時間の把握と時間の意識

 人は特定の観点や立場を決めないことには、物事について述べ、意見を主張し、議論し合い、結論を得ることができません。眼前の所与、つまり手元にある(見たり、聞いたりした)感覚的なデータを目安にして自らの観点や立場をまずは決めるということは大変人間的なことです。それは微笑ましくさえあるのですが、そのごく一般的な手順を眺め直してみましょう。言い換えれば、胸を張って自己主張する背後に潜む前提を支えている構図の話ということになります。
 隠れた前提には色々なものがあります。その最もわかりやすく、多くの人の関心を集めてきたのが「時間」(他の隠れた前提の代表となれば、それは「心」)。「時間」は「空間」と並んで昔から多くの人が注目し、絶えず議論されてきた前提で、身近なものでありながら、どこか捉えがたい神秘的な匂いが漂っています。時間は見えませんし、触ることもできません。時間を直接言葉で表現できませんし、その結果、時間を測るには工夫が求められます。その「時間」を理解し、使うための構図がどのようなものかを「…化」という表現を使って考えてみましょう。

(時間と運動)

(1)時間の経験化(可視化)
 経験主義者が大切にするのはもっぱら知覚経験だと盲信されてきました。ペットの心を感じることができると言い張っても、それによってペットの心が経験的に確かめられたとは誰も認めません。宗教体験を経験主義者は「経験」の範疇に入れないどころか、それは誤った経験であると切り捨てる人も少なくありません。また、心の葛藤のような心理体験も実証しにくいということで遠ざけられてきました。誰もが信頼できる「経験」は日常経験よりずっと狭く、その一部に過ぎないのです。知覚経験の中で多くの人が信頼するのは健全な視覚経験です。人の場合、見ることが経験を生み出す代表となっています。年を取って時間に余裕ができ、暇になると、人は周りの風景を楽しむようになるものです。物見遊山だけでなく、日常生活の中でも自然の変化を観察し、「時の流れ」を味わうようになります。眼で見て感じる「時の流れ」にはどのような例が挙げられるのでしょうか。季節の変化、一日の気象変化、川の流れ、車の流れ等々、現象変化が常に私たちの周りで起こっていて、目に見えるものの中から不変の恒常的なものを探すのが難しいというのが日常の現象世界の特徴です。そのような捉え方が昔から習慣的になされていて、自然現象は常に変化する現象という一般的な理解が普通になっています(万物流転)。そして、そのような現象変化の経験が時間に関する一般的な通念を生み出すことになります。自分の周りで起こる出来事は現象変化として知覚されます。特に、その変化は目で見て一目瞭然のものが多く、変化を見ることによって私たちはそれを調べ、知り、学習します。「時間を経験する」とは「変化を知覚する」ことであり、それが記憶され、蓄積されて、時間の学習が行われることになるのです。これが「時間の経験化」であり、比較的安定した時間観念が知覚経験の積み重ねによってつくられてきたのです。
(2)時間の常識化(言語化
 時間の常識化とは経験化された時間を共有すること、つまり共通体験化が常識化と言うことです。言語はグループの紐帯のための必須の道具。言語は私たち人間にとって最も大切な能力であり、学習しなければ生活できない程重要な道具です。誰もが時間を常識として共有し、時間を共通に認識するために、互いの時間観念について知り合い、確かめ合うことが不可欠です。互いの感覚経験を直接にシェアすることはできませんが、その代わりにできるのは言葉を通じてそれをシェアすることです。経験の共有は言葉を通じて行われます。したがって、時間観念も言葉を通じて共有され、その結果として常識的な時間観がつくられ、それがさらに学習によって集団内にシェアされていくのです。そこには言語が共有されているだけではなく、知識の共有もあって、歴史や文化が伝統として共有されている社会があります。常識は集団社会がないと存在しないのです。常識は生活する上での常套手段であり、共同生活のための知恵でもあります。
 時間もその常識の一つとして集団に共有されてきました。そこには常識がもつ特徴が見事に露出されています。その特徴は、時間の専門家はおらず、誰もが時間についての注釈家になることができるということです。でも、そのためか時間と歴史の混同が始終起き、遂には物理的な時間も心理的な時間も支離滅裂な仕方でミックスされることになります。人は時間について自由に語り、誰もが勝手な自己主張を始める始末です。時間についての自由放任主義が蔓延し、その歴史は今でも続いています。歴史家はじめ誰もが時間に関して一言言うことになります。悪しき平等主義なのかもしれませんが、時間に関する議論は物理学者も文芸評論家も同等の立場でするのが民主主義化であるというような、信じられないほど滑稽とも言える誤りが横行しているのです。歴史家にも心理学者にも時間を語る資格など何もないのに、その自覚もない人たちが平気で時間を論じることに誰も異論を差し挟まないのです。
 「退屈だと時間の流れが遅くなると感じるから、心理的な時間は物理的な時間とは別である」という表現に賛同する人はいないと願いたいものです。「時間が遅くなると感じる」ことを確かめるには遅くなることがきちんと測ることのできる時間が必要で、その時間が遅くなっては困ります。したがって、その時間は心理的な時間ではありません。なぜなら、遅くなると感じる人の心理的時間を使って遅くなることを測ることはできないからです。
(3)時間の数学化(数量化)
 いつでも、どこでも同じように使える時間を表現するために必要な言語は、残念ながら自然言語ではありません。ギリシャ時代以来、私たちの知的探求は自然言語を使ってなされてきました。17世紀までの学問研究は自然言語を使って過去の哲学者の著作の注釈をするという形式で行われてきました。今でもその伝統は文系の学問研究に色濃く残っています。過去のテキスト研究は哲学、歴史、文学等では廃れておらず、今でも常識として実行されています。自分の専門領域を問われ、哲学と答えると、「誰の哲学ですか」と当たり前のように質問され、答えに窮する経験をしてきました。物理学者に「あなたが研究するのは誰の物理学?」と問う人はいません。なぜなら、物理学はテキストの注釈ではなく、実証研究だからです。
 でも、量的な表現に不得意な自然言語は正確に時間の長さを表現することが本当に不得手です。「とても長い」と「大変長い」のいずれが長いのかの判別は常人には無理です。では、不正確で信用できないのが自然言語なのかというと、そんなことはありません。自然言語のとても不思議で、魅力的な点は、見事な文学作品を生み出すための表現を無尽蔵に蓄えていることです。人工言語とは違い、自然言語は繊細、微妙、強烈、頑強な表現を底なしにもっています。
 そのような中で人間が考えた工夫は「数」を使って時間の間隔を表現することでした。そして、それを実現した器具が時計です。時計は長い歴史をもっています。時計は周期的な運動を巧みに利用することによって経過の長さを測り、それを表示するものです。では、その時計が測る時間を正確に表現するにはどうすればいいのでしょうか。それがサブタイトルの「時間の数学化」です。数学化と言うと、とてつもないような企みにも聞こえますが、数を使って時間を表現することに過ぎません。それは時計をつくることと同時に考えられた見事な技術なのです。
 連続的に経過する時間は「時の流れ」と詩的に表現されますが、それを数学的に表現する必要があります。「流れる時間」は「連続して経過する時間」であり、その連続的な経過は実数によって表現できます。なぜなら、実数は連続的(実数の完備性)であり、しかも線形で、一つの時間の直線的な変化を表現するにはうってつけの表現装置なのです。実数は時間に限らず、計量装置の計量結果を表示するのに広く使われてきていて、過去の実績という点では非の打ちようがない手段なのです。
(4)時間の科学化(可測化)
 時間の科学化には二通りあり、それぞれ独特の特徴と歴史をもっています。
(物理化)
 数学的に表現される時間は、物理世界で信頼できる測定装置とし機能しなければなりません。そのためには、時間が物理的でなければならず、物理的な対象として特徴づけができなければなりません。周期的運動、正確な振動など、自然の中には時間を表現するのに適した物理現象があり、それらは電子の性質に帰着します。その振動は規則的で、物理的な時計として使うことができるのです。
 時間の科学化とは端的に正確な時計の設計。正確な時計をつくることができ、測定の技術が進み、それらの測定結果を蓄積することから、時間の本質が何かを考え、議論し、結論に至ることができるのです。
(生物化)
 生物の歴史は進化生物学の課題。そこに登場する時間は歴史そのもの。それは物理系の変化の時間より圧倒的に長い時間です。地球の歴史を生物の世代交代を通じて理解しようという訳ですが、進化には独自の時間装置はなく、物理的な時間装置を使います。ただ、時間観念は生物種によって多様であり、各生物はそれぞれの長さの一生をもち、それぞれの形式の世代交代をもっているのです。そのような形式、形質の獲得が進化であり、それが生物の歴史なのです。ですから、物理的な時間と同じ時間を使うのですが、単純に適用するのでは駄目で、生物種に応じて異なる時間分割の仕方があり、その分割の仕方が選択され、時間分割の仕方が進化することを説明できなければなりません。

 科学化(可測化)された時間は、様々なものが入り込んだ不純な常識的(言語的)時間とは異なり、一つの物差しで測り、表現できます。意識の中に登場し、そこで使われる時間も通常の科学化された時間なのですが、「時間の意識」となると、常識的な不純で曖昧な時間に戻ってしまうのが常です。時間の意識が特別で、物理的な時間と異なるというのは哲学が生み出した根拠のない妄想に過ぎないのですが、信奉者はなくなりません。それも時間を神秘的なものにしている要因の一つです。

 

 これまでの「私たちが捉える時間の四つの姿」には「時間の意識化」が抜けていると訝る人が多い筈です。特に、哲学や心理学、そして文学に精通し、近代ヨーロッパの思想は意識への強い執着から生み出されてきたと固く信じる向きには昨日の話は端的に誤っていると断定する筈です。そのような意識崇拝者だけでなく、アンリ・ベルクソン、ウィリアム・ジェームズ、そしてマルセル・プルーストも時間こそ意識の流れとして主体的に生み出されたものと胸を張って主張する筈です。意識が自在に時間を操作できるなら、嬉しい限りなのですが、それはお伽噺に過ぎません。意識から独立した存在が時間だということは歴然とした事実です。そして、その理由を述べるのがここでの目的です。その前に、意識と時間の組み合わせが近代思想を生み出したという神話を振り返っておきましょう。古典的世界観からの脱出と銘打った多くの試みは、時間と意識のドッキングから生まれました。そして、それを行ったのが哲学や心理学、それを信じたのが文学でした。

1時間の新哲学:私的な時間

オスカー・ワイルド

 オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』では、主人公のドリアンを取り巻く物理的な時間と、ドリアンの内的経験である私的な時間が一致していません。この作品では、ドリアンの肖像画が本物のドリアンの代わりに年をとって老醜の姿に変わるのに対し、生身のドリアンは若さを保ち続けます。ドリアンがその肖像を殺すと、ずれていた二つの時間が補正され、肖像が元の若い顔に戻り、時間の進行が停止していたドリアン自身は急速に年老いて、本来の物理的な時間が戻る、という「怪奇的」な内容になっています。文学的センスとは実にいい加減で、二つの時間の補正が実際に可能かどうか問わず、補正の仕方も説明しないことを略して「怪奇的」と呼ぶようです。

マルセル・プルースト

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、語り手の「私的な」時間の中で物語が進行し、過去や未来が煩雑に行き来し、主観を通して一つの時代が語られます。過去を呼び覚ますのは、プル―ストが「無意思(志)的記憶」と呼ぶ経験。無意思的記憶とは、感覚(味、匂い、手触り、音など)をきっかけに過去の思い出が不意に蘇ってくる特殊な経験のこと。この作品では、生々しい時間経験が、物理的な時間では表現できず、個人に属した、相対的で内的な時間によって表現されることを見事に描き出しています。というのが一般的なコメント。でも、「私的」言語が否定されたのと同じように「私的」時間も「内的」時間もないのではないかという疑問は誰もが持つ疑問ではないでしょうか。

ウィリアム・ジェイムズ

 心理学者ジェイムズは、人間の意識は過去・現在・未来が行き交う流れの中にあって、計量的な物理的な時間感覚とは異なると考え、次のように述べています。

したがって意識は断片的に切られて現れるものではない。「鎖」とか「列」という言葉は、それを聞いた最初の印象の意味では、意識を適切に言い表してはいない。意識は断片をつないだものではなく、流れているのである。「川」あるいは「流れ」という比喩がこれを最も自然に言い表している。今後これについて語るとき、われわれはこれを考えの流れ、意識の流れ、あるいは主観的生活の流れと呼ぶことにしたい」(W. James(1892), Psychology

ここでジェイムズは「意識の流れ」という言葉を使っています。意識や時間は、形の定まらない流動の中で感じられるのであって、時計が秒や分を刻むような等質的なものではありません。ジェイムズは、ロックのタブラ・ラサ(白紙)に始まる伝統的な連想心理学との違いを強調し、流れる意識の性質がこれまでの心理学の射程外にあったと主張します。ジェイムズは当時優勢だった行動主義心理学が、計測できる量的なものとして精神活動を捉えるのに抗し、その精神活動の質的な側面を重視しました。水が流れるように意識が流れるというイメージは文学的ではあっても、とても曖昧なもの。流れるのは意識される出来事の生起、意識される現象の変化であって、気づく意識が流れたのでは何にも気づけなくなり、すべては水泡に帰すことにしかなりません。

(アンリ・ベルクソン

 ジェイムズと並んで当時を代表する哲学者で、時間について独特の主張を展開したのがベルクソンです。彼は、人間が過去の経験を現在に生かし、その生の時間構造を認識するという実存的なプロセスに人生の意義を認めました。彼は記憶の場を形成する時間の在り様を「持続」という独特の用語で呼び、人間の意識の流動的な性質をジェイムズと同じように強調しました。ベルクソンの思想は、人は時間のうちに生きて、その中で自分の人格、持続する自我をもつ、というものです。内的な生は空間ではなく、時間の中で展開していきます。『形而上學序説』(1903)の中で、私的時間が支配する精神の様子をベルクソンは、ゴムボールが無限に縮む過程を使って説明しています。意識は気づきであり、気づく内容が持続することは内容の特徴であって、気づくという意識の特徴ではないことを確認したうえで、次の引用を読んでみてください。

それ故むしろ無限に小さなゴム球が収縮して、できれば數学的一點となつたところのものを心象に描いて見ることにしよう。これが漸次に引延ばされて點が線となり、線が不斷に長さを增して行くものとしよう。そこで注意を線そのものへ固定せずに線の引かれる動作へ向けて見よう。ここで忘れないやうにしたいのは、この動作は持續にも拘らず、停止なしに遂行された場合は分割のできないものだといふこと、もしどこかで停止したとすれば動作はもはや一つではなくて二つになつてをり、分割された二つの動作の各々は不可分割であること、分割できるのは動いてゐる動作そのものではなくてむしろ通つて行つた跡として空間のうちにそれが殘して行くところの動かない線だといふことである。最後にこの運動の基底となつてゐる空間を捨象して、この運動だけを、つまりゴム球の緊張または伸張、つまり動きそのものla mobilité pure だけに注目して見よう。さうすれば持續しながら發展してゐる我々の自我に一層近いところの心象を持つことになるであらう。(H. Bergson (1903))

2私的な時間の表現:絵画と文学のおける時間

バージニア・ウルフ)

 バージニア・ウルフはエッセイModern Fiction の中で、それ以前のエドワード朝時代の三人の代表的な作家について「精神ではなく、身体に関心をもつ」として「物質主義者(materialists)」と名指しで批判し、個人の内的存在を犠牲にして外的世界を重視する過ちを犯していると糾弾しました。その時代のリアリズム小説のしきたりによって描かれる一貫性があり秩序立った物語の構成にウルフは懐疑を抱き、ベルクソン流の個人の内的経験、心理により強い関心をもちました。
 この時代のモダニズム小説と詩は、「今ここ」という現在性、瞬間を強調した点で共通しています。ジョイスは「エピファニー(顕現)」と自ら名づけた宗教的な体験を日常生活の中に見つけることを芸術家の使命としました。ウルフはMoments of Being というタイトルの作品で、瞬間性に着目しました。ガートルード・スタインは時間的に現在という瞬間を拡大する方法を編み出しました。小説の中で現在時制を連続して使い、同じフレーズを何回も繰り返すことで「現在」を語ろうとしました。単語、語句を線状的に連ねる言語は、本来的に時間的な要素に支配されている表現媒体です。スタインはその制約を、書き方の工夫で破ろうとしたのです。レトリックで「現在、瞬間」がより鮮明に把握できるならば、その同じレトリックによって現在や瞬間をぼやかし、場合によっては消失させることも可能で、策士策に溺れるということになってしまいます。

(レッシング)

 次に絵画における時間の問題をみよう。時間は、絵画という芸術ジャンルに本質的になじまないものとされてきました。レッシングは『ラオコオン』において、芸術の範疇を時間芸術と空間芸術という二つの形に分け、時間芸術に属するのが詩をはじめとする言語芸術と考えました。これに対し、空間芸術とは絵画や彫像などの造形芸術を指しています。時間芸術はリアリズム小説がそうですが、それ自体が物語の進行を助けるために線形的な時間の経過を必要とします。一方、造形芸術は、1枚の絵画作品や彫刻を作り上げる過程で、芸術家の視線はどんな角度からも、どんな速度でも動かすことができるだけでなく、空間的に存在しています。でも、時間の連続性を醸し出すのは得意ではありません。
 レッシングによれば、詩と絵画は創作原理を異にします。絵画がある一瞬を切り取ってその空間に焦点をあてるのに対し、継起する時間を扱うのが詩です。「あくまでも時間的継起は詩人の領分であり、空間は画家の領分である。このことに変わりはない」とレッシングは主張します。また、「絵画は、その共存的な構図においては、行為のただ一つの瞬間しか利用することができない。したがって、先行するものと後続するものとが最も明白となるところの、最も含蓄ある瞬間を選ばなくてはならない」として、その瞬間的、刹那的な特徴を指摘します。

メルロー=ポンティ)

 知覚論の立場からセザンヌを考察したメルロー=ポンティは、セザンヌの絵画の中に、異なる時点に応じた多視点的な知覚の出会いが組み組まれていることに注目しています。

セザンヌの天才は、画面の全体的な配置によって、画面を全体として見た場合にはさまざまな遠近法的デフォルマションが、それとして目立つのを止めるようにする点にある。ちょうど自然な視覚においてそうであるように、これらのデフォルマションを、ただ、生まれ出ようとしている秩序や、われわれの眼前に立ち現われ形をなしつつある対象などの印象を生み出すことにのみ役立たせている点にある(Merleau-Ponty(1948) Sens et non-sens 『意味と無意味』)。

同一空間内で異なった視点が同時的に存在し、そこに時間的な継起が生まれるところにメルロー=ポンティは着目します。彼はセザンヌの絵の中に時間の推移が含まれていることを著作ではっきりとは語ってはいませんが、同じく『意味と無意味』の中では「われわれの眼が、幅広い表面を見わたす場合、それが次々と得るイマージュは、さまざまな異なった視点から得られるものであって、そのために、その表面全体は、ふくれあがって見えるのである」(Merleau-Ponty, 1948)と指摘します。ここで「次々と得るイマージュ」、「異なった視点」という言葉が使われ、知覚の断片同士の接合に意味があることを強調しています。これは時間の連続性とその中で生起する空間を一体として受け取る知覚の厚みを表したものと解釈できます。

 古典的世界観は一定の認識のパターン、手法をもっており、20 世紀までのそれはデカルト的二元論やニュートンの力学に基づいた時間と空間感覚による安定した客観的世界を前提としていました。でも、「時間と空間」の安定したペアーが揺らぎだすと、世界を表象する仕方も変わっていきます。モダニズム芸術運動の流れと並行して起きていたのが新しい時間哲学でした。私たちの精神活動における時間的な流動性を重視する思想がモダニズム期に広まり、ベルクソンの「純粋持続」やジェイムズの「意識の流れ」という考え方が生まれました。それらは個人的な内的経験を表すために不可欠のものとみなされ、その考え方は文学にも適用され、従来の遠近法に基づいた外からの視点ではなく、人間の心の内側へと向かう新しい視点を生みだしました。こうした認識手法の変化は空間芸術である絵画の世界にも及び、本来は「見えない」はずの時間要素を盛り込んで、新しい表象を求める動きが起こったのです。
 
 さて、「時間の意識化」とは何なのでしょうか。私たちは、直接に時間を意識する、つまり時間に気づく(時間が経過することに気づく)ことはできず、間接的に現象変化を通じて時間の経過に気づくしかありません。既に述べた幾つかの「…化」によって時間に気づくのであり、それが時間の意識化なのです。時間の経過に気づくことは本能的なものだけではなく、学習によって獲得された知識も必要で、総合的な心的働きなのです。
 では、意識の中の時間とは何なのでしょうか。意識についての表象主義の立場からは、意識の中の時間とは世界の中の時間のことです。意識の中の時間が指示する時間は世界の中の時間です。私たちは物理世界での変化を通じて時間を意識する、時間に気づくのであり、意識の中に時間を私的に内蔵している訳ではありません。
 ここまで文句ばかり言ってきました。それも哲学、心理学、文学の近代化の中の時間観にケチをつけてきました。一言で言えば、私的時間はないのだから、意識の中で時間を私的に使ってはならない、ということです。