他力本願と自由意思

 金子みすゞ門徒の中の門徒のように言われます。実際、彼女の多くの詩が他力本願の世界を表現していて、次の詩もその一つです。
さびしいとき
わたしがさびしいときに よその人は知らないの
わたしがさびしいときに お友だちはわらうの
 わたしがさびしいときに お母さんはやさしいの
わたしがさびしいときに ほとけさまはさびしいの
 私がさびしい時の私と他者との関わり方が様々に表現されています。私がさびしい時、他人、友人、母親はそれぞれ違った接し方をします。他人は私の気持ちを分かってくれません。友達は私の気持ちを察し、明るく振舞ってくれますが、なかなか気持ちは通じません。母親は、さびしい私を一方的に励ますことはせず、やさしく接してくれます。でも、私には本当の意味でさびしさを共有できる存在が必要なのです。私がさびしい時に「さびしいね」と素直に言われる方がずっと助かるのです。
 では、次の詩はどうでしょうか。
雀のかあさん(左側がみすゞの詩、右側は私のパロディ)
子供が        子供が
子雀         鼠
つかまへた。     つまえた。
その子の       その子の
かあさん       かあさん
笑つてた。      笑つてた。
雀の         鼠の
かあさん       かあさん
それみてた。     それみてた。
お屋根で       お屋根で
鳴かずに       静かに
それ見てた。     それ見てた。
 左側がみすゞの詩で、右側は私のパロディです。左側の詩を読むと、多くの人はハッと何かに気づかされるのですが、右側のパロディには良心のようなものを感じない筈です。その違いは雀と鼠に対する私たちの立場の違いとその意味を暗示しているのですが、「雀」を選んだみすゞの適確な感性が伝わってきます。
 篤信な浄土真宗の家に育ち、幼年期祖母と共に毎日欠かさず仏壇に手を合わせていました。次の詩は他力本願の本質を表現し、人生の不条理を理屈抜きで受け入れ、キリストの云う許し(愛)をもって生き抜くことを表現しています。植物も、動物も、そして人間も、いずれも同じで、自力でそれを行ったのではないという他力本願の考えは神や仏の絶対性に繋がっています。となると、私たちの持つ自由意志との関係はどうなるのかというお決まりの問題が顔を出すのです。
蓮と鶏
泥のなかから 蓮が咲く。
それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏(とり)がでる。
それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。
それも私の せいじゃない。
(どんな環境の中でもハスが咲く。でも、ハスが咲きたいと思ったからではない。卵が孵ってヒナが生まれ、ニワトリになる。でも、ニワトリが自ら望んでしたのではない。そんなことに私は気づいたのだが、自覚的に気づこうとしたわけではない。私の自由意志で気づいたのではない。)
*ハスの開花やニワトリの誕生、意識の存在は生物の進化の結果として説明するのが今の科学。
 この詩は浄土真宗の他力ということを如実に表現した詩と言われてきました。「泥のなかから蓮が咲く、卵の中から鶏が出る」ことを誰もが事実として知っています。でも、みすゞはそれをするのは蓮でも、卵でもないことに気がつきます。そして、その気がついたことも私のせいではないと否定し、仏の働きによって気づくように仕向けられたと考えるのです。そして、この考え方こそ浄土真宗の「他力本願」の考え方なのだと言われます。「蓮と鶏」では、蓮が咲くのも、鶏が卵から出るのも、自分の力ではないこと、そしてそのことに気づかされるのも、自分の力ではないことを詠っています。
 他人の決定は私には関与できず、全くの他力でしかないのですが、自分の決定は私が関与し、全くの自力だというのが私たちの意思の自由主義です。それは意思決定の自由であり、自覚的な決定です。信仰は他力で、日常の行為は他人頼みではない自力という分業が通常の私たちの生活になっています。金子みすゞの詩も日常世界の出来事を表現していて、自力と他力が混在している筈です。となると、彼女はこの世界とは別の世界を詠っていると考えるべきなのかも知れません。