幕末からの日本画の変容を通じて

 九州国立博物館所蔵の「ヒポクラテス像」は 谷文晁門下の渡辺崋山筆(1840)。この絵は医学の祖と称えられるヒポクラテスの肖像で、陰影の付いた頭部を巧みに描き、眼が光を反射する様子を白い絵具を点じて表わしている。崋山(1793-1841)は画家で蘭学者。山水花鳥画肖像画で、独自の画風を確立したことで知られている。田原藩(現在の愛知県田原市藩士として、藩政改革に貢献し、西洋への関心から蘭学者となり、開国論を唱えて幕府の鎖国政策を批判した。

 次は早稲田大学所蔵の宇田川榕庵(1798-1846)の「ヒポクラテス像」。1857(安政4)年に来日したポンペが伝えた蘭法医学の世評はにわかに高まり、医学生が長崎に集まり、蘭法医が日本に登場する。彼らは西洋医学の父「ヒポクラテス」像を掲げ、医学を追求した。崋山の「ヒポクラテス像」の他にも多数描かれた一つが宇田川榕庵筆によるもの。肖像左に「聖弟子宇榕拝描」と金泥で署名されている。

 高橋 由一(たかはし ゆいち、1828年―1894年)は江戸生まれの日本の洋画家。「鮭」や「花魁」を描いた画家として知られている。明治維新後に丁髷を落とし「由一」を名乗り、彼の活躍が始まる。この時彼は40歳を越していたが、西洋画の日本普及を使命として活動した。由一に留学経験はなく、本場の西洋画を知らずに彼が生み出した油絵は黒田清輝以降の日本洋画の流れとは異なる和製の写実的な油絵だった。画像は高橋の「鮭」。


 さて、宇田川榕庵は植物学および化学の祖として、日本科学史上に大きな足跡を残しているが、科学的な知識に「日本固有の知識」、「習合、混淆の知識」といった表現は的外れである。「日本固有の文化や宗教」、「日本固有の動植物」などが普通に使われる一方、科学に日本固有の科学理論があるかどうか問う人はどこにもいない。確かに日本固有の技術があってもおかしくない。「固有の、特有の、独自の、独特の」といった表現は技術、技能、芸術、文化や伝統の中で煩瑣に使われ、独自性や唯一性が文化や歴史の特徴を示す指標のように使われてきた。その理由は、それらが普遍的でなく、可変的、局所的で、諸行無常、色即是空のものだからで、普遍的、不変的でないからである。文化の習合と離散は現象的な変化の通常形態として当たり前のものと受け取られてきた。

 普遍的な知識は習合離散を繰り返す文化や宗教の中に歴史的に存在することによって、人によって知識を習合離散があるかのよう変えられてきた。プロパー(proper)な知識は「適切な、ふさわしい、正しい、本来の、まともな」ものだが、それが人の社会の知識になることによって、正常、異常、伝統、正統、異端といった概念が介在することになり、それによって、明晰判明な知識は真偽、正誤以外のものを含む人の世界で翻弄され、習合、混淆の形態に化けさせられてきた。