古典的世界観からの脱出(と見えるような多くの試みとそれらの結果:例えば、時間)-あるいは、哲学の独断とそれを信じた文学の夢

<私的な時間とその表現>
  オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』では、主人公のドリアンを取り巻く物理的な時間と、ドリアンの内的経験である私的な時間(*)が一致していません。この作品では、ドリアンの肖像画が本物のドリアンの代わりに年をとって老醜の姿に変わるのに対し、生身のドリアンは若さを保ち続けます。ドリアンがその肖像を殺すと、ずれを生じていた二つの時間が補正され、肖像が元の若い顔に戻ります。一方、時間の進行が停止していたドリアンは急速に年老いて、本来の物理的な時間が戻る、という怪奇的な内容をもっています。SFあるいは怪奇小説として今では凡庸でも、ゲイの作者の描く猟奇的な時間トリックの世界が独特の印象を読者に与えてきました。
*「私的な時間」に匹敵する内的なものとなれば、「私的な言語(private language)」が思い浮かびます。いずれも荒唐無稽なものの如くに否定される傾向が強かったのはギリシャ哲学的な伝統のためと考えられます。この場合、「私的なもの」は「客観的なもの」に対比的に捉えられています。「私的なもの」の代表は「私自身」ですが、「私」が哲学で取り上げられ出すのは近代に入ってからのことです。

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、語り手の私的な時間の中で物語が進行し、過去や未来が煩雑に行き来し、主観を通して一つの時代が語られます。過去を呼び覚ますのは、プルーストが「無意思(志)的記憶」と呼ぶ経験です。プルーストが無意思的記憶と呼ぶのは、感覚(味、匂い、手触り、音など)をきっかけに過去の思い出が不意に蘇ってくる特殊な経験のことです。生々しい時間経験が、物理的な時間では表現できず、個人に属した、相対的で内的な時間(記憶)によって表現されることをこの作品は見事に描き出しています。
 心理学者ジェームズは、人間の意識は過去・現在・未来が行き交う一つの流れであって、計量的にとらえることのできる物理的な時間感覚とは異なると考え、次のように述べます。
「したがって意識は断片的に切られて現れるものではない。「鎖」とか「列」という言葉は、それを聞いた最初の印象の意味では、意識を適切に言い表してはいない。意識は断片をつないだものではなく、流れているのである。「川」あるいは「流れ」という比喩がこれを最も自然に言い表している。今後これについて語るとき、われわれはこれを考えの流れ、意識の流れ、あるいは主観的生活の流れと呼ぶことにしたい」(James (1892), Psychology)(*)
世界の変化と意識の流れが混然一体となった表現が次のような例ではないでしょうか。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし(『方丈記』)。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす(『平家物語』)。

 ここでジェームズは「意識の流れ」という言葉を使っています。意識や時間は、形の定まらない流動の中で感じられるのであって、機械時計が秒や分、時間を刻むような等質的なものではありません。ジェームズは、ロックのタブラ・ラサ(白紙)に始まる伝統的な連想心理学との違いを強調し、意識の流動的な性質がそれまでの心理学の射程外にあったと主張します。ジェームズは当時優勢だった行動主義心理学が、計測できる量的なものとして精神活動を捉えるのに対抗し、その精神活動の質的な側面を重視しました。しかし、「測れるものは量だけで、質は感じられるだけ」というジェームズの時代の考えは21世紀では偏見に過ぎず、質の把握とその表現は随分と進んでいます。
 ジェームズと並んで当時を代表する哲学者で、時間について独特の立場を展開したのがベルクソンです。ベルクソンは、人間が過去の経験を現在に生かし、その生の時間構造を認識するという実存的なプロセスに人生の意義を見出そうとしました。彼は記憶の場を形成する時間の在り方を「持続(durée)」という独特な言い回しで呼び、人間の意識の流動的な性質をジェームズと同じように強調しました。ベルクソンの思想は、人は時間のうちに生きて、その中で自分の人格、持続する自我をもつ、というものでした。内的な生は空間ではなく、時間の次元において展開していきます。『形而上學序説』(1903)の中で、私的時間が支配する精神の様子をベルクソンは、ゴムボールが無限に縮む過程に見立てて説明しています。
「それ故むしろ無限に小さなゴム球が収縮して、できれば數学的一點となつたところのものを心象に描いて見ることにしよう。これが漸次に引延ばされて點が線となり、線が不斷に長さを增して行くものとしよう。そこで注意を線そのものへ固定せずに線の引かれる動作へ向けて見よう。ここで忘れないやうにしたいのは、この動作は持續にも拘らず、停止なしに遂行された場合は分割のできないものだといふこと、もしどこかで停止したとすれば動作はもはや一つではなくて二つになつてをり、分割された二つの動作の各々は不可分割であること、分割できるのは動いてゐる動作そのものではなくてむしろ通つて行つた跡として空間のうちにそれが殘して行くところの動かない線だといふことである。最後にこの運動の基底となつてゐる空間を捨象して、この運動だけを、つまりゴム球の緊張または伸張、つまり動きそのもの(la mobilité pure)だけに注目して見よう。さうすれば持續しながら發展してゐる我々の自我に一層近いところの心象を持つことになるであらう。」(Bergson 1903)
 バージニア・ウルフはエッセイModern Fiction の中で、それ以前のエドワード朝時代の三人の代表的な作家について「精神ではなく、身体に関心をもつ」として「物質主義者(materialists)」と名指しで批判し、個人の内的存在を犠牲にして外的世界を重視する過ちを犯していると糾弾しました。エドワード期は大英帝国の繁栄期であり、物質的な豊かさと自己満足と、華美絢爛をその特色とします。その時代のリアリズム小説のしきたりによって描かれる一貫性のある秩序立った物語の構成にウルフは懐疑を抱き、ベルクソン流の個人の内的経験、心理に関心が移っていたことを示しています。
 この時代のモダニズム小説と詩は、「今ここ」という現在性、瞬間を強調した点で共通しています。ジョイスは「エピファニーEpiphany、顕現、公現)」と自ら名づけた宗教的な体験を日常生活の中に見出すことを芸術家の使命としました。ウルフにはMoments of Being という作品があるように、「瞬間」に着目しました。ガートルード・スタインは時間的に現在という瞬間を拡大する方法を編み出しました。小説の中で現在時制を連続して使い、同じフレーズを何回も繰り返すことで「現在」を語ろうとしました。単語、語句を線状的に連ねる言語は、本来的に時間的な要素に支配されている表現媒体です。スタインはその制約を、書き方の工夫で破ろうとしたのです。プルーストは『失われた時を求めて』で、自分が感じ取る「時間」を第4の次元と呼んでいます。(*)
*「私は今ここにいる」という文はいつでも真でしょうか。常識的には今ここにいない私を想像することはできません。今ここにいない私は精神的に錯乱した私だと考えられています。