セザンヌ:風景画と山水画の統合(2)

 雪舟の「秋冬山水図」と等伯の「松林図屏風」は共に代表的な山水画セザンヌがそれらをどう評価するのかずっと気になっている。世界とその表象や描写についての西欧での経緯はつまるところ、次のようなもの。3次元空間を正確に2次元画面に描写、写生するには視点の固定が不可欠と考えたのがルネッサンス以降のヨーロッパ。そのために透視図法を開発。画家の視点を固定しないと透視図法は使えないし、カメラオブスキュラもピンホールを通った光を利用するため、やはり視点の固定が必要。対象は視点を一つ固定して描画されるが、人間は実は一点透視図法(遠近法)の単数視点で物体を見ていない。単数視点で物体を眺めると空間認識がうまくできなくなり、ゲシュタルト崩壊を起こすことになる。
 人物のからだを正面、顔は真横、目は正面と、異なる角度からながめた人物のパーツを寄せ集めた多数視点描画法の代表がエジプト絵画。人間の空間認識システムから考えれば、多数視点描画が人間の見方。中世の絵画にも多数視点描画が多く見られる。その後、視点の固定によって透視図法が導入され、写実的な単数視点描画が完成。しかし、人間の空間認識システムは多視点が基本のため、単数視点描画が洗練されればされるほど、それがしっくりこないと感じる画家がでてくる。その一人がセザンヌセザンヌは多数視点描画法で静物や風景を描いた。彼の静物画は、さまざまな方向から見た多数視点をマイルドに組み合わせ、自然に受け入れることができる画になっている。セザンヌのこの姿勢はピカソらに受け継がれ、キュビズムが登場。多視点から対象物を二次元画面上に意識的に再構成するのがキュビズム。しかし、極端な一つだけの視点に違和感を感じるように、多数視点を強調したキュビズムにも人は違和感を感じる。面白い実験でしかなかったキュビズムだが、人間本来の空間認識法である多数視点を描画に取り入れ、人間の知覚を主役にした主観的な絵画への途を拓いた。
 結局、科学的な世界観の基礎に置かれた世界の描像は一つの視点をもつ透視画的なものから複数視点や視点のない描像へ変わり、文脈に相対的な世界が複数あることに落ち着く。客観的な一つの実在世界から主観的な複数の知覚世界へと世界像が転回していく中で、それをなぞって見せたのが西欧の絵画ということになる。
 雪舟は上述のような世界の構造や知覚の経緯をすべて超越してしまっている。視点も透視図法も無視し、それらを逸脱することによって、世界を世界観の姿として描いてみせた。複数の視点を使って描くという西欧のつつましい実験に比べれば、世界を逸脱し、俯瞰することによって描いたのが雪舟。それだけでもセザンヌを遥かに凌駕しているというのは言い過ぎか。
 「松林図屏風」は未完ゆえに私たちの心を惹きつける。完成されていたら、まるで違ったものになっていたことは、等伯の他の山水画を観れば簡単にわかる。だから、松林図はダ・ヴィンチデューラーのデッサンと比べた方がいい。濃霧の中の松林に引き込まれる理由は、デッサンのもつ余白や空白が日本画の余白や空白とうまく混同されたところにある。浮世絵の余白とセザンヌの余白は同類だが、等伯の余白はデッサンの余白と同類である。

*18日の「視点の逸脱」の書き直しである。