実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ

・あること、存在すること、実在すること
・感じること、見えること、聞こえること
・述べること、表現すること、話すこと
これら三つの何が同じで、何が異なるのか。あるいは、何が主で、何が従なのか。考えるべきことの宝庫になっていて、存在(存在論)、感覚(知覚論)、言葉(言語論)の間の関係を知ることが哲学の課題となってきました。
<名前の本性>
 妙高山は「妙高山」でなければ腑に落ちず、深川は「深川」と呼ばれてこそ深川だと大抵の人は断言する筈です。ですから、富士山は「富士山」でなければなりません。名前はものやことにつけられ、それを指示するにも関わらず、そのものやことの本来の性質を表す必要はありません。「猫」はネコを指しますが、ネコの性質などもっていませんし、「Cat」も「猫」もネコの性質ではありません。イヌやネコの名前は一般名詞ですが、固有名詞の場合も同じです。私の名前は固有名詞で、私と私の名前の関係は独特のものです。地名はつけられた街や地方の性質ではありませんし、山や海の名前も山や海の性質を表現している訳ではありません。ものやことの名前は偶然につけられても、そのものの性質を表すようにつけられても、いずれでも構わない、ということになります。
 固有名詞は、ある時、誰かによって命名され、それが因果的な変遷を経て現在に至っています。その過程が固有名詞の意味だと考えると、固有名詞は歴史的偶然とその後の因果系列の二つからなっていることがわかります。そんな観点から「深川」がいつ誰が命名し、どんな経緯を経て現在に至ったのか確認してみましょう。
 徳川家康により天正18年(1590年)から開削が進められていた小名木川の北側を開拓したのが摂津出身の深川八郎右衛門。慶長元年(1596年)に深川村ができます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門も一時住み、曲亭馬琴はこの地で生まれ、松尾芭蕉は深川から旅立ちました。1878年東京15区の一つとして深川区ができ、1947年に城東区と合併し、現在の江東区となります。その江東区に今は私も住んでいます。
 こんなところが「深川」の意味ということになりますが、北海道にも深川市があり、少々気になります。でも、江東区の深川とは無関係というのが答えです。北海道の「深川」は東京深川から移住した開拓民に由来するという話を広めたのは故司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』第15巻「北海道の諸道」の記述です。彼は深川市に来て、深川市の人々の一部は東京の深川出身だと言われたのを思い出し、それを記したのです。あの司馬遼太郎が書いたのなら、日本人は文句なく信じてしまいます。名前の因果的経緯の中に誤りが紛れ込んだということで、これは固有名詞の宿命のようなものです。
 深川の名前は「徳川」では却下されたでしょうが、「堀川」でもよかったはずです。いずれでもなく、開拓を指揮した深川八郎右衛門に因んで命名され、それが様々な因果的な経緯を経て現在に至っています。命名は偶然であっても、その後の経緯は、その名前に意味を与え、名前と指示対象の間に切っても切れない縁があるかのような演出さえしているのです。つまり、「経緯=歴史」が偶然を必然であるかのように変える演出をしているのです。そのため、深川は「深川」でなくてはならず、妙高は「妙高」と呼ばれなければならないと私たちは錯覚するのです。
*名詞が何を指示するかについての上述のような考えは、「指示の因果説」と呼ばれ、クリプキ(Saul Kripke)によって最初に唱えられた考えに基づいています。
 折角ですので固有名詞の特徴をもう少し考えてみましょう。「認識論的必然性(アプリオリ性)と形而上学的必然性の区別」、「固定指示子」、「指示の因果説」などを提唱したのがクリプキです。第一の主張は、「宵の明星」と「明けの明星」のような、別々の固有名詞で名指される対象の同一性についてです。私たちが宵の明星と明けの明星が金星であると知ったのは、天文学上の発見によってであり、それは云わば偶然のことでした。ですから、宵の明星と明けの明星が同一であるのは必然的なことではありません。でも、クリプキによれば、宵の明星と明けの明星がたまたま同一であったということは、同一性そのものが偶然に成り立つということではありません。同一性は、対象とそれ自身との関係であり、必然的に成り立ちます。宵の明星と明けの明星が同一である以上、両者は必然的に同一なのです。同じ考えが一般的な種名辞にも適用できます。「熱が分子運動である」という「理論的同一性」は、偶然に発見されたとはいえ、存在論的には必然的な真理なのです。
 このことを可能世界論で解釈したとき、第二の主張が生まれます。「明けの明星」、「宵の明星」、「金星」のような固有名詞は、固定指示子(rigid designator)、つまりあらゆる可能世界で同一の対象を指し示す指示句です。一方、「宵に西の空に輝く惑星」、「暁に東の空に輝く惑星」のような記述句は、それぞれの可能世界においてその字面の性質を満たす対象を、それが何であれ、柔軟に指し示します。金星が暁の東の空に輝き、火星が宵の西の空に輝く可能世界では、「暁に東の空に輝く惑星」は「宵に西の空に輝く惑星」と同一ではありません。でも、固有名詞は記述句と違って、いかなる性質をも媒介せず「直接に」対象を指し示します。宵の明星はいつどこで輝こうが、惑星だろうが、恒星だろうが、宵の明星かつ明けの明星なのです。
 指示の因果説によれば、私が使う固有名詞「妙高山」、「深川」は他人の発話や文章からなる因果的な系列によってリレーされてきたものです。この系列は教科書や教師の声や昔の新聞を経て共同体の中を遡ったあげく、ある山や地域に対し誰かが命名している現場にまで到達することになるでしょう(はじめは「妙高」ではなく「名香」か何かだったでしょうが、名前の形の変化も物理的連続性が保たれていれば問題ありません)。「熱」や「水」のような一般種名辞の場合は、最初のサンプルとそこで作られた科学理論が、命名と同じように系列の出発点の役割を果たします。
<固有名詞の確定記述や因果説について議論する前に>
 固有名詞は確定記述(definite description、固有名詞が何を指示するかを決定できる文の集合)によって表現されるような意味をもつのか、それとも端的に対象を指示するだけなのか。このような問題が20世紀の後半に盛んに議論されました。同じ頃、生物種は実在的なのか否かが問題になっていました。それらの問題は言語哲学と生物学の哲学という異なる分野の問題であり、あえて一緒に扱われることはほとんどありませんでした。そろそろそれらの議論の後始末が必要なのですが、そのために具体的な事例を参考に再度考え直してみましょう。まずはその下準備として、生物種の名前の二例を挙げてみましょう。
イヌワシ
 「イヌワシ」という名前は、安土桃山時代から様々な文献に登場します。天狗のモデルがイヌワシで、和名では「狗鷲」と書かれます。「いぬ」はより下を意味し、より大きい大鷲(オオワシ)の下という意味でイヌワシと呼ばれました。逆に「いぬ」は大きいものを表す言葉であり、大きい鷲という意味でその名前がつきました。さらに、鳴き声がイヌのようだからつけられました。このように諸説乱立で、その由来は曖昧で不明。もっともらしいのは、イヌワシオオワシオジロワシの呼び分けが同時に行われるようになったため「オオワシ」と見分けて「より劣るワシ=イヌワシ」とする説です。これだけでも私たちが住む生活世界が素直でオープンな世界などでは決してなく、思惑が飛び交い、一筋縄ではいかない混乱した世界であることがわかります。
 オオワシは古来、その尾羽が矢羽の素材として珍重されてきました。どんな鳥よりも大きく、根本まで真っ白なオオワシの尾羽は非常に貴重で、神事にも用いられていました。オジロワシも長く白い尾羽を持ちますが、個体によっては根本付近に茶色が混ざることがあるようで、イヌワシに至っては全身がオオワシよりも一回り小さく、尾羽の色も黒っぽいため、矢羽としての価値は劣ります。今の私たちにはまるで時代錯誤の話で、名前など実につまらない理由によってつけられたのだという証拠でしかありません。
 オオワシの名前は「大きなワシ」、オジロワシは(オオワシより価値は劣るが)「尾羽が白いワシ」。これに対し、イヌワシは「オオワシとは似て異なる、価値の劣るワシ」というのが最もスタンダードな説と述べました。江戸時代に入ると他にも様々な異名が登場します。「クロワシ」が最も広まった名前ですが、これはイヌワシの全身が黒っぽく大きな翼を持つことから「天狗伝説」のモチーフとなったと考えられています。他にも「クマワシ」、「ネコワシ」、「チグリワシ」、「ワキジロ」など、地域によって様々な名前が見られ、これらの多様な名前の中から、明治・大正・昭和を経て「イヌワシ」が標準和名として定められました。でも、標準和名とはいっても公的機関の認証があるわけではなく、単にスタンダードな図鑑や事典などに使用される名前というだけです。ですから、今でもイヌワシを「クロワシ」や「チグリワシ」と呼ぶ地域もあり、これらの異名もイヌワシの「準標準和名」とされています。このような経緯が名前に権威を与え、それが正しい名前というような幻想を人々に植えつけることになるのです。
ニセアカシア
 「偽」も「似非」もいい意味ではありません。その「ニセ」が接頭語のようについたのがニセアカシア。北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木です。日本には1873年に渡来しました。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられます。一般的に使われるニセアカシアは、種小名のpseudoacacia(「pseudo=よく似た、擬似の、acacia=アカシア」)の直訳そのもので、何ともいただけません。「アカシア」というと日本語のように思われがちですが、実は学名のRobinia pseudoacaciaに由来しているのです。Robiniaという属名は、17世紀初頭に米国からこの木を輸入して栽培したフランスの庭師兼植物学者ジャン・ロバン (Jean Robin)の名前にちなんで命名されました。彼は1597年にパリ大学の医学部から植物園の設立を依頼され、フランスにアメリカ原産のニセアカシアやアジア原産のムクゲ(Hibiscus syriacus)を栽培しました。ロバンの植えたこれらの樹木はパリ植物園で最も古い植物として現在も残っています。
 和名で針槐(ハリエンジュ)と呼ばれるニセアカシア。針槐が日本に渡って来たのは明治時代で、その当時アカシアと呼ばれたことから混同が起きました。ちなみにアカシアのハチミツとして販売されているものは、針槐の花の蜜であり、本来のアカシアの蜜ではありません。例えば、札幌のアカシア並木、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」など、実はニセアカシアなのです。
 では、アカシアはどんな木なのでしょうか。ここにも混同があり、アカシアは黄色のフサフサした花を咲かせる木で、ミモザと呼ばれています。ミモザは別の種類なのですが、世間ではアカシアをミモザと呼んでいます。
 アカシアは日本へ導入された当初の呼び名で、ハリエンジュは明治19年に松村任三博士が命名しました。ギゴウカンは「疑合歓」の意味でネムノキに類似しているため名づけられました。「ゴムノキ」はゴムのとれるアカシアだと間違って宣伝されたためでした。ニセアカシア命名に関しては災難続きだったことがわかります。
 「イヌモドキ」は犬に似た生き物ですが、犬ではないのでイヌモドキなのか、「擬き」が偽物(イヌ)なのだから、擬きではなく本物なのか、こんな珍問答を想像したくなるほどに、この謂い回し自体何とも怪しげな表現としか言いようがありません。種を明かせば、「イヌ」も「モドキ」もほぼ同じ意味。いずれも本物の代用品という意味で「イヌ」や「モドキ」が使われてきました。ですから、「イヌモドキ」は偽物のダブルで本物だと言いたくなるのです。
 世間を見ればイヌモドキどころではなく、キツネとタヌキの騙し合いだらけで、ですから世界は面白いのです。まずは少々退屈でも、生物の命名をもう少し引っ掻いてみましょう。イヌナズナは,道端や農地周辺などに多い越年草。暖かい地方よりも北国でより多く見かけます。ナズナに似ていますが,花が黄色いことのほか短角果の形も違います。人里で目にするナズナに似て黄色の花はすべてイヌナズナと思っていいでしょう。
 広辞苑によれば、「イヌ」はある語に冠して、似て非なるもの、劣るものの意を表す語。別の辞書には、役立つ植物の何かに形態上は似ているが、多くは人間生活に直接有用ではないものを表すとあります。イヌナズナの他に、イヌムギ、イヌタデ、イヌナズナ、イヌツゲなどがあります。イヌタデは、昔ままごとで使った「アカマンマ」のことで、残念ながら食べられません。「タデ」はその芽を刺身の付け合わせにします。ナズナは、春の七草。ところが、形は似ているイヌナズナは、食べられません。ツゲは、櫛や将棋の駒に使われますが、イヌツゲは、材質がよくなく使われません。
 「イヌ」を使う由来は実際の犬とは無関係のものが多く、有用な植物に似ていても「否(いな)、違う」とか「役に立たない」という意味でつけられたものが多いのです。本物の植物に対してのニセモノといった不本意命名をされた例も多く、人間用でなく犬用ということから、「麦」に対して「イヌムギ」、「稗」に対して「イヌビエ」、そして同様に「イヌホオズキ」、「イヌタデ」、「イヌハッカ」といった具合です。
 ところが、「オオイヌノフグリ」の「イヌ」は、本来の犬のふぐりの形に似ていることからついた名称です。漢字で「狗尾草」と書く「エノコログサ」は、イヌの尾の形に似ていることからついた名称ですが、別名ではイヌではなく「ネコジャラシ」と呼ばれています。同様の例としては、和名「イヌハッカ」と呼ばれている同じ植物が、英名では猫が好む香りのあるハッカという意味で「キャットニップ」(同じイヌハッカ属に「キャットミント」もある)という名前で親しまれています。
 こうなると、動植物の命名の歴史は何ともいい加減で不真面目、駄洒落さえOKという歴史であることになります。
<惑星の名前>
 私たちは物質が原子でできていることを知っています。では、昔の人は物質は何からできていると考えていたのでしょうか。古代中国では色々な物質は木、火、土、金、水の5種類の元素からなると考えられていました。この考えは「五行説」と呼ばれていて、それによれば、私たちの一週間は五元素と太陽を表す「日」と「月」の7つの曜日からなりますが、惑星にも同じように当てはまります。太陽のすぐ近くを回る水星の公転周期は約88日で、地球の365日より随分速く回わっているため、水が流れるようにということから水の星、つまり水星と名づけました。金星は、太陽、月以外では一番明るく輝いています。それゆえ、「明けの明星」、「宵の明星」という別名もあるくらいで、金のように輝いている星、つまり金星。火星の表面には酸化鉄が多くあり、酸化鉄はさびで、赤い色をしています。「赤い」のは火で、火のような星、つまり火星という訳です。土星の表面には白や黄色の縞があり、それが土のような色に近く、土の星、つまり土星です。木星五行説で残った木をあて、木星としました。これで命名は終わりです。かつては惑星がこの五つだと考えられていたからです。五行説ではこのような説明になりますが、これはかつての中国や日本での話で、古代ギリシャでも五行説に似た説明がありました。
 ヨーロッパの星座が一通りの完成をみた古代ギリシャで、星座の間を動く明るい惑星に対し神々の名前がつけられました。惑星と神々の名を挙げておきましょう。
 水星(Mercury Hermes)、金星(Venus Aphrodite)、地球(Earth Gaia)(ヘシオドスの『神統記』によると、まず「カオス」が生まれ、次に「大地(ガイア)」が生まれました。その後「地下(タルタロス)」が生まれ、そして「愛(エロス)」が生まれました。さらにカオスからは「幽明(エレボス)」と「夜(ニュクス)」が、ニュクスからは「澄明(アイテル)」と「(昼日)ヘメレ」が生まれ、ガイアは「天(ウラノス)」、「海(ポントス)」を生みましだ。そして、ガイアはウラノスと交わり、数多くの子供を産みました。)、火星(Mars Ares)、木星(Jupiter Zeus)(全知全能の神ゼウス、またの名はジュピター。クロノスとレアの子供として生まれ、オリンポス神族の長となります。ゼウスは「明るく輝く空」を意味し、雷を武器としました。ゼウスは姉であるヘラと結婚しますが、女に対し手が早く、嫉妬心の高いヘラの目を盗んでは浮気をし、子供を増やしていきました。なお、木星の衛星はそのほとんどがゼウスと関係の深い女性の名がつけられています。)、土星(Saturn Kronos)。
 その後ヨーロッパで天体望遠鏡が発明され、天体望遠鏡で空を観測することによって、天王星海王星冥王星が発見されます。それが日本に名前と共に伝わりました。天王星は英語ではウラヌス。それはギリシャ神話の天空の神様。青緑色に見えるので、この天の神様の名前がつけられました。天の王様の星ということで、天王星海王星は英語でネプチューンネプチューンローマ神話の神様で、海の神様。海王星も美しい青色をしていて、それで海の神様から名前をもらいました。今では惑星ではなくなりましたが、冥王星は英語ではプルート。冥界の神様で、死後の世界の王様の星、つまり冥王星命名されました。
<元素の名前>
 「万物は、その根源をなす不可欠な究極的要素からなる」(広辞苑)という考えは古代からの原子論的な自然観であり、その究極的要素の探究が科学を生み出しました。そして、この「究極的要素」が元素で、「それ以上分けることができない物質(アトム)」として定義されたのは18世紀に入ってのこと。19世紀になると「物質を構成する最小の粒子」を原子とする考えが広まり、元素の物質的正体は原子で、元素は「原子の化学的性質を表す概念」、あるいは「同じ陽子数を持つ原子の総称」となります。現在では、原子よりさらに小さい素粒子が「物質を構成する最小の粒子」です。
 1869年、ロシアのメンデレーエフが提唱した「元素周期表」は鉛(Pb 原子番号 82)まで、1871年に発表した第二周期表には既に天然で最も重いウラン(U 原子番号92)がありましたが、まだまだ空欄が残っていました。その空欄全てを埋めるには1930年代の加速器の登場が必要でした。そして、加速器の登場によってウランより重い元素(超ウラン元素)が人工的に作り出されていきました。1940年に米国のエドウィン・マクミランらによってネプツニウム(Np 原子番号 93)が作られると、次々と超ウラン元素が作り出されることになります。1958年にアメリカでノーベリウム(No 原子番号102)が作られ、その後はロシア、ドイツ、そして日本がこの競争に参入、最近ではロシアと米国の共同研究グループが発見した114番、116番元素に、それぞれフレロビウム(Fl)、リバモリウム(Lv)という名前がつきました。
 1908年、小川正孝は原子量が約100の43番元素を精製・分離したと主張し、「ニッポニウム」として発表しました。しかし、他の誰も結果を再現できず、その信頼性は揺らいでいきます。それから29年後の1937年、エミリオ・セグレが米国の加速器を使って43番元素を作り出しました。ニッポニウムは幻となり、43番元素は1947年にテクネチウム(Tc)と命名されました。このテクネチウムは小川の方法では見つかるはずがなかったことから、小川は間違っていたと考えられました。小川の死後、研究資料を詳しく調べると、レニウム(Re 原子番号75、1925年に独のワルター・ノダックらが発見)であることが判明したのです。何と小川が1908年に発見したのはこのレニウムだったのです。
 さて、元素の名前はどのように決まるのでしょうか。まずは研究グループが新元素発見を主張する論文を発表。その後、「国際純正・応用化学連合IUPAC:International Union of Pure and Applied Chemistry)」と「国際純粋・応用物理学連合(IUPAP:International Union of Pure and Applied Physics)」が推薦する有識者で構成された合同作業部会「JWP:Joint Working Party」 がその論文の実験結果の信頼性を調べます。JWPはその調査内容を記した報告書(論文)をIUPACに提出、報告書に問題がないと判断されると、IUPACが新元素を発見した研究グループを認定するとともに、新元素の命名権を同グループに与えます。これが命名までの手順です。
 2015年末、理化学研究所チームが合成した113番元素がIUAPCの認可を受け、命名権が同グループに与えられました。113番元素はミリ秒レベルの寿命しか持たず、これまでたった3原子しか合成されていません。化学的性質などがわかるには,まだ時間が必要です。
 既述の小川の新元素発見のことを想い出しましょう。ロンドン大学に留学していた小川は、スリランカ産の鉱物トリアナイトから、それまで知られていなかった新元素を分離します。彼はこの新元素の原子量を約100と推定,周期表の空き場所である43番に当てはまる元素と考えました。1908年,小川は師であるW. Ramsayの勧めに従い、この元素を「ニッポニウム」(元素記号Np)と名づけて報告しました。
 でも、この発見は他の研究者による確認ができず、小川の弟子たちでも単離に成功したものはいませんでした。こうして新元素ニッポニウムは,周期表に正当な居場所を得ることなく、幻と消えてしまいます。このように、一度提案されながら、消えてしまった「幻の元素」の名前は、新しく発見された元素には使えないという規定があります。このため、新たに作り出された113番元素に最もふさわしいと思われる「ニッポニウム」の名は,残念ながら使用できないのです。
 科学の世界における命名の基本は自由です。でも、元素名に関しては,いくつかの規定があるため、勝手に名前をつけることはできません。まず、金属元素と推定される元素については、語尾を「-ium」とすることになっています。また、語幹についても国名などの地名、科学者の名、その元素の性質、神話にちなむ名前などから選ばれるのが慣例。アメリシウムフランシウムゲルマニウムなど国名にちなむ元素が多いため、113番元素も「日本」にちなむ命名が有力視されました。でも、前述のように「ニッポニウム」は使用不可。
 113番元素の名称は「ジャポニウム」が最有力とみられていましたが、2016年6月には研究所のチームがIUPACに提出した名称案は「ニホニウム」(元素記号:Nh)で、11月に正式決定されました。
<第二性質は感覚的なのか、あるいは色は主観的か>
 私たちが住む物理的世界は数学によって表現され、信頼できる仕方で説明や予測ができます。これが科学革命の目標で、その実現をスタートさせた一人がガリレオ・ガリレイでした。数学が嫌いな人は物理学も嫌いであり、その逆も成り立つのは二つが密接に結びつているからですが、そのような結びつきを生み出したのがガリレオだったのです。このようなガリレオの研究スタイルを嫌いな人が多いのは確かです。でも、科学に対する通念はこの1世紀の間に大きく変わり、言語が数学的であるゆえに、数学が使われる範囲はますます増え、ガリレオの方法では扱えないと思われていた事柄が続々と解明されてきました。そんな時期に、改めてガリレオ批判を見直してみましょう。
 17世紀前半に活躍したガリレオは、近代科学の実証主義的方法論や数学的自然観を生み出しました。数学的な理論と実証的な実験という二本立てを駆使して物体の落下法則を発見しました。数学の言葉で書かれる自然という表現は、彼の数学的自然観を見事に示し、物体の「第一性質」と「第二性質」の区別につながっています(「第二性質」という用語は哲学者ロックが後に使って有名になった用語です)。
 第一性質としては「大きさ、形、数、運動の速さ」などが挙げられます。これらは物質そのものがもっている実在的な性質であるのに対し、味、匂い、色彩などは物体がもっているのではなく、感覚する人間がもつ性質であり、客観的に実在していないとガリレオは考えました。ガリレオはこの区別の基準をはっきり語っていません。おそらくガリレオは、数学的に処理可能な性質を第一性質とし、そうでないものを第二性質としたのではないかと推測できます。ガリレオは数学的自然観をもとに、数学的に表現できない性質として感覚的なものを考えたのでしょう。
 味や匂いや色彩などは、17世紀のガリレオの時代では数学的に表現できる見通しが立っていませんでした。その際の典型的な謂い回しが、「量」的な性質と「質」的な性質の違いという表現です。ガリレオは自然界を「量」と「質」に分け、質的なものを主観的な領域に押しやり、自然界を探究するには数学的手法の適用で十分となると考えたのでしょう。
 ガリレオは二つの性質を峻別した上で、人間の視覚以外の感覚について、「四つの感覚が四つの元素と関連している」と主張しました。17世紀の科学革命の立役者ガリレオが感覚を論ずるのに古代ギリシア四元素説を持ち込んだのです。エンペドクレスやアリストテレスは、この世界の根源的元素として「火、空気、水、土」を挙げ、これらの四元素によってこの世界のすべてが構成されている、と考えました。その枠組がガリレオにも継承されていたのです。例えば、触覚については、その感覚が土の元素に関連しているとし、味覚と臭覚については、「味を生じさせるためには空気中を落下する液体が、匂いを生じさせるためには空気中を上昇する火が、ある類比をもって対応している」と言います。さらに、音には、空気元素が対応していると考えます。そして、それらの感覚を生じさせるために、それらの元素の微粒子の「大きさ、形、数、遅いもしくは速い運動といった以外のものは必要ない」と断言します。微粒子の形や運動によってさまざまな感覚が生じる、というのはデモクリトスの原子論に由来するもので、原子論がガリレオの数学的自然観に合致することを見抜いていたようにみえます。
 考えてみれば、物質の化学的理解は18世紀の後半から19世紀の初頭に急速に進展し、ラヴォアジェやドルトンらによって、化学分野の近代化が達成されたのですから、17世紀前半のガリレオアリストテレス四元素説を温存していたとしても不思議ではなく、それを原子論に結びつけたことは化学革命を先取りしていたとも言えます。
 物理学と天文学の研究者ガリレオに反対する陣営となれば、アリストテレス派の哲学者たちとアリストテレスの自然哲学でした。運動理論でも地動説でも、ガリレオアリストテレスに反対しました。ところが、感覚を考察する際に、他の道具立てが当時はなかったため、宿敵アリストテレスの手札を使うしかなかったと考えることができます。そのため、人間の感覚と密接な係わりのある「第二性質」については、重要性を認めたくない、という意識に上らない思考が働き、物体には実在しない性質、とみなしたくなったのではないでしょうか。
 ガリレオは、数学的に表現される世界こそ真の世界であるという強烈な自負心をもっていました。フッサールガリレオを隠蔽の天才、ガリレオの倒錯とさえ呼んでいます。感覚については、数量化の構想を仮想的には提示できるものの、基本となる概念をアリストテレスから借りてこざるを得ませんでした。これが思想史の一つの捉え方であり、ガリレオフッサールの対比が科学、数学、哲学の間の関係とドラマティックに理解される図式なのですが、私にはこれは一面的過ぎると思われて仕方ありません。
 ガリレオがかなり強引に、数学的自然観の方針を貫徹しようとしていたことは確かでしょう。そのため、アリストテレスの臭いがし、数量化の見通しの立たない「第二性質」を客観的世界から放逐したかった、と考えると、対立構図がはっきりし、わかりやすく見えるのですが、それが私には納得がいかないのです。ガリレオが世界の姿を隠蔽したとすれば、その同じ知識や手法によって暴露したことはどうなるのでしょうか。
 そこで、再度ガリレオの仕事と思想を確認しておきましょう。ガリレオ・ガリレイGalileo Galiei, 1564-1642)はイタリアの数学者、物理学者、天文学者。パトヴァ大学数学教授の後、トスカーナ大公メディチ家)の宮廷数学者・哲学者となります。彼は物体の運動をその物体に内在する性質やその物体が世界のなかで占める場所から切り離して理解した最初の科学者です。物体は数と量によって表され、幾何学的な空間と時間の中で運動します。彼はそれを実験を通じて明らかにし、客観的な数学言語によって表現しました。また、当時発明されたばかりの望遠鏡を改良し、木星の衛星や太陽黒点を発見しました。
落体の法則:一様加速運動で落下する物体が任意の時間で通過する距離の比は時間の二乗の比となる。
慣性の法則の先駆け:「あらゆる障害が取り除かれたときに、ある動体が水平面の上に投げ出されたと想像する。この平面が無限に延びているなら,動体の運動はその上で際限なく均等に続くであろう。」(『論議』1638年)
「ある物質とか物体とかを考えるやいなや、次のようなことを思い浮かべる必要にかられます。すなわち、その物体がしかじかの形態によって境界づけられているかどうか、他の物体と比べて大きいか小さいかどうか、しかじかの場所と時間に存在しているかどうか、動いているか不動のままであるか、他の物体に接触しているかいないか、単独であるか数個であるか多数であるかなどのことです。いかなる想像力を働かせても、物体をこれらの条件から切り離すことはできません。しかし白いか赤いか、苦いか甘いか、音を出すか出さないか、芳香がするか悪臭がするかといった特性は、その物体に必ず伴うものと理解されなければならないとは思えません。それどころか、感覚がその特性に影響されなければ、理性や想像力では決してそれらはとらえられぬでしょう。それゆえ、これらの味や匂いや色彩などは、主体にとっては何ものでもなく、単なる名辞に過ぎず、感覚主体の内にしか存在せず、したがって動物(つまり感覚する人間)の方が取り除かれてしまうと、これらすべての性質は消滅・破壊されてしまうと考えられるのです。」(『偽金鑑識官』1623年)
 ガリレオは数学への信頼を『偽金鑑識官』の中で次のように表明しています。「哲学は、眼の前にたえず開かれている、この広大な本(私は,宇宙のことを言っている)に書かれているのです。しかし、その本は、もし人がまずその言語を理解し,そこに書かれている文字を解読することを学ばないのであれば、理解されることはありません。その本は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学図形であり、これらなしでは、その本のたった一つの語さえも、人間の力で理解されることはありません。(Opere, 6, p.232.)」
 さて、このようなガリレオの考えを強烈に批判したのがフッサールです。そこで、「自然の数学化」についての現象学的な一般的批判をまとめてみましょう。
 学問が実証主義的になると、真理は客観的に確定できるものに限られ、そのため「生」が排除されてしまうことになります。生の意味や価値や意図といった内面的なものは、実験や観測では検出できないからです。生を排除してしまった学問は世界の中で生きる人間に対してその生の意味を与えることができなくなります。
 ガリレオは科学から私たちの生を取り去り、そこに新しい科学をつくりました。ガリレオ的科学とは、世界を物質的な事物の秩序に基づいて組み立てることに特色があり、近代科学は最初から私たちの生を排除していたのです。ガリレオによって生を排除された世界が現実の世界だと見做され、「幾何学的、数学的に規定された世界」と「私たちの主体的生が体験する生活世界」が取り違えられたのです。近代科学は生まれながらにして学問の「危機」を胚胎していたのであり、ここに近代科学の「原罪」的性格が指摘できます。
 ガリレオは自然を書物と見なし、「数学の言語」で書かれていると考えます。「書物」としての自然は、数学の言語で規定可能な数量的自然であり、単純に直接的に経験出来る世界とガリレオは考えています。ガリレオにとっての考察対象は「抽象的数学的諸規定に還元された自然」でした。「自然という書物」を数学的文法によって読み解いた成果が、近代科学の中核を占める力学(=機械学)です。そこで前提されているのは、自然界は数学的に提えることが可能であるということです。
 カリレオが数学的文法によって読み解こうしているのは数学の言語で捉えられる自然です。ガリレオは、感覚的に捉えられる世界の多様性は理性的分析によって統一的、総合的な把握が可能であると考えました。そこで前提されていたことは、自然を記述するための最も詳細な方法として、機械的な形、大きさをもった抽象的単位の運動に全てを還元するということであり、自然考察に際して、要素還元主義を採用するということでした。
 自然は,一定の秩序(文法としてのロゴス)に従って構成されており,私たちが数学という言語を片手に一歩一歩解読作業を進めていけば、やがては「真理の王国」に到達できるとされています。ガリレオは「自然は一様であり、 常に同じ仕方で振る舞う」と捉え、「因果性の支配する具体的な宇宙としての無限の自然全体」を「純粋幾何学」によって記述しようとしたのです。しかし、それは生き生きとして豊かで暖味な自然の内で「数学の言語」で扱うことのできる対象のみを研究の対象にするということであり、「自然の理念化された形式のみを抽出すること」に他ならないのです。そこには自然が如何に質的に多様性に富むものであろうとも、一般的な運動法則の形によって捉えられるもののみが、科学的に合理的であるとする理解が優先されているのです。
 自然は、測定され、計算され、全てのものがミクロの構成要素にまで還元されることによって、操作が容易な対象へと変えられたのです。それは自然に対する支配の増大であり、それが自然を感性や内的な繋がりのないものと見なすという傍観者的意識を育んだのです。
 自然を認識するには,自然そのものの的確な測定が不可欠です。そのためにガリレオは物体の性質が「第一性質」と「第二性質」とに区別しました(記述参照)。ガリレオにとっては、大きさ、形状、重さなどユークリッド幾何学によって数量化可能な「第一性質」のみが実在的な自然の構成要素でした。
 ガリレオにとって、自然を純粋幾何学によって捉えることは、自明の事柄でした。フッサールによれば、ガリレオによる「自然の数学化」は、「二重の理念化」によって行われます。第一は「完全性の理想」が理念的な「極限形態」の世界として構想され、量的操作が確立される段階です。測定術における経験的、実用的な客観化の機能が「理念化」され、「純粋幾何学的な思考作業」に転化されることによって幾何学が生まれたのです。第二は物体の感性的性質の「間接的数学化」の段階です。「理念化」を通して、「日常的な生活世界」が「数学的な基底を与えられた理念体の世界」にすり替えられたのです。数学的諸規定に還元された自然が現実に存在し、「厳密な意味で認識されうる普遍的妥当的な唯一のもの」と「取り違えられた」のです。ここで、「生活世界」とは、科学的営為の究極的基盤とされるものです。生活世界とは「あらゆる理念化に際して前提となる現実として直接に与えられているもの」、あるいは私たちの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、又経験されうるこの世界のことです。
 このようなガリレオ批判は20世紀中葉までならある程度わかるのですが、現在ではそのままでは通用しません。社会科学、心理学、脳科学などの領域ではコンピューターと数学言語によって飛躍的に知見が増え、心の内側が次第に明らかにされつつあります。感覚、信念、欲求、意識などは着実にわかり出しています。それらを挙げるまでもなく、手元にある「紫」という色感覚とその表現についてみてみれば、第一性質や第二性質という区別が便宜的、暫定的なものであることが誰にもすぐわかる筈です。
 万葉集の時代から古今集時代にかけて紫が染料名から色彩語へと転化していく過程がありました。紫が色彩語としての地歩を確立する上で和歌が果たした役割は予想以上に大きく、『古今集』では色彩語としてまだまだ発展途上の段階にあった紫ですが、次第に藤や菊などとの結びつきを深め、色彩語として次第に確立されていきました。
 ヨーロッパでの天然染料は貝紫が主でしたが、日本では紫草の根が染料となっており、『紫』という名もこれが語源です。その名前も群生植物であったことから『群(むら)』と『咲き』の二つが合わさったものです。
 日本では平安時代にもっとも人々から愛され、色の濃さによって「藤」、「桔梗」、「菖蒲」など、花の名前から多くの色名が生まれました。自然界では生命とかかわる紫との原初体験は、やはり肉体の色の変化です。打ち身の際に現れる紫斑や死体に現れる死斑。どちらも同じ色で、同じ音です。いかにも不安定で、両義的な意義のある紫ですが、もともと紫は赤と青の中間あたりの色であり、死や寒色である青の意味と再生や暖色である赤の意味と、両方を持つ不思議な得体のしれない曖昧な色でした。
 歴史的には冠位十二階以外にはさほど重要そうな歴史を感じない色ですが、その昔紫は珍重され、古代中国と律令時代の日本、さらには地中海のフェニキアなどでは高位を示す色とされていました。さらに中世ではローマ教皇枢機卿の衣服の色でした。
 古代紫(こだいむらさき)は僅かに赤みを帯びた、くすんだ紫色のことです。紫草という多年草の根による紫根染めで染められていて、江戸時代に流行した青みを帯びた派手な紫が「今紫」と呼ばれたのに対して付けられた色名です。「京紫」と同じとする説もありますが、一般的に京紫はもう少し鮮やかな色になります。東京の武蔵野に自生していた紫草で染められた紫が「江戸紫」で、紫の本場と考えられるようになり、江戸っ子の自慢の色になりました。江戸紫は青色の強い紫で力強い活気を表してます。京紫は実用性を暗示する青色を避けて優雅さを尊ぶ、紅みの強い紫色です。この紫草は日本の絶滅危惧植物50種の中に入るほど貴重な植物です。ちなみに紫草は白い花を咲かせます。こんな「紫」は第一性質と第二性質とを共に含んだ色です。
*これまでの私の何回かの投稿を修正し、まとめたものです。