条件は、自然についての正しい事実を集めることです。ベーコンは次のボイルとともに、個別具体的な意識的経験、つまり「観察」を重視すべきことを説き、そのなかに「実験」も含めました。ボイル(1627-91)は実験助手のフック(1635-1703)とともに、真空ポンプや水銀柱を用いた気体の実験を数多く行いました。その結果をまとめたのが気体の体積と圧力に関するボイルの法則です。ボイルはベーコンの帰納主義哲学に基づいて、実験による経験を科学的探究の基礎にしました。